第七十六話 カルタゴへの帰還 ── アリサの祈り
カルタゴ本国からの急使が去った後、ハンニバルは十五年間ともにイタリア戦線を戦い抜いた戦友たちを集めた。
彼らの鎧は傷つき、肌には無数の傷痕と苦難の皺が深く刻まれていた。
だが、その瞳に宿る鋭い光だけは、十五年前と何一つ変わっていなかった。
ハンニバルは静かに兵たちを見渡し、腹の底から言葉を絞り出した。
「戦友たちよ。我らはこの地で十五年、一度として膝を折ることなくローマと戦い抜いた。
トレビアの氷雨の中でも、トラシメヌスの霧の中でも、そしてあのカンナエの赤き血の平原においても──我らは常に勝利し、ローマの喉元に刃を突きつけ続けてきた。
ここにいるお前たちこそが、私の誇りだ」
静寂の中、兵士たちは息を詰めてハンニバルの言葉を聞いていた。
「……だが今、我が故郷が滅びの縁に立たされている。
我らはこの地を去らねばならぬ」
ハンニバルはぐっと拳を握りしめ、天を仰いだ。
その声には、武門としての激しい血の涙が滲んでいた。
「負けて退くのではない! 我が故郷を守るために退くのだ!
お前たちの命と剣を、今一度私に貸してくれ。
我らはアフリカへ帰る。我が故郷を侵す者どもに、イタリアで鍛え上げた我らが鉄の拳を打ち下ろすために!」
兵士たちは、誰一人として騒ぐ者はいなかった。
かつて地中海世界を震え上がらせた最強の精鋭たちの頬を濡らした一筋の静かな涙が、彼らの答えだった。
言葉はなくとも、彼らの拳は強く握り締められ、この命、どこまでもこの男に預ける──そう物語るように、無言の決意がザワザワと陣営を揺らしていた。
出航の夜。ハンニバルは一人海岸に立ち、暗い海の向こうに広がるイタリアの大地を振り返った。
(父さん……すまない。俺は、ついにローマを跪かせることができなかった……)
夜風が彼の外套を大きく揺らす。ハンニバルは海へと向き直った。
船団は静かに波を切って船出した。
甲板で沈黙を守る兵士たちの背後で、十五年間踏みしめ続けたイタリアの影が、闇の中へと消えていった。
数日後。船団は、カルタゴ本国の南に位置する拠点ハドルメトゥムの港に入港した。
ハンニバルは久方ぶりに踏みしめる故郷アフリカの赤い土の感触を、足の裏で確かめる。
ハドルメトゥム周辺には、旧知のバルカ家の領地があった。
(……ここが、俺の帰る場所になるのか)
そう思った瞬間、ハンニバルの脳裏に少年のころの記憶が鮮明によみがえってきた。
自身の背負う過酷な宿命がゆえに敢えて遠ざけようとした、たった一人本気で愛した女性。
それでも彼の宿命、背負うもの、何もかもすべてを包み込むような真っ直ぐな瞳で、 “私が帰る場所になる” と宣言した美しい少女の姿。
『いいえ、待つわ。あなたがどれほど遠い海の向こうへ行っても……私は、あなたの帰る場所でいるわ』
だが……それは十代の少女の純粋さが言わせた幻だったのかもしれない。
今の自分は、街の少女たちから憧れの視線を向けられていた若き日とは違う。
長年の過酷な戦場が刻んだ傷と皺、そして冷酷な歳月の蓄積。
少年の頃の輝きはもうどこにもない。
彼女がカルタゴ本国のタニト神殿で、神官補佐となって奉仕しているという話は聞いていた。
それから二十年。アリサはどうしているだろうか。
普通に考えれば、カルタゴの良家に嫁ぎ、とうに神殿を去っているはずだ。
だが、ハンニバルの脳裏には、可憐だった少女の頃のアリサの面影が何度もよぎり、しばらく頭から離れなかった。
しかし、ハンニバルにはアリサの面影の余韻に浸る時間すら許されなかった。
上陸して間もなく、ハドルメトゥムにあるバルカ家の館を訪れたのは、カルタゴ元老院から派遣された重鎮ボミルカルであった。
ハンニバルは邸宅の応接間でボミルカルから直近の状況説明を受ける。
ボミルカルが語った現状は、勝利への希望ではなく、戦力の劣勢と、あまりにも致命的な本国の愚行の事実であった。
精強なヌミディア騎兵のローマ軍合流、スキピオと交わされていた過酷な和平条件──武装解除、賠償金五千タレント、ヌミディアの放棄、人質の供出。
そして、それらを一瞬で台無しにしたローマ補給船の掠奪と使者襲撃という暴挙。
「……何だと?」
状況説明を聞き終えたハンニバルは、あまりの愚かな行為に言葉を失った。
自分のいない間に結ばれた屈辱的な和平協定。
そして、不敗の英雄ハンニバルが帰還するという報せひとつで気が大きくなり、血迷った挙句に仕でかした、不義極まる掠奪と使者への暴挙。
(……自ら和平の可能性をドブに捨てたというのか)
あまりの愚かさに、胸の奥から怒りがこみ上げてくる。
ローマが精強なヌミディア騎兵を手に入れた今、戦況がどれほど絶望的に不利であるか──戦地の現実も、圧倒的な戦力差も、あの愚か者どもには何一つ見えていないのだ。
ただ『ハンニバル』という名に酔いしれ、無謀な熱狂に身を任せている。
皮肉にも、自分という存在がその者たちを狂わせ、手遅れの暴走を引き起こしたという現実に、ハンニバルは胸を抉られるような痛みを覚えていた。
ハンニバルの苦悩も知らず、無敵の英雄がアフリカの地に立ったという一報に、カルタゴ市民は沸き立っていた。
絶望に打ちひしがれていた都市の空気は、ハンニバルという英雄一人の帰還によって、まるで勝利を収めたかのような熱狂へと変わっていったのである。
市民の歓声と熱狂に迎えられながら、ハンニバルは軍勢を引き連れてカルタゴ本国へと帰還した。
翌日、ハンニバルは元老院議場へと足を踏み入れた。
ハンノ派の老貴族たちは冷たい目で彼を見つめ、商人貴族たちは不安げに顔を寄せ合っている。
そして──バルカ派の議員たちだけが、奇跡を起こす神でも見るかのような狂信的な眼差しで、不敗の将軍を仰ぎ見ていた。
ハンニバルは、ゆっくりと議場の中央へ歩み出る。
高壇の議長がゆっくりと腰を上げ、重厚だが、感情の通わぬ声で切り出した。
「ハンニバル・バルカ。十五年にわたりイタリアで戦い抜き、祖国へ帰還したことを歓迎する」
その言葉には感謝も温かみもなく、ただ義務的に発せられた乾いた挨拶であった。
ハンニバルは静かに答えた。
「元老院の命に従い、イタリア戦線の精鋭を引き連れ帰還した」
その時、議場から主戦派や民衆の熱望を代弁する議員たちの声が上がった。
「不敗のハンニバル将軍が精鋭を率いて戻られたのだ!
もはやローマに怯える必要などない! 和約など破棄して、スキピオを追い払うべきだ!」
即座に、和平派の議員が怒鳴り返す。
「黙れ! 和平を進めるべきだ! おぬしたちの軽率な行動のために、ローマとの和平が遠のいたのだぞ!」
激しい怒号と醜い罵り合いが交錯し、荒れ狂う議場。
それを無言で見つめていたハンニバルは、やがて静かに、しかし空間全体を威圧する重厚な声で言い放った。
「……勝算のない決戦など、国家の自殺に過ぎん」
その一言に、騒然としていた議場が一瞬で凍りついた。
主戦派の議員が、すがるような、しかし苛立った声を張り上げる。
「では将軍! 賠償金の支払いのみならず、我が国の命脈である海軍の解体や人質の供出まで求めてくるローマの屈辱的な条件を、そのまま呑めとおっしゃるのか!」
「そのまま呑むとは一言も言っていない」
ハンニバルの冷ややかな視線が、主戦派の議員たちを射抜く。
「イタリア戦線の精鋭を背後に控えさせ、私が直接スキピオと対峙すれば、より穏当な条件での和平も可能であった。
……だが、そなたたちは自ら和平協定を破る愚行を犯した。
もはや外交による条件緩和の道は、そなたたち自身の手によって完全に潰されたのだ」
議員たちが息を呑み、言葉を失う。
ハンニバルは感情を交えず淡々と続けた。
「イタリア戦役を生き抜いた我が精鋭一万五千は健在だ。
だが、マシニッサ率いる精強なヌミディア騎兵を手に入れたスキピオ軍に対抗するには、決定的に戦力が足りない。
本国からの兵の補充を要求する」
ハンニバルの突きつけた冷徹な要求に、議長は深くうなずいた。
「もっともな要求だ。今本国にいる兵を再編し、市中および近郊で急ぎ新兵を募ってそなたの陣営へ送ろう。
……それから、北イタリアに派遣していたマゴーネの軍勢にもすでに撤退命令を出してある。間もなくハドルメトゥムへ到達するはずだ。
その軍勢もすべて、そなたの指揮下に委ねる」
「承知した。直ちに全軍を再編し、スキピオとの決戦に備える」
ハンニバルは深く一礼すると、それ以上一切の言葉を交わすことなく、冷ややかな視線を背に受けながら議場をあとにした。
その直後のことであった。
北イタリアから帰還途上にある船団から、一艘の早船がカルタゴ港へと滑り込んできた。
「報告! 北イタリア遠征軍総司令官マゴーネ・バルカ。戦傷の悪化により、サルディニア島沖の船上にて逝去」
その報告は、ハンニバルの元へも即座に届いた。
(……マゴーネ。お前まで…… )
ハンニバルの脳裏に浮かんできたのは、凛々しく成長した将校としてのマゴーネではなく、かつてカルタゴの屋敷で自分の後を必死に追いかけてきた、幼いころの屈託のない笑顔のマゴーネだった。
イタリアの過酷な戦場でも常に健気に自分を支え、兄の背中を追い続けてくれた最愛の末っ子。
かつて地中海を震撼させたバルカの兄弟たちはみな倒れ、ついに自分ただ一人が、この荒涼とした世界に取り残されたのだ。
胸を押し潰すような底知れぬ孤独と激しい喪失感が、凄まじい波となってハンニバルを襲った。
瞳からこぼれ落ちそうになる熱いものを、ハンニバルはぐっと奥歯を噛みしめて押し殺し、静かに目を閉じ、深く息を吐き出す。
そしてゆっくりと目を見開いた時、その瞳には、悲しみを超越した、冷酷なまでに研ぎ澄まされた鉄の意志だけが宿っていた。
「……全軍に通達せよ。ハドルメトゥムにて北イタリアからの帰還軍と合流し、陣容を整える。スキピオとの決戦は近い」
カルタゴ最後の最高司令官として──ハンニバル・バルカは、滅びゆく祖国の運命をその肩に背負い、静かに立ち上がったのだった。
カルタゴ本国、タニト神殿の静謐な中庭。
昼の祈祷を終え、アリサは石畳をゆっくりと歩いていた。
奉仕を始めてからもう二十年──。
神官補佐としての務めは身に染みつき、彼女の佇まいはすでに神殿の一部のように清らかだった。
ローマ軍がアフリカへ上陸し、祖国が滅びの危機に瀕している噂は、静寂に包まれた神殿の中にも届いていた。
そんな折のことであった。
市中から通いで奉仕に来ているティアナが、息を弾ませてアリサへ駆け寄ってきた。
「アリサ! 昨日、ハンニバル将軍がカルタゴを救うためにイタリアからご帰還されたそうよ!」
「ハンニバル様が……!」
(……帰ってきたの? 本当に……?)
二十年。彼女が青春のすべてを投げ打ち、神殿に身を捧げ続けた理由はただひとつ──ハンニバルの無事を祈るためであった。
そのハンニバルが無事にカルタゴへ戻ってきた!
しかし、喜びより先に胸を刺したのは、静かな恐れだった。
(……ハンニバルはこれから、最も困難な戦いに挑まなくてはならない。果たして、無事でいられるだろうか?)
アリサは小さく息を呑み、胸元を静かに押さえた。
長すぎる神殿奉仕の歳月の中で、名門貴族の娘である彼女には、これまで幾度となく良縁の話が寄せられていた。
貴族の娘として歩むべき、当たり前の幸福。
だが、アリサはそのすべてを受け流し、ただ一人、ハンニバルだけを想い続けてきたのだった。
そのハンニバルが、いま、同じカルタゴの空の下にいる。
(……ハンニバル。私はただ祈ることしかできない。今度も無事で帰ってきて……)
その夜。アリサは祭壇の前で、タニト神に深く頭を垂れていた。
吹き抜ける冷たい夜風が、彼女の白い衣を静かに揺らす。
アリサは胸の奥で震える感情を慈しむように抱きしめ、静かに目を閉じた。
そして、神への捧げ物のように、心の奥底にあったもう一つの願いを、静かに祈りに乗せる。
(……ハンニバル。あなたが帰ってきたのなら……叶うことなら、もう一度だけ、あなたにお会いしたい)
それは二十数年前、可憐だった少女の頃の祈りと変わらぬ、ひとりの男を愛し続ける一筋で、揺るぎない祈りであった──。




