第五十一話 タラント陥落の衝撃 ── 消えゆく禁忌の軍団
紀元前二一三年も暮れようかという時期に、冬の冷気を裂く雷鳴のようにタラント陥落の報せはローマへ届いた。
南イタリアの心臓部が、ハンニバルの手に落ちた──その事実は、ローマという巨体の背骨を軋ませた。
元老院の回廊には、早朝から血相を変えた議員たちが走り抜けていた。
タラントは正攻法で破れたのではない。都市の若者らが夜陰に紛れて城門を開き、カルタゴ軍を内から招き入れたのだ。
裏切りによる陥落──それはローマにとって、軍事以上の政治的敗北だった。
南イタリアの同盟都市が次々とカルタゴへ寝返るのではないか。
その恐怖が首都を覆う中、年が明けた紀元前二一二年の春、マルス広場では新たな執政官を選ぶ選挙当日を迎えていた。
そして、この激動の年に選出されたのは──クィントゥス・フルウィウス・フラックス、およびアッピウス・クラウディウス・プルケル。
ローマは、この年、新執政官二人と、法務官プブリウス・コルネリウス・スッラにそれぞれ二個軍団、計六個軍団を率いさせ、カプアを完全に包囲していた。
裏切り者の都カプアの奪還こそが、この年のローマにとって “是々非々《ぜぜひひ》” の、何が何でも達成すべき絶対の目標だったのだ。
タラントにいるハンニバルのもとへ、六個軍団に包囲されたカプアから悲痛な救援要請が届く。
カプアを見捨てるわけにはいかないハンニバルは、即座に三万の精鋭を率いて北上し、カプア郊外へと布陣した。
だが、前線を見下ろしたハンニバルの眼が、驚愕に細められる。
「……なんて固い陣営だ」
ハンニバルは、ローマ軍が築き上げた包囲陣を見て、思わず低く呟いた。
そこに広がっていたのは、単なる城壁の包囲ではなかった。
ローマが築いた陣営は、内側のカプア市内からの突撃を完全に防ぐと同時に、外側から救援に駆け付けるであろうハンニバル軍の猛攻をも弾き返す、内外両方への守りに対応した完璧な複郭陣地(二重の包囲壁)を完成させていたのだ。
ハンニバルは幾度も隙を突き、怒濤の突破を試みた。
しかし、鉄壁の守りと、蟻の這い出る隙もないローマ兵の槍衾に阻まれ、ついにその防壁を打ち破ることはできず、悔しさを滲ませて南へと引き返すしかなかった。
そしてもう一方の裏切り者の都シラクサは、今年シチリア戦線を任されたマルケッルス率いる二個軍団にとって “知性の砦” そのものとして立ちはだかっていた。
シラクサには、あのアルキメデスがいたのだ。
巨大な投石機を搭載したローマ軍の軍船が近づくと、城壁の上から見たこともない木製の巨大なクレーン(アルキメデスの鉤爪)がぬっと伸びてきた。
それはローマの誇る堅固な軍船の船首を、下からすくうように引っ掛けると、滑車仕掛けのクレーンが船首を水面から高々と吊り上げていく。
そして限界まで持ち上げた次の瞬間──滑車が解き放たれ、軍船は海へと叩き落とされた。
バランスを大きく崩して海へ叩きつけられた軍船は、激しい水煙を上げて転覆していった。
「な、なんだあの化け物じみた仕掛けは……!」
恐怖に叫ぶローマ兵たちの頭上へ、今度は計算し尽くされた角度で発射された巨石が降り注ぎ、甲板を木っ端微塵に粉砕していく。
数学者アルキメデス。彼にとってこの戦争は、怒りでも恐怖でもない。ただの幾何学であり、眼前の計算問題を解く作業に過ぎなかった。
シラクサは、城壁の死角を一つも許さぬよう、アルキメデス考案の機械仕掛けの防衛装置を隙間なく配置し、ローマ軍の攻撃をことごとく粉砕していた。
こうしてシラクサは一年以上、ローマの猛攻を受けながらも、その “知性の砦” を揺るがすことなく屹立し続けた。
そして同じ紀元前二一二年、イタリア南部ルカニア地方の険しい山岳地帯において、ローマが抱える一つの歪みが、最も悲劇的な形で爆ぜようとしていた。
奴隷軍団──。
前執政官ティベリウス・センプロニウス・グラックスが、国家存亡の危機に際して奴隷たちに武器を与え、勝利すれば自由を与えると約束して編成した、異色の軍勢である。
彼らはローマ市民以上に勇敢に戦い、これまでハンニバルへ寝返った同盟都市をいくつも落としていた。
ルカニアの山岳地帯。
そこはハンニバル軍の将ハンノにとって、かつてローマの奴隷軍団に敗れ、ハンニバルから預かった兵の大半を失うという屈辱を舐めた因縁の地であった。
斥候からの報告で、グラックス軍の動きを掴んだハンノは、険しく切り立った谷間の陰で、息を殺し、静かに伏兵を敷いていた。
「グラックス……。あの時の屈辱、今日ここで、晴らさせてもらうぞ!」
ハンノは低く、しかし燃え盛る復讐の炎を瞳にたぎらせて呟いた。
彼の周囲には、地形を熟知したブルッティウムの山岳兵、敏捷なイベリアの軽装歩兵、そしてカルタゴの精鋭たちが、雪辱を果たそうと心を燃やし潜んでいる。
やがて、静まり返った谷間に、グラックス率いる先遣の小隊が不用意に進入してきた。
「敵影なし──前進を続ける!」
そして本隊が谷の中央へ入った瞬間。ハンノが鋭く手を振り下ろした。
「撃てぇッ!!」
凄まじい怒号とともに、両側の崖上から無数の投槍と巨石が降り注ぎ、狭い谷底は一瞬にして血飛沫が舞う地獄と化した。
「敵の待ち伏せか! 怯むな、盾を上げろ! 防御を固めつつ、強行突破して谷を抜けるぞ!」
グラックスは叫び、先頭に立って兵を鼓舞した。
しかし、狭い谷底で逃げ場を失った馬たちが、降り注ぐ槍の雨に狂乱し、次々と兵を振り落としていった。
「馬を捨てよ! 地に足をつけ、密集陣形を組め!」
自らも退路を断ち、兵たちと運命を共にする覚悟を示すため、グラックスは真っ先に愛馬から飛び降りた。
彼は己の赤い戦マントを左腕にきつく巻きつけ、それを盾の代わりとすると、迫り来るカルタゴ兵の渦中へと自ら斬り込んでいった。
その戦いぶりは鬼神の如く凄まじく、数多の敵を道連れにした。
しかし、上空から、そして四方から迫るハンノの伏兵は容赦なく包囲を狭めていく。
やがて、無数の槍がグラックスの身体を四方から深く貫いた。
血を吐き、崩れ落ちる名将。
ハンノは崖上からその最期を見下ろし、小さく息を吐いて静かに呟いた。
「……見事な戦いぶりだった。これで借りは返したぞ、グラックス」
ハンノは勝利に溺れて敵将の遺体を冒涜するような真似はしなかった。
グラックスの最期の勇気を一人の武人として認め、遺体を丁重に収容すると、本隊のハンニバルのもとへと送ったのである。
ハンニバルもまた、宿敵たるローマの将の勇気を心から称えた。
「この男は、敵である前に気高き勇者だ」
ハンニバルはグラックスを最大限の敬意をもって葬り、その遺骨を、丁重にローマ側へと返還させた。
その礼を尽くした振る舞いは、グラックスを知るローマの者たちの胸を強く打った。
グラックス、壮絶な戦死。
しかし、後方に控えていた奴隷軍団にとって、この知らせは単なる指揮官の死ではなかった。
それは、彼らの “未来の消滅” そのものだったのだ。
彼らが過酷な戦場で武器を取ったのは、ローマという国家に忠誠を誓っていたからではない。自分たちを奴隷ではなく一人の人間として扱い、自由を約束してくれたグラックスという個人への、絶対的な忠誠ゆえだった。
指揮官の死は、すなわち、彼らが人間として生きられるはずだった未来の死を意味していた。
「……閣下が、お倒れになった……」
底知れぬ絶望が、冷たい風のように軍団を走り抜けた。
彼らは察知した。グラックスなき今、降伏したところで、待っているのは再び重い鎖に繋がれ、鞭打たれる奴隷の日々だけだと。
戦う理由は、もうどこにも残されていなかった。
奴隷軍団は戦列を崩した。
誰が命令するでもなく、蜘蛛の子を散らすようにして周囲の深い山林へと逃げ惑い、文字通り霧散していった。
ハンノの復讐は、完璧な形で果たされた。
そしてローマは、国家の存亡を支え続けた切り札── “禁忌の軍団” を、戦うことすらなく、一瞬にして歴史の表舞台から失ったのである。




