第五十話 戦略の転換 ── タラントへの道
紀元前二一四年春。
カプア北方の平原で、南部の別動隊を率いるハンノとの合流はようやく果たされた。
だが、ベネウェントゥムでの死闘で、その兵をわずか数千まで減らしてしまっていた。
カプアを三重に囲むローマ軍の主力(六個軍団)を、平原での会戦で打ち破るには、今の兵力はあまりに足りない。
そこに、アブディルからローマの情報がもたらされる。
「ハンニバル様、ローマの最新情報です。
今年の執政官は、二年続けてファビウスとマルケッルス。
前年の十二軍団を解散することなく維持し、新たに八個軍団を編成。各方面へ派遣する体制をとっています」
「前年の軍団を丸ごと維持したまま、新たに八個軍団だと?
いまや二十個軍団……二十万人規模……」
カンナエで国家の背骨を砕いたはずだった。
だが、この執念深い国家は、己の血を流しながら、更に数を増やしハンニバルを殺す為に蘇ってきたのだ。
このまま決戦を挑んでも、敵の心臓に手が届く前に、その圧倒的な物量に押し潰されてしまうだろう。
ハンニバルは戦略の転換を余儀なくされていた。
「よし、これより南へ進軍する。目指すは──タラントだ」
ハンニバルの指先が、地図の南端にある巨大な港湾都市をトントンと叩いた。
タラントは、ギリシア系移民が作った都市、ローマへの臣従を強いられているが、住民の反ローマ感情は未だに根深い。
ここをカルタゴの版図に収めれば、マケドニアの援軍を上陸させる港の確保ができ、本国からの補給も直接引き込める。
───
しかし、ハンニバルがチェス盤の戦術を変えた瞬間、ローマもまた、その巨大な質量をもって先回りを始めていた。
ハンニバル軍がタラントを目指して南進を開始した直後、斥候の騎兵が次々と絶望的な報告を持ち込んできた。
「南方、アッピア街道に再びグラックスの奴隷軍団! 蟻の這い出る隙もないほどに陣を固めています!」
「アプリア地方の丘陵地帯には、ファビウスの息子が率いる軍団が布陣! 我らが南へ向かうのを徹底して阻止する構えです!」
どこへ向かおうとも、行く手を遮るようにローマの軍旗が翻る。
この圧倒的な物量差を前にしては、正面から突破して、南イタリアへ進軍することは叶わない。
追い打ちをかけるかのように、東のアドリア海から届いた報せが、ハンニバルの選択肢を更に狭めた。
「マケドニア王フィリッポス五世、動けず! ローマの外交工作により、アイトーリアやペルガモン王国がギリシア本土で挙兵。
アドリア海もローマ艦隊に封鎖され、イタリアへの渡海は不可能な状況です!」
期待していた東方からの大増援の目も、ローマの冷徹な外交戦によって完全に潰された。
東方の脅威を潰したローマは、その膨大な兵力の全てを、イタリア本土のハンニバル一人を圧殺するためだけに集中させてきたのだ。
更に、南進の足がかりとして守備兵を置いて要塞化していた、アッピア街道沿いの都市カシリヌムへ、ハンニバルが不在の隙を突き、攻城戦の名手マルケッルスが猛然と襲いかかった。
「カシリヌム陥落! 我が方の守備隊は全滅しました!」
ハンニバルは手の中の地図を握りしめた。
「マルケッルス、どこまでも邪魔をしてきやがる……」
カンパニアの拠点を失い、この年は、タラントを落とせぬまま、南イタリアで冬営に入ることを余儀なくされた。
───
しかし、ハンニバルは冬営中も動きを止めなかった。
タラントの反ローマ派の若者たちと接触させるための密使を闇に放つ。
「タラントの若者らに告げよ。ローマはお前たちを市民ではなく、重税を搾り取る奴隷としか見ていない。
だが、カルタゴは違う。我らは対等な同盟者として、自由を保障する。
──城門を開けろ。さすれば、一夜でタラントを開放する、とな」
密使の言葉は、タラントの若者たちに憤怒の火をつけた。
「ハンニバルが来る。その時、門を開けるのだ」
カプアの包囲は解けず、タラントの城門もまだ開かない。
だが、張り詰めた緊張の糸の先で、タラントの若者たちは懐の短剣を握りしめ、夜空を見上げて呟いていた。
「ハンニバルは、必ず来る」
地中海の覇権をかけた戦いは、泥沼の暗闘期へと突入しようとしていた。
そして、紀元前二一三年、初冬。
南イタリア最大の港湾都市タラントは、海からの冷たい風に打たれ、白い波飛沫が舞っていた。
城壁の上ではローマの守備兵が松明を掲げ、退屈そうに夜の闇を見下ろしている。
だが、その足元──凍える暗がりの路地裏には、数人の若者たちが息を潜めて集まっていた。
「……今夜だ」
闇の中から現れたハンニバルの密使が、低く、しかし熱を帯びた声で囁いた。
「我が軍は山道を越え、すでに城外の森に潜んでいる。すべては計画通りだ」
若者たちの目が一瞬、激しく揺れた。
「ローマの守備兵の意識は完全に弛んでいる。今やるしかない……」
「ローマは俺たちを二級市民としか扱わない。
だが、ハンニバルは違う。今夜、タラントを俺たちの手に取り戻すんだ」
冬の夜風が若者たちの震える囁き声をかき消していく。
だが、その瞳に宿る憤怒の火は、決して消えなかった。
───
同じ頃、タラント城壁から僅かに離れた森の中。
カルタゴ軍は、呼吸の音さえ殺して潜伏していた。
ローマの厳しい監視網の隙間を縫うようにして山道を強行軍してきたのだ。
その移動は、まるで巨大な影が音もなく大地を這うようだった。
馬を降りたハンニバルのもとへ、タラントから引き返してきた密使が滑り込む。
「手はずは整いました。内通した若者が東門の衛兵を仕留め、中から鍵を開きます」
「よし」
ハンニバルは短く応じ、背後の闇を振り返った。
すぐ傍らには、カルタロが立っている。
「カルタロ、市民の家にはすでに目印をつけさせてある。市内要所を速やかに占拠しろ」
「はっ、必ずや」
──勝負の夜が始まった。
深夜。タラントの東門。
近づいてきた若者に注意を向け、完全に背中を向けたローマの衛兵──その背後へ、反対側に潜んでいた若者たちが音もなく忍び寄り、喉笛を深く切り裂いた。
声にならぬ悲鳴が夜の闇に消える。
息を荒げる若者が、血に濡れた手で大きな鉄の鍵を差し込み、ゆっくりと回した。
ギィ……ギィィ……。
凍てついた鉄の擦れる音が、心臓に悪いほど大きく響く。
「開いた……!」
城門が僅かに、一筋の隙間を作った。
若者たちは、円を描くように松明を大きく回して開門の合図を送る。
合図を確認したカルタロ率いるカルタゴ兵たちが音もなく滑り込んで来た。
彼らは、事態を察知して駆け寄ってきたローマの巡回兵を、松明を掲げる暇さえ与えずに闇の中から刺し貫いていく。
やがて、長い夜が明けた。
タラントの広大な港に、冷たくも美しい朝日が差し込んでいく。
城壁に厳然と翻るのは、ローマの鷲の旗ではない。カルタゴの軍旗だった。
主要な拠点は全て制圧され、ローマの守備隊は命からがら中央の堅固な砦へと逃げこむか、あるいは冷たい石畳の上で物言わぬ骸と化していた。
港の広場には、何が起きたのかと怯え集まってきた何千人ものギリシア系住民たちがいた。
彼らの前に、ハンニバルが進み出る。
一人の若者が、震える声で尋ねた。
「……ハンニバル。タラントは、今日からカルタゴのものになるのか?」
ハンニバルは傲然と、しかしどこか親しみを込めて首を振った。
「違う。タラントはタラントの、ギリシア人のものだ。
我らは略奪者ではない。お前たちの主権を保障し、ローマの重税を叩き割る同盟者だ。
武器を持たぬ者は誰も傷つけん」
広場にしんと静まり返ったような沈黙が満ち──次の瞬間、地鳴りのような歓声と涙が弾けた。
ハンニバルは民衆の熱狂を背に受けながら、眼前に広がる広大な港湾──海の向こうの、ギリシアやマケドニアへと繋がる碧い海路を見つめ、静かに、しかし獰猛に呟いた。
「これで南イタリアの潮目が変わる。ローマが二十万の兵で陸を塞ごうが、俺たちはこの海から新しい風を引き込んでやるさ」
朝日に照らされるタラントの海は、天才ハンニバルが手に入れた “新たなる盤面” の始まりを、静かに告げていた。




