第四十話 カンナエの戦い(後編) ── 終わりなき戦いの予感
平原を埋め尽くす八万のローマ軍が、ついに地鳴りを立てて動き始めた。
左翼にウァッロ率いる同盟国騎兵四千八百、右翼にパウルス率いるローマ騎兵二千四百、中央にローマ主力の重装歩兵四万、前衛に軽装歩兵三万。
さらに後方に、勝負所で投入して勝利を決定づけるための切り札として、一万の歩兵を待機させていた。
対するカルタゴ軍は五万。
ローマの左翼に対峙するのはマハルバル率いるヌミディア騎兵四千。
パウルスの右翼に対峙するのはマゴーネ率いるイベリア・ガリア騎兵六千。
そして中央には、ハンニバルが直卒するガリア歩兵二万が、弓なりに中央部を前へ膨らませて配置していたが、その左右の奥には、精鋭イベリア・リビュア重装歩兵二万を縦深に配置し、潜ませていた。
二倍以上の敵騎兵と相対することになる、ローマ軍右翼(パウルス側)が圧倒的に脆弱な構図であった。
アプリアの大地を焦がす朝日が昇りきった頃、戦場を裂くウァッロの怒号が響き渡った。
「前衛、前進! 中央を押し潰せ! ガリアの雑兵を、我らの突進力で粉砕するのだ!」
ローマ軍の凄まじい質量が、中央部が膨らんだカルタゴ軍の前衛へ襲い掛かる。
ほぼ同時に、カルタゴ軍の両翼からも号令が響いた。
「目の前にいるのは敵の大将ウァッロだ! ヌミディア騎兵の恐ろしさを思い知らせてやれ! 突撃!」
右翼のマハルバルが叫び、左翼のマゴーネもまた、手薄なローマ右翼を見据えて剣を抜いた。
「敵右翼の数は少ないぞ! 一気にアウフィドゥス川の岸辺まで追い詰めて殲滅しろ!」
───
激突の衝撃が大地を揺らす。
中央のガリア歩兵は、ローマ軍の圧倒的な圧力に押され、ゆっくりと後退していく。
しかし、それはハンニバルの冷徹な計算通りの後退だった。
ガリア歩兵の陣形が、圧力をもろに受ける中央がへこみ、不気味な “凹型” へと変形していく。
「よし、今だ! 重装歩兵、全軍突撃!」
ウァッロはここが勝負所と確信し、中央の弱った隊列を粉砕するために、ローマ軍の主力である重装歩兵四万を一挙に投入した。
ローマの巨大な重装歩兵の猛攻を受け、カルタゴ軍中央のガリア歩兵の戦列はついに限界を迎え、左右へと裂けるように押し開かれていく。
「勝利は目前だ! このまま一気に押し切れ! ハンニバルの首を取れ!」
ウァッロの目には、勝利の女神がローマに微笑んでいるように見えていた。
だがそれこそが、底なしの地獄の入口であった。
ローマ軍がカルタゴ軍中央を押し込んでいるその裏で、右翼のローマ騎兵二千四百は、マゴーネ率いる倍以上のカルタゴ騎兵に川岸まで圧迫され、完全に包囲されて次々と血の海に沈んでいった。
ウァッロ自身が率いる左翼の騎兵団もまた、ヌミディア騎兵の驚異的な機動力の前に徐々に切り崩され、孤立し始めていた。
その時、アプリアの乾いた大地を、強烈な東風──ヴォルトゥルヌスが吹き抜ける。
ローマ軍の顔面に容赦なく叩きつけられる凄まじい砂嵐。
視界を完全に奪われたローマ軍が激しい混乱に陥る。
その時、ハンニバルは冷徹に戦況を読み、両翼に潜んでいた精鋭の重装歩兵へ突撃の指示を出す。
「──ローマ軍を包囲殲滅せよ!」
その瞬間、ローマ軍が突破したと思い込んでいた中央の両脇から、無傷のイベリア・リビア重装歩兵二万が牙を剥いた。
青銅の盾と長槍の壁が、深く進入しすぎたローマ軍の脇腹を冷酷に挟み込む。
さらに、右翼のローマ騎兵を殲滅し終えたマゴーネの騎兵隊が、戦場を大きく迂回してウァッロの左翼騎兵の背後を強襲。
倍以上の騎兵に挟撃されたウァッロの騎兵隊は、なすすべなく崩壊し敗走していく。
敵騎兵を完全に敗走させたマゴーネとマハルバルのカルタゴ騎兵は、そのまま中央のローマ歩兵の背後へと回り込み、退路を完全に遮断する。
逃げ道は、どこにもない。
ローマ軍七万は、四方を鋼鉄の壁で完全に包囲されていた。
───
その少し前、地獄の底で、パウルスと共に戦っていた若きスキピオは、マゴーネ指揮の騎兵隊に囲まれ、絶体絶命の危機に瀕していた。
傍らで奮戦していたパウルスの愛馬が、敵の槍を受けて無残に倒れる。
「閣下! ここはもう持ちません! 私の馬にお乗りください!」
負傷し、血に塗れたパウルスは静かに首を振った。
「私を連れてはこの包囲は破れぬ。
私は、兵たちと最後まで戦う。
だが、お前は生き残れ。
この地獄の戦場を生き抜き、ローマを未来へ導く者となれ。
ローマは……お前のような若者を必要としている。
スキピオ、ローマの未来を……頼む……!」
パウルスはそう言い残すと、乱戦の渦巻く歩兵たちの中へと、覚悟を決めた足取りで分け入っていった。
スキピオは追おうとしたが、カルタゴ騎兵の包囲が迫る。
もう、一刻の猶予もない。
スキピオは奥歯が砕けるほど歯を食いしばり、涙を振り払って剣を掲げた。
「──パウルス閣下の意志を継げ! 生き残りたい者は、私に続け! 突破する!!」
十九歳の若き軍事護民官の叫びに、生き残ったわずかな騎兵と歩兵が呼応した。
カルタゴ騎兵が包囲を完成させる、わずか一瞬の空白。
スキピオはその包囲の薄い一点へ、決死の突撃を敢行した。
カルタゴ騎兵の追撃を振り切り、地獄からの脱出を果たす。
振り返った時、中央は巨大な砂塵と血煙に覆われ、パウルスの姿は二度と見えなかった。
「……閣下……必ず……ローマを……」
少年の眼には、託された未来を背負う、静かな炎が宿っていた。
───
一方、散々に切り崩されたウァッロは、勝利の確信から一転、わずか五十騎の護衛に守られて屈辱の敗走をしていた。
最高指揮官たちも消え失せ、残された四方を完全に遮断された七万のローマ兵には、この地獄の戦場から逃げる術が無かった。
外側からカルタゴ兵の長槍が容赦なく突き立てられるたび、恐怖に駆られた兵たちが一斉に中央へ逃れようと押し寄せ、限界を超えた過密状態が発生する。
「押すな! 息が、息ができない!」
「剣が抜けない! 腕が動かせないんだ!」
叫び声は悲鳴にかき消された。
隣の兵と肩が密着し、圧迫し合い、盾を構えることすらできない。
中軍の兵たちは、前線で何が起きているかも分からぬまま、押し寄せる群衆の圧力だけで肋骨をへし折られ、悲鳴を上げながら足元に踏みつけられていく。
身動きの取れなくなった巨大な赤の大軍勢は、ただの巨大な肉の塊と化していった。
外側から皮を剥ぐように少しずつ、しかし確実に、ローマの血が大地を濡らしていく。
それはもはや戦闘ではなく、一方的な圧殺であり、殺戮であった。
───
夕刻。戦場には、不気味なほどの静寂が訪れていた。
ローマ軍八万のうち、生き残ったのは、指示がないまま待機していて捕虜となった一万と、スキピオら命からがら脱出できたわずか数千のみ。
アプリアの大地は果てしない血の海と化し、風が吹くたびに砂塵とともに生臭い血の匂いが舞い上がった。
ハンニバルは馬上から、何万もの死体の山で埋め尽くされた凄惨な光景を、静かに見つめていた。
「……また俺の勝ちだ」
死臭の漂う風の中、彼はポツリと、誰に言うでもなく言葉をこぼした。
「これで何度目だ? お前らが俺にやられたのは」
だが、その眼の奥には、勝利の歓喜など微塵もなかった。
ただ、深淵を覗き込むような奇妙な静けさだけが宿っている。
「だがローマ……お前たちはこれでも、まだ終わっちゃいないんだろう?」
その呟きは、この地獄から生還したひとりの若き天才が、いずれ己の前に最大の壁として立ち塞がるという、恐るべき未来の予兆を含みながら、静かに、しかし冷酷に、アプリアの夜風に消えていった。




