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ハンニバル戦記 ── 歴史に名を刻む天才戦術家の揺れ動く少年期から宿命を乗り越える青年期までを描いた物語  作者: 冨岡 和哉
第三部 ローマ進撃── 門前に迫る怪物

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第四十話 カンナエの戦い(後編) ── 終わりなき戦いの予感

 平原を埋め尽くす八万のローマ軍が、ついに地鳴りを立てて動き始めた。

左翼にウァッロ率いる同盟国騎兵四千八百、右翼にパウルス率いるローマ騎兵二千四百、中央にローマ主力の重装歩兵四万、前衛に軽装歩兵三万。

さらに後方に、勝負所で投入して勝利を決定づけるための切り札として、一万の歩兵を待機させていた。


 対するカルタゴ軍は五万。

ローマの左翼(ウァッロ)に対峙《たいじ》するのはマハルバル率いるヌミディア騎兵四千。

パウルスの右翼に対峙《たいじ》するのはマゴーネ率いるイベリア・ガリア騎兵六千。

そして中央には、ハンニバルが直卒するガリア歩兵二万が、弓なりに中央部を前へ膨らませて配置していたが、その左右の奥には、精鋭イベリア・リビュア重装歩兵二万を縦深に配置し、潜ませていた。

二倍以上の敵騎兵と相対することになる、ローマ軍右翼(パウルス側)が圧倒的に脆弱《ぜいじゃく》な構図であった。


 アプリアの大地を焦がす朝日が昇りきった頃、戦場を裂くウァッロの怒号が響き渡った。

「前衛、前進! 中央を押し潰せ! ガリアの雑兵を、我らの突進力で粉砕するのだ!」

ローマ軍の凄まじい質量が、中央部が膨らんだカルタゴ軍の前衛へ襲い掛かる。


 ほぼ同時に、カルタゴ軍の両翼からも号令が響いた。

「目の前にいるのは敵の大将ウァッロだ! ヌミディア騎兵の恐ろしさを思い知らせてやれ! 突撃!」

右翼のマハルバルが叫び、左翼のマゴーネもまた、手薄なローマ右翼を見据えて剣を抜いた。

「敵右翼の数は少ないぞ! 一気にアウフィドゥス川の岸辺まで追い詰めて殲滅《せんめつ》しろ!」

───

 激突の衝撃が大地を揺らす。

中央のガリア歩兵は、ローマ軍の圧倒的な圧力に押され、ゆっくりと後退していく。

しかし、それはハンニバルの冷徹な計算通りの後退だった。

ガリア歩兵の陣形が、圧力をもろに受ける中央がへこみ、不気味な “凹型” へと変形していく。


「よし、今だ! 重装歩兵、全軍突撃!」

ウァッロはここが勝負所と確信し、中央の弱った隊列を粉砕するために、ローマ軍の主力である重装歩兵四万を一挙に投入した。

ローマの巨大な重装歩兵の猛攻を受け、カルタゴ軍中央のガリア歩兵の戦列はついに限界を迎え、左右へと裂けるように押し開かれていく。

「勝利は目前だ! このまま一気に押し切れ! ハンニバルの首を取れ!」

ウァッロの目には、勝利の女神がローマに微笑んでいるように見えていた。

だがそれこそが、底なしの地獄の入口であった。


 ローマ軍がカルタゴ軍中央を押し込んでいるその裏で、右翼のローマ騎兵二千四百は、マゴーネ率いる倍以上のカルタゴ騎兵に川岸まで圧迫され、完全に包囲されて次々と血の海に沈んでいった。

ウァッロ自身が率いる左翼の騎兵団もまた、ヌミディア騎兵の驚異的な機動力の前に徐々に切り崩され、孤立し始めていた。


 その時、アプリアの乾いた大地を、強烈な東風──ヴォルトゥルヌスが吹き抜ける。

ローマ軍の顔面に容赦なく叩きつけられる凄まじい砂嵐。

視界を完全に奪われたローマ軍が激しい混乱に陥る。

その時、ハンニバルは冷徹に戦況を読み、両翼に潜んでいた精鋭の重装歩兵へ突撃の指示を出す。


「──ローマ軍を包囲殲滅(せんめつ)せよ!」

その瞬間、ローマ軍が突破したと思い込んでいた中央の両脇から、無傷のイベリア・リビア重装歩兵二万が牙を剥《む》いた。

青銅の盾と長槍の壁が、深く進入しすぎたローマ軍の脇腹を冷酷に挟み込む。


 さらに、右翼のローマ騎兵を殲滅《せんめつ》し終えたマゴーネの騎兵隊が、戦場を大きく迂回《うかい》してウァッロの左翼騎兵の背後を強襲。

倍以上の騎兵に挟撃されたウァッロの騎兵隊は、なすすべなく崩壊し敗走していく。

敵騎兵を完全に敗走させたマゴーネとマハルバルのカルタゴ騎兵は、そのまま中央のローマ歩兵の背後へと回り込み、退路を完全に遮断する。

逃げ道は、どこにもない。

ローマ軍七万は、四方を鋼鉄の壁で完全に包囲されていた。

───

 その少し前、地獄の底で、パウルスと共に戦っていた若きスキピオは、マゴーネ指揮の騎兵隊に囲まれ、絶体絶命の危機に瀕《ひん》していた。

傍らで奮戦していたパウルスの愛馬が、敵の槍を受けて無残に倒れる。

「閣下! ここはもう持ちません! 私の馬にお乗りください!」

負傷し、血に塗《まみ》れたパウルスは静かに首を振った。

「私を連れてはこの包囲は破れぬ。

私は、兵たちと最後まで戦う。

だが、お前は生き残れ。

この地獄の戦場を生き抜き、ローマを未来へ導く者となれ。

ローマは……お前のような若者を必要としている。

スキピオ、ローマの未来を……頼む……!」


 パウルスはそう言い残すと、乱戦の渦巻く歩兵たちの中へと、覚悟を決めた足取りで分け入っていった。

スキピオは追おうとしたが、カルタゴ騎兵の包囲が迫る。

もう、一刻の猶予もない。

スキピオは奥歯が砕けるほど歯を食いしばり、涙を振り払って剣を掲げた。


「──パウルス閣下の意志を継げ! 生き残りたい者は、私に続け! 突破する!!」

十九歳の若き軍事護民官の叫びに、生き残ったわずかな騎兵と歩兵が呼応した。

カルタゴ騎兵が包囲を完成させる、わずか一瞬の空白。

スキピオはその包囲の薄い一点へ、決死の突撃を敢行した。

カルタゴ騎兵の追撃を振り切り、地獄からの脱出を果たす。

振り返った時、中央は巨大な砂塵《さじん》と血煙に覆われ、パウルスの姿は二度と見えなかった。

「……閣下……必ず……ローマを……」

少年の眼には、託された未来を背負う、静かな炎が宿っていた。

───

 一方、散々に切り崩されたウァッロは、勝利の確信から一転、わずか五十騎の護衛に守られて屈辱の敗走をしていた。

最高指揮官たちも消え失せ、残された四方を完全に遮断された七万のローマ兵には、この地獄の戦場から逃げる術が無かった。


 外側からカルタゴ兵の長槍が容赦なく突き立てられるたび、恐怖に駆られた兵たちが一斉に中央へ逃れようと押し寄せ、限界を超えた過密状態が発生する。

「押すな! 息が、息ができない!」

「剣が抜けない! 腕が動かせないんだ!」

叫び声は悲鳴にかき消された。

隣の兵と肩が密着し、圧迫し合い、盾を構えることすらできない。

中軍の兵たちは、前線で何が起きているかも分からぬまま、押し寄せる群衆の圧力だけで肋骨をへし折られ、悲鳴を上げながら足元に踏みつけられていく。

身動きの取れなくなった巨大な赤の大軍勢は、ただの巨大な肉の塊と化していった。

外側から皮を剥《は》ぐように少しずつ、しかし確実に、ローマの血が大地を濡らしていく。

それはもはや戦闘ではなく、一方的な圧殺であり、殺戮《さつりく》であった。


───

 夕刻。戦場には、不気味なほどの静寂が訪れていた。

ローマ軍八万のうち、生き残ったのは、指示がないまま待機していて捕虜となった一万と、スキピオら命からがら脱出できたわずか数千のみ。

アプリアの大地は果てしない血の海と化し、風が吹くたびに砂塵《さじん》とともに生臭い血の匂いが舞い上がった。


 ハンニバルは馬上から、何万もの死体の山で埋め尽くされた凄惨《せいさん》な光景を、静かに見つめていた。

「……また俺の勝ちだ」

死臭の漂う風の中、彼はポツリと、誰に言うでもなく言葉をこぼした。

「これで何度目だ? お前らが俺にやられたのは」

だが、その眼の奥には、勝利の歓喜など微塵《みじん》もなかった。

ただ、深淵を覗き込むような奇妙な静けさだけが宿っている。

「だがローマ……お前たちはこれでも、まだ終わっちゃいないんだろう?」

その呟《つぶや》きは、この地獄から生還したひとりの若き天才が、いずれ己の前に最大の壁として立ち塞《ふさ》がるという、恐るべき未来の予兆を含みながら、静かに、しかし冷酷に、アプリアの夜風に消えていった。

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トラシメヌス湖畔の戦いの両軍の配置図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
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カンナエの戦いの両軍の配置図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
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