第三十九話 カンナエの戦い (前編) ── 陣形の狙い
地平線を埋め尽くす、圧倒的な “赤” の洪水。
アプリアへ向かうローマ軍の長大な行軍列の中に、十九歳の若きスキピオの姿があった。
ティキヌス、トレビアと死線を潜り抜けてきたその眼は、周囲の新兵たちのような狂熱に染まることなく、軍事護民官という見習い指揮官の立場ながら、三度目の戦場に立つ責任と冷徹さをもって、眼前の戦場を観察している。
彼は父の旧友である執政官パウルスの元、執政官直属の騎兵部隊に配属されていた。
パウルスは行軍の合間、スキピオを呼び寄せて静かに言った。
「君の父上は、ローマのために命を賭した本物の漢だ。
……スキピオよ、よく見ておけ。この戦いは、共和制ローマの命運そのものを決める決戦になる」
スキピオは深く、力強く頷いた。
「閣下。私は父の名に恥じぬ戦いをいたします」
その若者の揺るぎない横顔を見つめながら、パウルスは胸の奥に言いようのない不安を覚えていた。
(……この少年だけは、何があっても生きてローマへ帰さねばならぬ)
その誓いが、これから先のローマにとってどれほど重い意味を持つことになるか、この時のパウルスには知る由もなかった。
紀元前二一六年──八月二日。
アプリア地方の朝は、夜明け前だというのに肌を刺すような熱気を孕んでいた。
地平線から昇る太陽が、アウフィドゥス川の湾曲部に沿って対峙する、両軍合わせて十三万の兵を不気味に照らし出す。
カルタゴ軍五万に対し、ローマ軍は実に八万。
丘の上から、大地を埋め尽くす敵の巨大な “赤い大軍勢” を見下ろしながら、ハンニバルは手に持った杖で、地面にゆっくりと曲線を刻んだ。
中央が敵側へ向かって不自然に膨らんだ、弓のような曲線──凸型陣である。
それを見たマゴーネが、驚愕のあまり声を上げた。
「兄さん……中央を前に突き出すの!? これでは、中央がローマの重装歩兵に真っ先にもみ潰されるよ!」
「もみ潰させるのさ。あえてな」
ハンニバルは薄く笑った。
「中央のガリア歩兵は、ローマの圧力に押されてじりじりと後退する。
その時、この弓は逆向きにたわみ、敵を飲み込む『袋』になる」
その意図を察したマハルバルが、獰猛に歯を剥き出して笑った。
「なるほど……! ローマの奴ら、目の前の敵を押し込んでいるつもりで、自分から『袋の底』へ歩みを進めることになるわけだ。中央の歩兵は、奴らを底なし沼へ引きずり込むための餌か!」
「そうだ。袋の左右で待ち構えるのは、我が軍最強の精鋭重装歩兵だ。
彼らが両脇から蓋を閉じる。──数が多すぎるローマ軍は、前進して密集すればするほど、互いの体が邪魔をして剣を振る隙間すら失う」
ハンニバルは、少年のころに東方のアレキサンダー大王の戦跡の地で会得した “勝利の設計図” をここカンナエで描いて見せていた。
対するローマ軍の陣営では、二人の執政官の間で最後の火花が散っていた。
パウルスは馬上から、カンナエ平原の地形、そして不気味な形に配置されたカルタゴ軍の布陣を観察してウァッロへ助言する。
「……まずい。この配置は奴の罠だ、ウァッロ。今日の決戦は避けるべきだ!
カルタゴ軍は太陽を背にし、我が軍は陽光と強烈な東風を正面から受ける位置に立たされている。
この乾燥した平原で風下に立てば、吹き荒れる砂塵で我が軍の兵は目をあけることすらできん!」
しかし、この日の指揮権を持つウァッロは、地平線を埋め尽くす自軍の圧倒的な数を見つめ、傲慢に鼻で笑った。
「この程度の風なら問題にならん。
それより見よ、パウルス! 敵の中央が膨らんだ醜い愚かな布陣を!
中央のガリアの雑兵どもなど、我がローマの重装歩兵の圧力で、正面から一突きにして踏み潰してくれるわ!」
「ウァッロ、敵はあのハンニバルだぞ! 愚かな配置と考えるのは浅計だ。
あれは我々を誘い込もうとしているのだ!」
「パウルス。今日の指揮権は私にある! 余計な口出しは慎んでもらおう。
全軍、戦闘隊形を整えよ!」
ウァッロの怒号に呼応するように、八万の兵が槍を打ち鳴らし、地鳴りのような咆哮を上げる。
それは、巨大すぎる数に溺れた軍団の、破滅的な熱狂であった。
パウルスの理性の声は、自国の大軍が発する地響きの中に、無残にかき消されていった。
───
ハンニバルは静かに愛馬を進め、ローマ軍の動きを注視していた。
「……どうやら敵はやる気満々で攻めかかって来る気だな」
隣に控えるカルタロが冷ややかに頷く。
「はい。中央に配した歩兵団が縦長に近い陣形になっています。
おそらく自軍の一番の強み、重装歩兵による中央突破を狙った陣形でしょう」
「それでいい。こちらの読み通りだ。……よし、全軍に通達せよ」
ハンニバルは右手を静かに挙げ、眼前の巨大な赤の軍列を指し示した。
「──幕を上げるぞ。我が最高の戦士たちよ。ローマの息の根を、ここで止めて見せろ!」
その瞬間、まるで彼の命令に呼応するかのように、夜明けの乾いたヴォルトゥルヌス(東風)が猛烈に吹き荒れ、地表の砂塵を激しく巻き上げた。
カルタゴ軍にとっては背を押す追い風。
ローマ軍にとっては視界と呼吸を奪う死の突風。
遮られた砂煙の向こうで、両軍合わせて十三万の影がゆっくりと動き出す。
人類戦史最大の惨劇── “カンナエの戦い” の火蓋が、ついに切って落とされた。




