第二十五話 トレビア川の戦い(前編)── 野心と罠
ティキヌス川の戦いは、単なる緒戦の勝利に留まらなかった。
ローマの執政官が指揮する軍団が手も足も出ずに敗走したという報は、北イタリアの平原を瞬く間に駆け巡り、現地ガリア人たちの心を激しく揺さぶった。
「ハンニバルは本物だ。ローマを噛み殺せる本物の怪物だ」
昨日までローマの軍門に下り、鬱屈した日々を送っていたガリアの諸部族が、次々とローマを裏切り、カルタゴとの共闘を願い出にハンニバルの陣営へと集まってきたのである。
こうして、ハンニバル軍は一夜にして一万を超えるガリア兵を獲得した。
増えたのは兵力だけではない。
アルプス越えで底を突きかけていた兵糧、疲弊していた騎兵を補うための活きのいい軍馬、そして何より、この土地の地形を熟知した案内役までもが、ハンニバルの手元に揃ったのだ。
ローマが築き上げてきた北イタリア支配の牙城は、この瞬間から音を立てて崩れ始めていた。
ティキヌス川から敗走したローマ軍は、這う這うの体で北イタリアの要衝プラケンティアへと逃げ込み、城塞の門を閉ざして息をついていた。
そこへ、大軍を率いてセンプローニウスが到着した。
彼を出迎えたのは、寝台に横たわる同僚執政官スキピオの姿だった。
「……間に合わなかったか」
センプローニウスは一瞬だけ唇を噛んだ。
だがその悔しさはすぐに、双眸の奥でぎらつく野心へと姿を変える。
彼は傷ついたスキピオの手を、これ見よがしに両手で握りしめる。
「スキピオ殿。ここからは私が全軍を率いましょう。ローマの名誉は、このセンプローニウスが必ず取り戻す」
スキピオは苦鳴を漏らし、かすれた声でその袖を引いた。
「……ハンニバルは……危険だ……。奴は……こちらの思いもよらぬ戦術を仕掛けてくる……。決して……こちらからは動くな……」
しかしセンプローニウスは、その忠告を軽く笑って受け流した。
「ご安心を。戦傷で心まで弱られたか。あなたの無念は、私が倍にして敵に返して差し上げましょう」
共和政ローマでは、二人の執政官が合流して共同戦線を張る場合、全軍の最高指揮権は一日交代で交互に握るという決まりがあった。
本来なら、今日の作戦はスキピオ、明日の作戦はセンプローニウス、というように日毎に主導権が変わるはずなのだ。
だが、スキピオが動けない以上、戦場で指揮できるはずもない。
センプローニウスにとって、この状況は災難ではない。
同僚の横槍を完全に排し、 “ハンニバル討伐の最高功労者” の座を合法的に独占できる、人生最大の好機だった。
重傷の執政官が沈黙し、野心に駆られたもう一人の執政官が主導権を握る。
この歪んだ権力の偏りこそが――ローマを、凍てつくトレビア川の罠へとまっすぐに導いていくことになる。
───
季節は十二月。
北イタリアの冬は、容赦のない冷気でカルタゴ軍の兵たちを苛んでいた。
だが――ティキヌス川での鮮烈な勝利と、ガリア諸部族の合流は、軍勢に大いなる活気を与えていた。
斥候から、トレビア川の東岸、プラケンティアの近郊に、歩兵約四万、騎兵約四千のローマの大軍が陣を敷いたという報がもたらされたのは、そんな折のことだった。
カルタゴ軍が拠る西岸とは、凍てつく川を挟んで目と鼻の先である。
この時のカルタゴ軍の兵力は、やや少ない四万弱だった。
「アブディルの報告じゃ、ローマの奴らは一日交代で指揮権が入れ替わるっていう、おめでたい決め事を持ってる。
だが、相方が寝たきりときちゃあ、センプローニウスって男が指揮を執るのは間違いねぇ」
ハンニバルは地図から目を離さず、口の端だけで笑った。
「アブディルの報告書によれば――センプローニウスは、名誉欲が強く、勇敢だが軽率で、挑発に乗りやすいとある」
彼はゆっくりと振り返り、悪党めいた笑みを深めた。
「今ごろ “俺が英雄になる” と鼻息を荒くしてるだろうよ。
その青臭い野心――俺がたっぷり利用してやる」
「マハルバル。明朝、夜明けと同時にヌミディア騎兵を敵陣へ突っ込ませろ。
ローマの鼻先に小便をひっかけるような挑発をな。
奴らが怒り狂って川を渡ってきたら……そこがお前の舞台だ」
「了解した。そういう泥臭い悪巧みは嫌いじゃねえ」
マハルバルがニヤリとする。
だが、ハンニバルの戦術はそれだけでは終わらない。
彼は視線を、地図を見つめていた弟へ向けた。
「さて……問題は、食い意地の張った英雄をどう仕留めるかだ。
なぁ、マゴーネ?」
マゴーネは、静かに答えた。
「……兄さん、僕たちの陣の前、トレビア川の手前(西岸)には、大人の背丈ほどもある深い葦の茂みと、這うような潅木が広がっているよ。
あそこを利用できないかな?」
「まさにそれだマゴーネ。
お前は、選りすぐりの歩兵一千、騎兵一千を連れて、夜陰に紛れてその茂みに潜め。ローマ軍が川を渡りきった瞬間――背後を断て」
「了解。兄さん」
マゴーネは静かに頷いた。
敵を自陣側の岸(西岸)へ深く引き込み、完全に油断したところを、誰も予想だにしない死角から急襲する。
カルタゴ軍の包囲網は、すでに闇の中でその形を成しつつあった。
───
翌朝。
濃い川霧がトレビア川を覆い尽くす中、カルタゴ軍は十分に火に当たり、身体に油を塗り、温かい食事を取って準備をしていた。
対岸では、ヌミディア騎兵の挑発に激怒したセンプローニウスが、スキピオの警告を無視して全軍に出撃を命じる。
斥候の報告を受けたカルタロが低く呟いた。
「敵、渡河開始……。完全に、閣下の掌の上です」
ハンニバルはゆっくりと息を吐いた。
「――開演だ」
その一言とともに、トレビア川の罠が静かに、しかし確実に閉じ始めた。




