第二十四話 ティキヌス川の戦い(後編)── 取り逃がしたのは・・・
「──父上ぇーーーーッ!!」
戦場を裂くような叫びが響いた。
プブリウスだった。
少年は恐怖を忘れ、ただ父に向かった馬を駆った。
その姿は、策も戦術もなく、父を救いたいただその思い一点に支配された、無謀にして苛烈な突撃だった。
「ローマの戦士たちよ、恥を知れ! 執政官を見捨ててどこへ逃げるか! 私に続け、執政官を救うのだ!」
その怒号に、 敗走しかけていた直衛騎兵たちが我に返る。
少年の背を追い、黒い奔流へと突っ込んだ。
プブリウスの眼前に、父へ槍を突き刺そうとするヌミディア騎兵が迫る。
「退けぇーーッ!!」
突き出された槍を紙一重で躱し、プブリウスはがむしゃらに剣を突き立てた。
血飛沫が霧の中に散る。
その咆哮と金属音に、 スキピオは視線を向けた。
「……プ、ブリウス……?」
幻覚かと思った。
だがそこに立つのは、血と涙に濡れながらも、父を守るために剣を振るう我が子だった。
「父上! 大丈夫ですか!」
プブリウスは馬から飛び降り、重傷のスキピオを細い腕で抱え起こすと、自らの馬へと担ぎ上げた。
「馬鹿な……逃げろ、プブリウス……私を置いていけ……」
「嫌です! 私は父上と共にローマへ帰ります!」
その瞳には、恐怖を超えた決死の覚悟の光が宿っていた。
プブリウスは手綱を握りしめ、父を背に乗せたまま叫んだ。
「ローマへ帰るぞ! 道を開けぇーーッ!!」
その声に応じ、ローマ騎兵たちは最後の力を振り絞り、カルタゴの包囲をこじ開けていった。
ティキヌス川の霧の中、 父と子の奇跡的な脱出劇が始まった。
───
ローマ騎兵たちが流した決死の血は、ハンニバル軍の強固な包囲網に、わずかな隙間をこじ開けた。
「父上、しっかり捕まっていてください!」
プブリウスは重傷の父を抱きかかえ、遮二無二に馬を駆った。
背後から迫るヌミディア騎兵の投槍が耳元をかすめ、ガリア騎兵の怒号が追ってくる。
だが、少年の執念が勝った。
乱戦の渦を抜け、ティキヌス川の冷たい川霧の中へと飛び込む。
ローマ軍の残党と共に、親子の影は、カルタゴ軍の届かない南岸の防衛線へと辛うじて滑り込んでいった。
戦場に立ち込めていた霧が、引いていく潮のようにゆっくりと晴れていく。
そこに残されたのは、ローマ兵の骸と、勝鬨を上げるハンニバル軍の圧倒的な姿だった。
「……逃げたか」
パドゥス平原の小高い丘の上。
ハンニバルは愛馬の背から、霧の晴れた戦場を見下ろしていた。
ティキヌス川の戦いは、ハンニバル軍の完全なる勝利だった。
ローマの前衛は壊滅し、数千の捕虜と、放棄された膨大な武器兵糧が手に入った。
ハンニバルが描いた “ローマ進撃” という盤面は、これ以上ないほど完璧に動き出していた。
将兵たちが勝利に沸き、猛将マハルバルが「ハミルカル将軍の無念を晴らしたぞ!」と歓声を上げる中、ただ一人、ハンニバルだけが冷徹な双眸を曇らせていた。
「兄さん、不満顔だね」
横に来たマゴーネが、兄の顔を覗き込む。
その知性的な瞳には、兄の胸中にある僅かな歪みが見えていた。
「不満? まさか。これ以上の戦果はないさ。ローマは恐怖し、ガリアの諸部族にも俺たちの強さが伝わっただろう」
ハンニバルはいつものように、不敵な笑みを唇の端に浮かべてみせた。
だが、手綱を握る右拳には、わずかに力がこもっていた。
「……だが、盤面に一つだけ欠けがある」
その声音には、悔恨ではなく、盤面を乱された者の苛立ちが滲んだ。
スキピオは生きてプラケンティアへ逃れた。重傷とはいえ、総大将を生かして返した一点が、どうにも収まりがつかない。
「あの土壇場、崩壊したローマの戦列の中で、スキピオを抱きかかえて包囲を喰い破った騎兵がいたな。……妙に身のこなしが軽かった」
ハンニバルの脳裏に、カルタゴ騎兵の包囲を裂いていった “あの一騎” の影が蘇る。
「あれは執政官の息子……名はプブリウスというそうです。
まだ十七歳の初陣だと、捕虜が申しておりました」
近くに控えていたアブディルが、正確な報告を告げる。
「十七歳、か」
ハンニバルは低く呟いた。
スキピオを取り逃がした悔しさは、ハンニバルの胸の奥に、冷たい棘となって沈んでいる。
だがそれ以上に、己の完璧な盤面をひっくり返してみせた “プブリウス” という存在が、彼の天才特有の乾いた渇望を激しく刺激していた。
この戦いの勝利において、敵の大将スキピオを逃がしたことを一点の欠けと悔やむハンニバル。
だが、彼が取り逃がしたその十七歳の少年こそが、後にカルタゴのすべてを焼き尽くす、最大にして最後の宿敵となることを──この時の彼は、まだ知る由もない。
「マハルバル、全軍に通達せよ。勝利の余韻はここまでだ。
敵の次なる大将、センプローニウスが南から向かってきている。
――奴が体制を整える前に、次の戦場(盤面)を作るぞ」
ハンニバルは馬首を巡らせ、未だ血の匂いの残る平原へと駆け下りていった。
大勝利の歓声の中、ハンニバルの心はすでに、次なる冷徹なる狩りの獲物へと向けられていた。
ただその最奥には、霧の向こうへ消えたあの十七歳の少年の残像が、消えない傷痕のように刻み込まれていた。




