シーン2:魅惑の金貨と、独占という名の甘い毒
厨房の奥にある重厚な鉄扉が、耳障りな音を立てて乱暴に開け放たれる。
怒号と共に飛び込んでくる兵士たちの姿を予想して身構えた私の前に現れたのは、ひどく場違いな、耳にまとわりつくような拍手の音だった。
「いやはや、素晴らしい! 実に素晴らしい香りですな、エリナお嬢様!」
ぬちゃりとした、脂ぎった声。
厨房の入り口に立っていたのは、数日前にレオンに追い返されたはずのパン職人ギルド長、ガルドだった。
だが、その態度は前回とは打って変わっている。怒りで顔を真っ赤にしていたあの日の姿はどこへやら、今の彼は顔中の肉を限界まで持ち上げて、えびす顔のような不気味な笑みを浮かべているのだ。
「……何の用かしら。ここは軍の厨房よ。部外者は立ち入り禁止のはずだけど」
私は作業台の前に立ち塞がり、警戒心を露わにして彼を睨みつける。
肩の上のトゲマルも「シャーッ!」と針を逆立て、小さな牙を剥き出しにして威嚇の声を上げた。
「おや、これは冷たい。先日の一件は、私の早とちりでありましてな。あの後、軍に納品されたという『新型のパン』の噂を耳にし、私なりに調べさせてもらったのですよ。そして理解しました。あなたのその技術は……まさに奇跡だ」
ガルドは芝居がかった身振りで両手を広げ、ずかずかと厨房の中へと足を踏み入れてくる。
その後ろには、高価なローブを羽織った見知らぬ男が数人、そして屈強な護衛たちが大きな木箱を抱えて追従している。
レオンは壁際に寄りかかったまま、腕を組み、氷のような視線で彼らの動きを黙って見つめている。彼が即座に斬り捨てないということは、ガルドの後ろにいる男たちが、軍でも無下にできない『貴族院』の回し者か何かだからだろう。
「奇跡なんて大げさなものじゃないわ。ただの、少し工夫したパンよ」
「ご謙遜を! あの水分量、あの保存性、そして兵士たちを狂わせるほどの味! 我々ギルドの長年の研究すら及ばない、まさに至高の芸術です!」
ガルドは私の手元にあるパンに手を伸ばそうとし、レオンの鋭い視線に気づいて慌てて手を引っ込めた。
そして、コホンと咳払いをして姿勢を正す。
「単刀直入に申し上げましょう、エリナお嬢様。あなたのその『製法』を、我々パン職人ギルドが買い取らせていただきたい」
「……買い取る?」
「左様です。あなたのその技術は、一介の娘が抱え込むにはあまりにも巨大すぎる。我々ギルドの管理下におき、独占的に生産・流通させるのが、国のため、そして何よりあなたのためなのです」
ガルドが指を鳴らすと、護衛の男たちが抱えていた重そうな木箱を作業台の上に『ドンッ』と置いた。
金属の留め金が外され、蓋が開かれる。
――眩い。
厨房の炎の光を反射して、暴力的なまでの黄金の輝きが私の網膜を焼いた。
箱の中に敷き詰められているのは、王家の紋章が刻まれた純金貨。ざっと見ても、数百枚……いや、千枚は下らない。前世の価値に換算すれば、一生遊んで暮らせるほどの莫大な金額だ。
「これは、ほんの『契約金』の一部に過ぎません。あなたがギルドの専属となり、その製法を我々だけに提供すると約束していただけるなら、この十倍の額をフォルティス家にお支払いしましょう。さらに、王都の一等地に最高級の厨房と屋敷をご用意する」
ガルドの脂ぎった唇が、三日月のように吊り上がる。
「いかがですかな? 聞けば、男爵家は莫大な借金を抱えておられるとか。田舎のボロ屋敷で、毎日煤にまみれてパンを焼く生活など、もう終わりにできるのですよ」
ドクン、と。
私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
脳裏に浮かぶのは、雨漏りのする屋敷。すり減った絨毯。領民のためにと身を粉にして働き、借金の催促状を見ては涙ぐんでいた、優しくて情けないお父様の顔。
この金貨があれば。
これさえ受け取ってしまえば、お父様はもう二度と借金取りに頭を下げる必要はない。お母様にも、綺麗なドレスを買ってあげられる。
私だって、軍の厨房という血生臭い場所で、いつ命を狙われるか分からない生活から解放されるのだ。
「……条件は、それだけ?」
私の声が、微かに震える。
それに気づいたガルドは、勝利を確信したような笑みを深めた。
「ええ、極めて簡単な条件です。あなたの持つ『二度焼き』と『高加水』のレシピを、すべてギルドの金庫に封印すること。そして今後一切、ギルドの許可なく他人にパンの焼き方を教えないこと。もちろん、軍への納品も我々が引き継ぎます。多少、価格は引き上げさせていただきますがね」
――多少、価格は引き上げる。
その言葉の意味を、私は瞬時に理解した。
彼らは、私のパンを『高級品』として囲い込むつもりなのだ。
安価で誰でも作れるはずのパンを、技術を独占することで値段を釣り上げ、富裕層や軍の上層部から莫大な利益を搾り取る。
そうなれば、末端の兵士たちや、地方の貧しい村人たちの口に、このパンが入ることは永遠にない。
「……技術を独占して、自分たちだけが儲けようっていうのね」
「人聞きの悪いことを。これは『品質の維持』ですよ。素人が見よう見まねで真似をして、腐ったパンを流通させでもしたら大問題でしょう? 価値あるものは、選ばれた者だけが管理し、正当な対価を払える者だけが享受する。それが、この世界の絶対的な秩序なのです」
ガルドの言葉は、酷薄な現実そのものだった。
これが、この世界の貴族とギルドが長年築き上げてきた常識。
富める者はより富み、持たざる者は石のように硬いパンをかじって泥水をすする。
それを『秩序』と呼んで憚らない醜悪さに、胃の奥がムカつき始める。
私は無意識に、壁際に立つレオンへと視線を向けた。
彼は何も言わない。
先日のようにガルドの腕をへし折ることもなく、ただ静かに、その氷のような灰色の瞳で私を見つめ返しているだけだ。
(……どうして、何も言ってくれないの)
助け舟を出さない彼に、少しだけ苛立ちを覚える。
だが、すぐに気づいた。
彼は私を試しているのだ。
私が目の前に積まれた金貨と安全に目が眩み、自分の手で生み出したパンの価値を、この豚のような男たちに売り渡す程度の人間なのかどうかを。
もし私がここで頷けば、彼は二度と私にあの熱を帯びた眼差しを向けることはないだろう。
「ピギィッ!」
突然、肩の上のトゲマルが、私の耳たぶをチクリと甘噛みした。
小さな痛みにハッと我に返る。
「……」
私は金貨の詰まった木箱から目を逸らし、自分の足元を見た。
そこには、小麦粉で白く汚れた自分の靴がある。
毎日毎日、生地と向き合い、火の熱に耐え、美味しいパンを焼き上げてきた証だ。
目を閉じれば、浮かんでくる光景がある。
初めて私のパンを食べた時の、あの泥まみれの若い兵士の涙。
食堂でパンをちぎり合い、笑顔でシチューをかきこむ兵士たちの笑い声。
そして、私のパンが遠征を変え、誰一人死なせなかったという、レオンの誇らしげな声。
この金貨を受け取れば、私は家族を救える。
でも、その代償として、あの兵士たちから『食事の喜び』を奪うことになる。
私の生み出したパンが、誰かの命をすり減らすための道具として、権力者たちの金庫の奥底で腐っていくのを黙って見ていなければならない。
(……冗談じゃないわ)
胸の奥で、静かに、けれど確かな熱が燃え上がるのを感じた。
前世でパンを愛し、今世でもパンに情熱を注いできた私の魂が、全力でその選択を拒絶している。
「エリナお嬢様? いかがなされました? さぁ、この契約書にサインを」
ガルドが、羊皮紙と羽根ペンを仰々しく差し出してくる。
その顔に張り付いた、醜悪な勝利の笑み。
私はゆっくりと息を吸い込み、顔を上げた。
迷いは、もう微塵もなかった。




