第41話 小さな大賢者と囁きの糸
午前、エルは図書塔の三階に立っていた。
昨日移し替えた標識粉が、どの書物に反応するか確認するためだ。
棚の背表紙を一つずつ視線でなぞる。
――光が、淡く揺らいだ。
別の背表紙に、かすかな痕跡。粉が移ったのだ。つまり、誰かが“その本”を動かした。
《主。思ったより早いな》
「ええ。普通なら、もっと時間を空けるはず。焦ってるのか、それとも……」
ノワールの声に応じながら、エルは背表紙を指でなぞる。見た目は何の変哲もない帝国史の分厚い書物。だが、そこに“糸”のような魔力の残滓が絡みついている。
(監視網……。昨日の“線”はここにつながっていたのね)
ページを開くことはしない。ただ、背表紙に指を軽く当て、魔力の波長をほんのわずかに調律する。
結び目がほどける。そこから伸びていた“糸”は、別の場所へと続いていった。
⸻
その日の昼、休暇を利用して外に出た学生は多く、学内は人がまばらだった。
石畳を踏みしめる音が、やけに響く。
「――彼女です」
「……確かか」
柱の陰で、声がした。
エルは立ち止まらない。あえて足音を崩さずに歩き続け、耳だけを澄ませた。
昨日も見た補佐の男。そして、もう一人。軍靴を履いた女の声。
「旧倉庫の端末、起動痕あり。ただ、粉末が別の書物に遷移していた」
「仕掛けを使う相手……学生の範疇ではないな」
「ですが――年齢は」
「関係ない。第七枝に回す」
(……やっぱり、“枝”が動いてる)
耳の奥で、小さな鈴の音が鳴った気がした。
ノワールが囁く。
《聞いたな。やはり“網”だ》
「線じゃなく、網……。結び目を落とさない限り、切っても無駄ね」
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夕刻。中庭に戻ると、フィオナが噴水の縁に腰を下ろしていた。
金の髪が夕陽を反射して、淡い橙に揺れている。
「エル! 探したのよ」
「私を?」
「うん。……あのね、少し、付き合ってくれない?」
エルは微かに首を傾げる。
「研究の話?」
「それもあるけど……今日は違うの。ちょっとだけ、散歩」
歩きながら、フィオナはぽつりと口にした。
「最近、妙なの。廊下で人の気配がしたり、資料室で誰かが探ってる音がしたり。気のせいかもしれないけど……」
エルは内心で息をついた。やはり彼女も気づいている。
「……それで、怖いの?」
「怖いというより――気になるの。だって、もし学園の中に“敵”が潜んでるなら、危ないでしょ?」
無邪気な声。しかし、その目は真剣だった。
ノワールが低く笑う。
《天真爛漫の皮をかぶった“勘”か。やはり血だな》
(……フィオナ。あなたは父に似すぎている。だからこそ危うい)
⸻
夜半。寮の窓辺で、エルは目を閉じていた。
昼に触れた背表紙の“糸”をたどる。
光と闇の位相を重ね、微細な“囁き”を聴く。
――報告、端末経由。
――起動痕、再現せず。
――処理を“第七枝”に委ねる。
声が脳裏に響く。網の結節が、確かに存在する。
エルは息を吐き、手帳に書き記した。
――第七枝:監視・処理部門。
――接触対象:学園内。
――経路:図書塔三階 → 旧倉庫端末。
「明日は……もう一歩、踏み込む必要がある」
ノワールが椅子の背に丸まり、目だけを開けて呟いた。
《主。守りながら斬るのは容易ではないぞ》
「分かってる。でも――守らなければ、この“糸”は切れない」
静かな部屋に、夜の風が流れ込む。
その風に混じって、遠くで誰かの靴音が響いた。
また“追う者を追う足音”。
網は確実に、こちらへ近づいてきていた。




