第25話 小さな大賢者は、研究会に招待される⑤
部室の扉が重たく閉まる音が、背後に余韻を残す。
白墨の匂いがまだ衣服にまとわりついているようで、エルは小さく息を吐いた。
『お前、本当に“手加減”って言葉を知らないな』
肩に乗ったノワールが、わざとらしく長いため息をつく。黒い毛並みが廊下の微かな風に揺れ、獣じみた金色の瞳がエルを見上げた。
「……抑えていたつもりよ」
エルは表情を崩さず答える。だがその声色には、わずかな自己弁護の響きがあった。
『その“抑え方”が帝国じゃ十分に目立つって話だ。水と火の干渉理論なんて、耳に入った瞬間に研究所が飛びつくだろうよ。いや、帝国に限らずどの国だってだ。』
ノワールは尻尾を揺らし、しっかりとした声で続ける。
『お前の名前、今日を境にきっと広まるぞ。良くも悪くもな』
エルは黙って廊下を進んだ。石畳の床は昼間の陽光を吸い込み、まだ温もりを残している。窓から差し込む光が床に長い影を落とし、彼女の白銀の髪を淡く照らした。
『なぁ、エル。あのまま続けていたら、もっと派手に出来ただろう?』
ノワールが小さく唸るように言う。
「……それはそうね」
エルは足を止めずに答える。
「けど、あれ以上は必要なかった。むしろ余計に危険になる」
『危険?』
「私の力を完全に曝け出せば、今度は“証人”じゃ済まない。制御不能だと見なされて、封印か処刑の対象になるだけよ」
ノワールはくぐもった笑い声を漏らす。
『随分冷静じゃないか。さっきは随分楽しそうに見えたぞ?』
「……そうかもしれないわね」
エルはほんの一瞬だけ視線を落とし、石の階段に揺れる自分の影を見つめた。
「認められたいのかもしれない。帝国で笑われた“夢物語”を、真実だと証明してやりたい。ただ、それだけ」
ノワールは鼻を鳴らした。
『ならば気を付けろよ。その欲望は必ず誰かに利用される』
エルは返事をせず、再び歩き出す。
階段を降り切ったところで、背後から元気な声が響いた。
「エルフィーナ! 待って!」
振り返れば、赤毛を揺らして駆けてくるフィオナの姿があった。
額には汗が浮かび、瞳はきらきらと輝いている。
「すごかった! 本当にすごかった! あんなの見たことない!」
勢いよく詰め寄ってくる彼女に、エルはわずかに後退った。
「……大げさよ」
「大げさじゃないって! あんな研究、帝国でもやってないわ。少なくとも、私は聞いたことがない!」
フィオナは両手を広げ、声を弾ませる。
「ねぇ、次の部会でも見せてよ。いや、それだけじゃ足りない! もっと大きな舞台で発表して、みんなを驚かせようよ!」
『ほらな』
ノワールが耳元で嘆息した。
『これだ。お前を利用しようとする奴の第一号だ』
エルはフィオナの笑顔を見つめた。無邪気さに満ちたその顔は、確かに計算づくではない。だが、彼女を通して見えるのは――。
(マクシミリアン……)
エルの脳裏に、学院の研究棟で常に中心にいるあの名が浮かぶ。
水魔法の権威にして、学院の実質的な支配者。彼に近づくには、誰かの推薦が必要だ。
そして、誰よりも彼に憧れ、接触の機会を持つのは――フィオナだ。
(この部会……悪くないわね)
「……でも、フィオナ」
エルは小さく口角を上げた。
「次は、もっと準備が必要よ。あれを繰り返すのは、容易じゃない」
「分かってる! でも、私が全部段取りするから! 場所も、人も、集客も!」
フィオナは胸を張り、まるで当然のように宣言した。
「だって、こんな発見を黙っておくなんてもったいないでしょ?」
『やれやれ……火に油を注ぐ気満々だな』
ノワールは呆れたように鼻を鳴らす。
『お前の計算通りになるといいが……』
エルは静かに視線を伏せ、答えを飲み込んだ。
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廊下を抜けて
窓の外には夕陽が差し込み、校舎の石壁を赤く染めていた。
「……行きましょう」
エルは小さく呟き、廊下を歩き出す。
フィオナは隣で笑顔を絶やさず、ノワールは肩の上で長いため息をつく。
その足取りは、学院の未来を大きく変える一歩であることを、誰もまだ知らなかった。




