二人の歩み寄り
フェリシアがエーヴェルト王国に嫁いで1年がたった。
いまだにフェリシアにも妾女たちにも懐妊の兆しはない。フェリシアは避妊薬を使っていることに後ろめたさを感じ始めていた。
アルベルトには、愛妾がいるのではないのか……
正妃であるフェリシアに遠慮しているのだろうか?
フェリシアは、アルベルトとの関係は上手くいっていると思っている。でも、フェリシアが知らないアルベルトがいることは分かっている。これまでは立ち入れない、否、立ち入りたくなかったが、アルベルトに近づかなければそれは分からない。
『アルベルトにもっと近づいて、わたしが懐妊することはないと思い込ませよう。そうすれば、わたしはお払い箱になって、アルベルトは堂々と愛妾と子を成せるはず。そうなったら、愛妾が妃となって公の場に出ていけるだろう。わたしは離宮にでも移って、モントクレイユとの友好に必要な役目があるときにだけ出ていけばいい。もしかしたら、もっと別の良い生き方が見つかるかもしれない。』
フェリシアはそう考えた。
アルベルトは、フェリシアと共に生活をするようになって気づいたことがある。フェリシアの無邪気な笑みを見ると安らぐのだ。食事を一緒に取るとなぜか美味しいし、食後のデザートに目を輝かせるフェリシアの姿を微笑ましく感じる。
できれば、ずっと傍にいて色んな瞬間を見ていたいと思っていた。
アルベルトには自らが好意を抱いた女性が、今までただの一度もいなかった。アルベルトの周りにはいつも女性が寄って来た。アルベルトにとっての女性へのアプローチは情報を得る為、政治の為のものだった。相手の思惑を常に理解し先手を打って行動し、優位に立って物事を進める。だから、好意を躱す言葉と引き際を見極めるのは得意。
だが、その対象でない女性――フェリシアへのアプローチは上手くいかず難しかった。しかしそれは、これからフェリシアと一緒にいればわかる気がする。これからは小細工などは使わず、できるだけフェリシアに対して素直に向き合おうと心に決めた。
「フェリシア、もう結婚して一年経つな。でもまだ、お互いに知らないことが多いと思うんだ。夫婦としてもっと歩み寄っていかないか?」
「そうですわね。」
フェリシアはこれは近づけるチャンスだとニンマリと笑った。
「分かったなら、行くよ。」
アルベルトはさっと腰を上げて、フェリシアの腕を引っ張った。
「え…?どこにですか!?」
「夫婦の寝室だよ。今夜からはあちらで寝よう。」
「嫌です。わたくしはこちらで休みます。」
「抵抗するなら抱き上げて連れて行くよ。」
「……行きます。」
しぶしぶとフェリシアは頷いた。
アルベルトはフェリシアの腕を掴んでソファから立たせると、隣の部屋に通じる扉を通り、王太子夫婦専用のサロンに入った。サロンにはわずかなランプが灯り温かい空間が広がる。ソファやキャビネット、丸いダイニングテーブルが置かれている。窓の外には広いテラスが続いていた。
サロンを突っ切り奥の扉を開けると、王太子夫婦専用の寝室になっていた。豪華な調度品に囲まれて、天蓋付きの豪華で大きなベッドがドンと中央に構えている。とても広い。ベッドサイドには光を抑えたランプがぼんやりと灯っていた。
ベッドまで来るとアルベルトはフェリシアの腕を離し、そのままベッドの縁に腰を掛けさせた。
「もう…お休みになるのですか?」
「別にどっちでもいいけど…」
アルベルトは顔を上げてフェリシアを見た。
その瞳には情欲がはっきりと灯っていてフェリシアの心は小さく震えた。
「いやなのか?」
少し躊躇った後、フェリシアはコクリと頷いた。
「…わかった。じゃあ触れるだけ。最後まではしない。」
「…え。それでいいのですか?意味がないのでは?」
「意味ないって何が?」
「だって、子作りできなきゃ意味がないのでしょう?」
フェリシアは少し戸惑って首を傾げた。
「まぁそれも大事だが、今は触れるだけでもいい。」
「…えっ、どういうことですか?」
アルベルトはフェリシアの衣服を整えてベッドに横たえた。
隣に寝そべって身体をフェリシアの方に向けると優しく髪を梳きはじめた。アルベルトは何も喋らない。フェリシアも為すがままにされていた。
暫くするとアルベルトは顔を寄せて、フェリシアの頬にかるく口付けた。おでこ、瞼、こめかみにと優しく唇を落としていく。フェリシアに触れる仕草のひとつひとつがとても優しくて、すごく大事に扱ってくれる。フェリシアは理由もなく泣き出したい気持ちになって目を閉じた。
翌朝、とても幸せな気分で目が覚めたフェリシアは、なぜここまで幸せなのだろうと不思議に思った。もう少し幸せな気分に浸っていたくて、なかなか起き上がる気になれない。
ゴロンと寝返りを打つとフェリシアの腕が何かにあたった。
「!?」
反射的にそちらを見やるとアルベルトがすやすやと眠っていた。無防備に眠っている姿見るのは初めてだった。朝が早いアルベルトはフェリシアが朝起きても既にいなくなっていることがほとんどだ。
とても新鮮だ。フェリシアはアルベルトの寝顔をまじまじと観察した。睫毛が意外と長い。鼻も高い。眉がきりっとしている。凛々しくやや冷たい印象の切れ長の目が、閉じているとあどけなくなって少し幼く見える。
ずっと見ていたら少し触れてみたくなった。そっと手を伸ばして頬を指先でゆっくりと撫でた。少しひんやりとしてスベスベした感触が指に伝わる。
「…フェリシア?」
その気配に気づいたのかアルベルトが目を覚ました。
さっきまでは深く眠っていたようだったが、どうやら寝起きが良いらしい。アルベルトは目を覚ましてすぐに身を起こし目を擦った。軽く左右に頭を振ると漆黒の髪がふわりと揺れた。パチパチと軽く瞬きをして目の焦点を合わせると、ゆるゆると微笑んだ。
「おはよう。」
「…おはようございます。」
フェリシアは何となく気恥ずかしくなって、微妙な表情で返事を返した。
「…朝食、食べるかい?一緒に食べようと思って昨日サロンに用意するように頼んでおいたんだ。今、侍女を呼ぶから。」
フェリシアの髪を整えるように優しく手で梳き、最後に軽くフェリシアの頬を指で撫でると、アルベルトはベッドから出て行った。
サロンに移動するとテーブルの上にはたくさんの料理が並んでいた。
温かいパンやスープ、オムレツにベーコン、サラダやフルーツ、デザートまで付いている。
二人は向かい合って椅子に腰を下ろした。テーブルを挟んで正面に座ったアレクシスに視線を向ける。カップに注がれたお茶を受け取ると、アルベルトは人払いをした。
朝の光に輝くアップルパイにフォークを差し込むと、アルベルトは意外なことを言い出した。
「これからはこっちで一緒に寝ようと思う。遅くなる時もあるから、眠くなったら先に寝てろよ。」
フェリシアはスープを掬うスプーンを持つ手を止めた。
「…え!?毎日!?」
「そうだよ。」
なんでもないことのように頷くアルベルトをフェリシアはじっと見た。
「…あのう、遅くなる時もあるのでしたら、今まで通りでいいのではないですか。いちいちこちらに来るのは大変でしょう?」
「じゃあ、わたしの思いつきで勝手に来ていいんだな。今までみたいに前もって断りは入れない。来たい時に来るけど、それでいいんだな?」
「……それも困ります。」
毎晩、今日は来るのかといちいち身構えているのも疲れそうだ。
「だったら、そういう生活にしてしまった方が楽だろう。じゃあ、そういうことで。」
何がそういうことなのか――
「……でも、お妾のところには行かなくてよいのですか?あんなにたくさんいるのに、わたくしとばかり一緒にいる訳にいかないでしょう?」
アルベルトはフォークを持つ手をハタと止めて、意表を突かれたようにフェリシアを見た。
「…ああ、そうか。フェリシアに説明していなかったな。…わたしとしたことが忘れてた。」
「…なんですか?」
フェリシアは訝しむように眉を寄せた。
アルベルトは口を手で押さえると、考え込むような素振りをしてから口を開いた。
「…いや。妾女たちのところには、仕事がある時にしか行かないんだ。」
「…仕事?」
「妾女のほとんどは、用心のために入れている。」
「…え!?」
思いがけない言葉にフェリシアは瞳を瞠いた。心臓がドクンと高鳴る。
「わたしがもともと第二王子だったってことは知ってるだろ?」
「え、はい。」
「王太子だった第一王子の兄が死んでしまったので、わたしが王太子になった。それで、王家をとりまく貴族の情勢が変化して、まだ不安定な状況なんだ。どこから何を仕掛けてくるのかわからないんだよ。妾女たちは、ちょっかいを掛けてくる恐れのある家のものだ。あえて入れて様子を見ているんだ。なにか動きがあれば情報を引き出しに行く。それと、その妾女たちの見張り役で入っているものもいる。」
「…そのこと、どうして、今まで教えてくれなかったの?」
気付けばフェリシアは浮かんだ疑問を口にしていた。
「興味あったのか?」
「…え?」
「妾女のことなんて興味ないと思ってた。今まで会話の中で妾女の話が出たことなんて一度もなかっただろ。妾女のことなんてどうでもいいのかと思ってた。もちろん、聞かれたらちゃんと答えようとは思ってはいた。」
フェリシアはスープを飲む気がなくなってスプーンを下に戻した。
こんなに妾女を娶っているのには何かしら政治的な意図なども絡んでいるとは思っていたが、エーヴェルトの国内は思った以上に複雑な情勢のようだ。王太子というものは想像以上にしがらみが多くて、個人的な感情など優先できない難しい立場に置かれているということに改めて気付く。
アルベルトにとって何かしらの利用価値があるから妾女にしている。とても複雑な心境だった。利用するにしろ、愛でるにしろ勝手にすればいいとは思うが、妾女にしながら、道具としてしか扱わないアルベルトに対しては嫌悪感を抱いた。
一方で、妙な安堵感もあった。気に入った女性を後宮に入れているのではなかった。アルベルトの話は驚きだったが、フェリシアは緊張の糸がプツリと切れた気もした。