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「ふ…ぅ」
ジノを下がらせ、そのままずっとベランダで花苑を見つめていたリディノは、ようやく深く重い溜め息を吐き出した。
(自分が、わからない)
風が舞う。
風にブーコが巻かれて舞い飛んで行く。
金の花粉が渦を描いて空間に鮮やかな紋様を作り上げる。
その風は、ベランダのリディノの髪を梳き、ドレスを靡かせ、心の奥まで吹き込んで来て、彼女が見たくないものまで、沈殿していた細かな粒子を湧き上がらせるように、舞い上がらせていく。
(アシャ兄さま……アシャ…アシャ・ラズーン……)
想い人は今窮地のただ中に居る。案じないと言えば嘘になる。だがしかし、それよりもなお強く、リディノの心を揺さぶり続けている一つの想いがある。
(ユーノ……ユーナ・セレディス……セレドの第二皇女……アシャ兄さまの……想い人…)
胸の中で呟いた途端、傷から血が滲むようにじわりじわりと広がっていく想い、どす黒く濁って腐臭を放つかのような想いを、リディノは正視できなかった、今の今までは。
何がきっかけだったのだろう。通り過ぎ、行き過ぎ、無視し、振り返ることもなく突き放してきたその想いは、今や次第に避けようもなく、闇の悪夢から立ち上がってくる魔鬼の姿のように、リディノの前に迫りつつあった。
(ユーノ・セレディス……ユーノは今、兄さまとともに居る…)
私の、アシャ兄さまと。
(共に同じ夜を過ごし、共に同じ食卓につき……そして、共に同じものを見て、お互いに顔を見合わせ、笑う)
そして、2人は何を育てていくのか。
(……敵地に2人……兄さまの命とユーノの命……)
風がふいに荒々しく、耳元を吹き抜け髪を乱す。そこから響く微かな声が、リディノの胸でぽとりと真っ黒の染みを落とす。
(1人しか助からないのなら……アシャ兄さまが助かるなら……)
、の命を代償にすればいいのに。
(きっと望むはず)
、が戻るより、アシャ兄さまが戻る方がいいと。
(どちらか1人というならば)
ユーノ、など帰ってこなくてもいい。
「っ」
耳元で言い切ったその声に、リディノはどきりとして慌てて首を振った。
「違うわ、そうじゃない、そうじゃないのよ」
誰にするともない弁解を口にする。
「そんな意味じゃない……だって、アシャは……アシャは……正統後継者だもの…」
ラズーンにとって、世界にとって、どちらが貴重かと言うならば、誰が考えても同じだろう。ラズーンを負う正統後継者と、世界の片隅の辺境の皇女、しかも継承権を持つ訳でもない、『2番目』にしか価値のない姫君。
「セレドには、レアナが居るわ……セアラという第三皇女も居るのでしょう…?」
リディノは見えない相手と交渉を続けている。それはここ数日、ずっと続けている終わりのない、心身の疲れる、苦しくて虚しい闘いだった。
「たとえ、が死んでも、大丈夫だわ、セレドは続くわ。たとえセレドの君主が変わっても、大丈夫だわ、ラズーンは被害を受けない、だって小国ですもの、ラズーンの運命を握る国ではないもの」
リディノ。
遠く遥かな高みから、優しく厳しい声がする。
「アシャの方が大事よ、命としてはずっと重いわ、そうでしょう?」
リディノ。
近づいてくる、静かで穏やかで、なのにきららかな姿のものが。
「それに、ユーノのあの傷……そうよ、本当はもっと前に死んでいてもおかしくないほどの傷だった。これまで生きて来れたのは、きっとアシャ兄さまが庇ったからよ。アシャ兄さまが助けてきたから。だから、その代償は必ず払うべきものなのよ」
あなたは何を言おうとしているの、リディノ。
内側から響くのか、外側から投げかけられるのか、その存在の問いかけはリディノの肌を粟立たせた。
「第一、あの傷、そうよ、あの傷をアシャ兄さまはご存知なのかしら。いえきっと、ご存知じゃないわよね、もし知っておられたら、あんなに優しくできないわ、だって、何をやってあんな傷を受けるって言うの、女なのに、一国の姫なのに……いえ……ほんとに……姫なのかしら……アシャ兄さまは騙されているのではない…?」
リディ。
「っ」
聞こえたのはユーノの声だった。
「、黙って…っ!」
悲鳴に近い自分の声が響き渡る。耳を押さえて目を閉じる。
疲れていた。ずっとずっと戦い続けて、リディノは芯から疲れていた。
こんな闘いをしたことはなかった。ミダス公に愛され、ジノに守られ、人を愛すること、いとしむことにかけて、自分ほど優れた者はいないと思っていた。どれほど酷い境遇の者でも目を背けず憐れむことができたし、病んだ老人や怪我をした子どもに近寄ることも佇むこともできる彼女を、人は『春の女神』と呼んで讃えてくれた。
リディノは優しい。リディノは愛深い。
誰もがそう口にする。リディノはまさにその賛辞に相応しいと確信していた、疑ったことさえなかった。
愛情溢れる麗しい娘には、美しく端麗な騎士が寄り添うものだろう?
心優しく思いやり豊かな女は、その宝を護り抜く力強く才気に満ちた男が包むものだろう?
確かに今はまだ、リディノはいろいろとアシャに及ばないところがあるのだろう。そこまで自惚れているつもりはない。
しかし、ラズーンの姫だ。ミダス公領地を受け継ぐ娘だ。ましてや、夜会に出れば吐息を浴びる存在なのに、跪く者1人1人に笑顔を向けられるほど、礼を尽くせる謙虚さを持つのだ、いずれはより成長し、アシャの隣にこそ相応しいと認められるだろう。
ホントウニ?
「当たり前よ!」
ああ、確かに傲慢が過ぎた。それは認めよう。けれど、アシャは幸せになるべきだし、それを満たすのはユーノではない。そう、ひょっとしたらリディノではないかも知れないが、きっと、絶対、ユーノとではない。
(だって)
だって、あんな。
(汚い、肌を、アシャが、抱く、なんて)
ああ、とどこかで深く嘆く声が漏れた。大気の中に溶け込んだ、荘厳な気配が面を伏せて立ち上がる。そうしてみると、その気配は人の辿り着かぬ高みから降りてきて、リディノの側に守るようにしゃがみ込んで寄り添っていてくれたのだろう。だが、今。
「…あ」
リディノは微かに体を震わせた。
「何…かしら…」
ふいに寒くなった。風が強くなったのか、日が陰ってしまったのか。
体を抱えて唇を噛む。立ち去った気配を無意識に追うようにくるくると周囲を見渡すが、寒さは続く、まるでリディノを諌めるように。
けれど、リディノは激しく首を振った。唇を噛み締めたまま、体を抱いた手を解き、合わせて強く握りしめる。
(アシャ兄さま)
すがりつく、ただ一つの拠り所たる、その名前に。
(アシャ兄さま……どうかご無事でいらして)
寄り添う姿を考えない、胸の中で塗り潰す、真っ黒に、無意識に、存在しないものとして。
(一刻も早く、戻っていらして……私の、アシャ)
「怖い顔をなさっておいでだ」
「っ!!」
突然響いた声にリディノはぎょっとした。
ベランダの白い手すりを隔てて、花苑の中に1人の男が立っていた。




