3
アギャン公は政治と支配に倦み疲れていた。息子に座を譲り、余生をこの岩屋で穏やかに終えようと考えていた。迫り来るラズーンの破滅も気にはなっていたのだろうが、それを扱いあぐねたのだろう。
その『逃げ』に巧みにすり寄った者がいた。アギャン公の穏やかに静かに暮らしたいという望みと、一人息子にきちんと大公の座を継がせたいというその願い、もちろんアギャンが健常であれば、そうそうは叶うわけもない願いを、双方とも満たしてやろうと持ちかけた者が。
闇の彼方にギヌアの笑みが浮かび上がって見えた。自分の保全しか考えない四大公を嘲弄し、まんまと『運命』の手先を潜り込ませていく。
「…アシャ殿…」
茫然自失から立ち直ったアギャン公は、より一層濃い絶望に顔を歪ませながら、真っ白になった唇を開いた。右肩越しに振り返ったままの奇妙な体勢で、横目でアシャを見やってくる。
「……我が裏切り……如何ように処分されても仕方がない……が、こんなことをお頼みできるわけはないと思いながらも申し上げる……グードスを……我が息子を……探してやっては下さらぬか」
「『泥土』へ行けと?」
酷薄な響きでアシャが問い返す。
「おおもちろん、危険なだけでは済みますまい、だが、カルキュイの即位はならぬのです、あれは、あれだけは決して四大公に据えられぬ」
そんなことになれば、『泉の狩人』(オーミノ)は、容赦なくラズーンを滅ぼすべしと定めましょう。
「、ではあれは」
はっとしたようにアシャが続けた。
「『穴の老人』(ディスティヤト)の一族か!」
「おお、おお、そうでありましょうとも、でなければ、このような策に関わるわけもありませぬ」
「では、アギャン公」
アシャは厳しい声で促した。
「これからすぐに取って返し、カルキュイの座にあなたを座らせ、その足で『泥土』へ赴こう」
グードスはまだ即位していないし、行方がはっきりしていない。アギャン公そのものが戻るのが確かに一番説得力がある。
「いや!」
アギャン公は強く拒んだ。
「儂は行けぬ、行けぬのです、アシャ殿、なぜなら」
応じながらアギャン公は、ゆっくりと首を回し始めた。一旦正面に向き直り、それから今度はじわじわと左肩から振り返る。
「!」
見えた横顔にユーノは息を呑んだ。アシャは満更予想していなくもなかったのだろう、一瞬ぐっと顎に力を入れたようだが、無言のまま進み出て、アギャン公の前に回る。我に返って置き去られるまいと、慌てて後を追って、ユーノはアシャ同様、アギャン公の前に立った。
「っ」
ぞくり、と背中が竦む。
一瞬よろめきかけた足を踏ん張る。
「アギャン…公」
アシャが重く唸った。
アギャン公は肩からマントのようなものを羽織っていた。それに包まれ隠されていたのは、洞窟で陽の光も浴びずに暮らして、やせ衰えた老人の小さな細い体だろうと思っていた。
だが。
「お笑い下され」
右頬だけで笑ってみせたアギャン公が、マントをそろそろと引き開ける。
その手は既に人のものではなかった。異様にしなやかな、人間の腕ほどありそうな木の棒が、巧みにくねり伸びて、器用にマントの前をかき分けている。
マントの内側には、古びて枯れ切った木の幹に肉塊を押し込み混ぜ合わせ、無理矢理固めたような色合いの柱が一本。その下からやはり、赤黒い、樹木の切り株か根の固まりのようなものが、広がり這って洞窟の岩場にしがみついている。しかも、それは時々ぴくりぴくりとぺったりした皮膚を震わせて蠢き、岩の隙間から隙間をずるずると這いずっていた。マントをかき分けた『手』はその中の数本だ。
柱の上は色を薄めながら細くなり人の首の形状となり、その上にアギャン公の疲れ切った灰色の顔に繋がっている。
アギャン公の左半分の顔も、人ではなくなっていた。樹木の繊維と赤黒い肉塊がでこぼこと入り交じり、かろうじて輪郭はあるものの眉はなく、膨らんだ瞼の下の眼は一筋の切れ目、その奥に妙にきらきらと光る金の虹彩が見て取れる。鼻も半分はぬったりと光る凹凸となって、こちらは逆に干涸びた木の裂け目のような口に繋がっている。
だが、声だけは変わらず、低く静かに響いてきた。
「見ての通り、儂は既に体の半分以上が『穴の老人』(ディスティヤト)と化している……この隠居所をしつらえてくれる、それが条件だったのです」
きょろり、きょろりと左瞼の下で金色の瞳が周囲を伺った。それは穏やかにこちらを見ている右目と対照的な姿、びくんびくんと脈打ちながら震え蠢く『根』が、唐突にアシャの体を掠めるように飛んで岩に落ち、ずるずるとまた引き寄せられた。
「しかし、グードスは……あれは違う…儂のように侵されてはいない…」
びゅっ、と今度はユーノのすぐ近くへ『根』が飛び、落ちて引き寄せられていく。
同時に、今までマントの中に納められていた『根』達が、じりじりとマントを越え、周囲の岩場へ広がり這いずり始めた.
「アシャ…」
「ああ」
アシャも素早く周囲に眼を配る。確かに今、アギャン公は四大公として、またグードスの父親として話をしているが、左半分の顔は引き攣れるような禍々しい表情に歪み始めているし、何より、まるでアシャとユーノの居場所を手探りで探そうとするような、威嚇して身動きさせまいとするような『根』の意図は、それと知らされなくともあきらかだ。
「どうか、グードスを……グードスを…」
助けてやって下さい。
紛れもなく思いやり深い父親の声で懇願したと同時に、左半分の顔が邪悪に歪んだ。同時に数本立ち上がった『根』の1本が、ユーノの首へとまっすぐ飛ぶ。
「ユーノ!」「くっ!」
とっさに差し上げた腕にぴしりと音をたてて当たった『根』は、次の瞬間巻き付いて右手を締め上げた。
「む…っ」「うぉああああ…っ」
ユーノは後ずさりし引き寄せられまいとする。アギャン公は異様な声を絞り出し身悶えしながら一気にマントを跳ね上げる、その影から数十本の『根』が2人に襲い掛かる。




