17
夜の闇にむせ返るようなラフレスの薫り。星々の光を受けて淡く輝いているのは『月光花』の異名を持つラフレスにふさわしい、地面に散り乱れた真白の花弁だ。
昼間とは打って変わって風のない、月も雲に隠されたのか、星光のみの薄暗い夜だった。
花苑にジノの姿はなかった。
先に行って待っているつもりではなかったのか、それとも花に紛れて襲ってくる気だったのか。
「…」
背後に突然ひやりとした冷気が現れ、ユーノはゆっくり振り返った。
「ジノ…」
「お呼び出しして申し訳ありません」
謝りながらも、細めた瞳の奥から殺気が消えない。手にはあまり見た事のない細身の短剣、構えながらことばを続ける。
「何も聞かずに、お相手下さいますように」
「ジノ…」
ユーノも右手から剣を離さず、静かに問いかけた。
「どうしてなんだ?」
私にはあなたと闘う理由がない。
言外に想いを込めたのは、相手が紛れもなく本気だとわかったからだ。
「詳しいことは申せません」
普段ならば立風琴を抱える右手、今は剣を逆手に緩やかに顔の前へ構える動きは、奇妙なことに慣れた気配があった。いつもより幼く見える顔立ちが苦しげに歪んでいる。じりじりと間を詰める足下に、ラフレスの花弁が踏みにじられる。常ならば、姫さまこれを、と愛おしそうに選んだ美しいものを拾い上げ、主を喜ばせようと心砕くその顔が。
「私には、姫さまのお嘆きが耐えられません」
おそらくはここに落ち着くまでには数々の修羅場を潜ってきたのだろう。短剣の先は震えもぶれもしない。レスファートが構えるよりも隙ない仕草、なのに、その剣の向こうからこちらを見据える目には諦観漂う静かな色があった。
死ぬのは覚悟の上。勝てるとは思っていない。けれど、他に手がない。
一瞬噛み締められた唇が、赤みを増して吐き出される。
「お願いいたします」
「リディが、どうしたの」
相討ちにすることしか考えていない、そんな相手を逸らせるとは思っていない。
けれど、ユーノはジノを殺したくない。
間合いを詰める相手に、ごく僅かごくごく僅かに体を開いて気を逸らせ、そのままほんの少しの空間を作る、そこにことばを落としてほしいと願いながら。
「……姫さまは……」
何かが心に通じたのだろう。
ジノは眉を寄せた。
「心より、アシャ様を愛しておいでです。けれども、アシャ様のお心には…」
悲痛を響かせてジノは一瞬唇を引き結び、吐いた。
「もはや、姫さまはおられない。幼い頃より、アシャ様のみを慕われ続けた方ですのに…」
「ジ…」
「お忙しい公達に、ずっとお寂しい想いをされて、アシャ様を実の兄上とも慕われておられた方ですのに…っ!」
苦しそうに顰めた顔は、自分のことばの意味を気づいているからだ。
『兄上』と『恋人』の間にはどうしても越えられない壁がある。この想いは報われない、始めからそう定められていたことを、ことば一つが証明してしまっているからだ。
それでも、それを越えようとする。
それでも、それを押し通そうとする、自分の命を賭けてまで。
「……どうして、あなたが、そこまでリディノに賭ける…?」
問いはからかいではなかった。ジノが胸に抱えて、口にしないと誓った何かを吐き出させないうちは、剣を向けられない。
きっと力は圧倒的だ。ユーノはジノを易々と屠れる。
それにこの戦いは後に退けない。無傷で終らせられないかも知れない。
ならば、命を確約されている者は、可能性に賭ける者に敬意を表して向かうべきだろう。
「……私は……姫さまに拾われました…」
ジノが小さく呟いた。さわ、と草木を揺らせた風が、ジノの頭に巻いた深草色の布の端を閃かせる。
「……姫さまに拾われて初めて……人の温かさを知りました」
ジノの体が急に小さく縮んだ。ほんの幼い子どもが、衣服の端を握りしめ、今にも泣きそうな顔で見上げているように見えた。
「夜闇に怯えなくていいことも……お腹を空かせて泥を掘ったり、雨の中を這いずって食べられるものを探さなくても生きられる……寒くなくて、痛くなくて、温かい寝床で、優しい吐息を聞きながら眠れる……」
ジノは薄く微笑んだ。
「…なんと…幸せな、ことか…」
夢のような、と掠れた声が続けた。
「………私のような者に……姫さまは、計り知れない慈悲をかけて下さいました……」
口調の柔らかさ甘さを裏切って、力を込められて真っ白になった指先が、もう薄青く見える。
「その姫さまが……兄上と慕われた方を失われるのを哀しまれている……それをお慰めするのに…立風琴でも詩でも足りない…私の命など…なお…足りない…」
ぐ、とふいにジノが歯を食いしばった。それまでの独白を裏切る激しさで顔を上げ、ユーノを見据える。
「この方法しか思いつかない、愚かな頭をお嗤い下さい。これは私の独断、姫さまの命ではございません!」
「…」
思わず、ユーノは苦笑した。
(アシャが愛しているのは私じゃないのに)
セレドを発つ間際、レノの背で聞いたアシャの告白、レアナのためなら命を賭けても悔いはないと言い切ったアシャのことばに、抉られた胸の傷みを、今も覚えている。旅の空、どれほど遠く離れていても、アシャのレアナに対する想いは薄れることも揺らぐこともなく、ラズーンに着いて生死の境にもその名を呼ぶほどに深まり続け、今はその最愛の女性を側に置いて、アシャの覇気は日々増しているようにさえ感じる。
そしてユーノは、セレドだけでなく、ここでもこうして夜闇に溶け入るしか、アシャへの想いを耐える術がないというのに。
「あなた様にはおわかりになりますまい!」
ユーノの苦笑にむっとした顔で、ジノは声を荒げた。
「セレドの皇宮でぬくぬくと育ち、美しい姉君と妹君、優しいご家族に囲まれ、当然のように平和と安寧を享受なさって来られた方には! 夜が来ることだけでも恐ろしいと思う気持ちも、たった1人、自分を抱き締めて下さった方への忠誠も、想像さえつきますまい!」
「…」
噛みつくジノを、ユーノはじっと見返した。
(わからない、と)
「……」
吐息をつく。
(わからないだろうと、言うんだね、ジノ)




