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(そう、もし、レアナなら)
リディノの胸の奥底で、密やかな声が囁く。
(アシャ兄さまの想い人がレアナなら、きっと私も諦められる、でも)
もし、ユーノなら。
息を詰めて見守るリディノの前で、アシャの中に何か激しいものが膨れ上がり、やがて突然引いていったのがわかった。強張った肩から力が抜ける。ゆっくりと後じさる、まるで足下が危うくなったとでも言うように。
(アシャが)
あの、アシャ・ラズーンが。
(想い人の名前を告げろと言われただけで)
「…っ」
それがどれほどの強さで想っているのかを語っているようで、それが絶対に自分には向けられないと思い知らされるようで、リディノはまた足を踏み出す。
後じさったアシャが俯きがちに背後に手を伸ばし、触れたへッドボードを掴んで、のろのろと視線をベッドに移した。
「………護りたい娘がいる……」
低く掠れた声がようやく答えた。ゆっくりと動くアシャの唇を目で追い、耳に届くより先に、その内容を聞き取ろうとする。
「その娘しか目に入らない。……自分でも驚いている」
声が微かにはにかんだ。まるで少年だ、リディノはそう思う。
あのアシャが。
氷の微笑を武器にしていた、あのアシャ・ラズーンが。
「もし、その娘が俺の命を欲しがったら」
声が震えた、まるで初めての夜を過ごしている睦言のように。
「俺はきっとためらわずにくれてやる」
ああ、違うかな、と優しい声が戸惑った。
「ためらわずに……差し出す…」
(差し出す、ですって?)
相手が受け取ってくれるかどうかわからないから。そういう気配がほの見える。こんなに優しいことばが、これほど酷く胸を貫くものだとは思わなかった。
「兄さま…」
何をおっしゃってるの。
「アシャ…兄さま…」
何をおっしゃってるか、わかっているの。
ラズーンの娘達がどれほど望んだだろう、アシャのこの恭順を。
どれほど願ったことだろう、アシャのこの祈りを。
(わかってるの、アシャ)
どれだけ優しく温かく華やかな笑みを向けられても、ただ1人として、それを受け取った娘などいないのに。
(あなたは、今、こう言ってるのよ)
俺を愛して欲しい、と。
(一体誰に向けて)
「それは…一体…」
誰なの。
「アシャ、」
「っっ!」
突然開いた扉と響いた声に、2人は息を呑んだ。口を噤むリディノ、はっとしたように振り仰いだアシャが、一瞬にして体勢を立て直す。
「あ……ごめん」
荷物らしきものを片手に入ってきかけたユーノが、驚いたように立ち止まり、向かい合うリディノとアシャを見て取って薄赤くなった。照れたように笑って向きを変える。
「後でいいから」
「ユーノ!」
アシャの動きは素早かった。リディノの側を吹き過ぎる風、それほどの素っ気なさで擦り抜け、一足飛びに扉を出かけたユーノを捕まえる。
「構わん。何か用だったんだろう?」
覗き込むアシャの顔は僅かにうろたえている。落ち着かなく揺れる視線はユーノの全身を必死に捉えて、何かを探し出そうとしているようだ。
「いや、全然後でいいんだ、たいしたことじゃないし」
ユーノは困った顔であたふたと手を振る。
「ごめん、話し込んでるとは思ってなくて」
だめだな、ちゃんと声をかけなくちゃいけないよね、お里が知れるな。
恥じらった口調が繰り返しごちる。
「大丈夫だ、もう終るところだったんだし…何か聞こえたか?」
応じたアシャの物言いも随分だったが、何よりリディノの胸に痛かったのは、今の話をユーノに聞いていて欲しかったという表情がちらちらと見えるあたり、それはリディノを打ちのめす。
それは、誰なのか、の答え。
(ユーノ、なの…?)
「何も聞いてないよ、そんな礼儀知らずじゃない」
「ああ、そういう意味じゃない」
「聞かれて困る話なら、ちゃんと扉を閉めとけって」
「そういう話じゃないんだ」
「じゃあ、いいだろ、何も聞いてない」
「何も聞いてないんだな」
「しつこいぞ、アシャ!」
扉でごちゃごちゃやり合う様子、ユーノはあからさまに迷惑している顔だが、アシャはどことなく嬉しそうにも見える。
どんな形でもいいんだ。
どんな形でもいいから、側に居たいんだ。
(あなたの、側に)
「……っっっ」
それは、まるで、アシャに向かう自分そっくりで。
「お、お話がおありよね、アシャ兄さま」
「!」
リディノの声にアシャが振り返った。
「ユーノに話があるんでしょう」
「…何のことだ」
背後にユーノを庇うような姿勢、いや違う、リディノの視線からユーノを護るかのようなアシャの姿は既に殺気立っている。まるで、目の前に巨大な怪物が居るように。卑劣な罠があるかのように。見えない剣が引き抜かれている、背中に庇うユーノを護るために。
(私なのに)
アシャを兄と慕い、ただひたすら無邪気に敬愛を捧げてきたリディノなのに。
(まるで、ユーノを害する敵に向かうような顔!)
潤み零れ落ちた視界、それでもアシャの表情は揺らがない。冷淡で厳しく、いささかの同情もなく。
「リディっ?」
逆にその背から部屋を覗き込んだユーノが顔色をなくして声を上げた。
「ちょ、アシャっ、リディが」
「いいんだ」
「、ごめんなさい、アシャ!!」
「リディ!!」
呼びかけるユーノの声も疎ましく、リディノは回廊を駆け抜けて自室へ飛び込んだ。




