3
左肩は、表面の回復度の割には、なかなかすっきりと痛みが取れていなかった。左肩に力をかけず負担を与えず、体の他の部分に注意を向ける訓練にちょうどいいと言って、アシャは無茶を押すユーノの剣術指南を引き受けてくれたはいたが、さすがにアシャほど基礎を積んでいない体だから、どうしてもじわじわと左肩に無理がかかっている。だが、『泉の狩人』(オーミノ)と『運命』、特になぜか不気味なほど沈黙を保って動かないギヌアのことを考えると、そんな無理を押してでも剣の腕を磨かざるを得ない。
「…ふ…」
連日の剣の練習、平和すぎる夜の浅い眠り、湯の温かさが相乗してユーノを眠りに誘い込もうとする。とろりと落ちそうになる瞼、柔らかく沈み込もうとする意識を首を振って払い、ユーノはごしごしと体を拭いた。
鏡には見飽きた全身の傷、仄白く真昼の陽に浮かび上がって、まるで今炎に灼かれつつある刻印のようだ。視界の端でそれを見やり、ユーノは黙々と体を拭き続けた。手早く深緑のチュニックを身に着けると、アシャを待たせていると急いで浴場を出る。半端に濡れた髪の毛を被った布で擦りながら部屋へ戻り、入り口すぐの場所でぴたりと立ち止まる。
(アシャ…)
眠っている。
長椅子に細身の、イルファ達猛者から比べると随分華奢に見える体を伸ばし、頭に両腕を敷き込んで目を閉じている姿は、ラズーンまでの旅の空の下でよく見かけた姿だ。
閉じた瞼、長い睫毛が陽の光を弾いて煌めき、滑らかな頬に淡い陰影を作っている。窓から入る風に金褐色の髪が乱れて、日焼けしない白い額に、本人が聞くと絶対嫌がる女性的な目鼻に零れ散っている。
(きれい、なんだよね)
ユーノはそっと密やかに溜め息をついた。
いくらアシャが拒もうと否定しようと、無造作にこうして寝転んでいるだけでも、全てに整い過ぎた絶妙な美、それをことばで言い表そうとすれば、ユーノの幼い語彙の中ではそのことばしか浮かんでこない。
(綺麗だよな)
何もかも、ふさわしい場所に、整っている。
(闘ってる最中だって、綺麗だって言うのは、どういうことなんだろな)
荒々しく命を屠り削るような空間で、曲げた手首、見据える紫の瞳、相手を仕留める動き一つ一つが無駄なく、生まれついての狩人だったのだと思わせる動きは、心ある者なら戦いの隙間にさえ魂を射抜かれるかも知れない。そして、次の瞬間には、薄く艶やかな笑みを向けられ、しなって伸びてきた腕が繰り出す剣に急所を貫かれている。
(殺されることさえ、当然のような)
自分と同等の『人』ではなく、桁違いのどこかの空間から、命を狩るために舞い降りてきた神、そんな気にさえなるかも知れない。
けれど今、アシャは眠っている、薄く唇を開いて、ひどく気持ち良さそうに。
(……疲れてるんだ)
そろそろと数歩歩み寄る。寝息をたてるアシャを覗き込む。
セシ公とずっと連絡を取り続けている。レアナやリディノやレス、イルファの相手をしている。合間を縫うように『氷の双宮』へ何度も出かけて、時に険しい顔で戻ってくる。
(ラズーンの正統後継者、なんだもんなあ)
ユーノの前でいくらおどけてくれていても、レスファートの苛立ちに困った顔で笑っても、イルファと冗談を言い合っていても、アシャの本分は『王子』なのだ。ユーノとて、皇族の端くれ、公務の大変さは想像がつく。長くその席を空けていた王子が、ついにその位置に戻ったのなら、降りかかる期待も訴えられる要求も大きなものだろう。ましてや、世界の覇権が『運命』に移るかどうかという瀬戸際、本来ならばユーノの剣の相手などしている場合ではないのかも知れない。
(いついなくなっても、おかしくない)
ユーノはもう少し近寄って、そっと長椅子の側に膝を突いた。
(でも、今ここに居てくれてるってことは、まだ『ボク』のために時間を割いてくれるってことだよね)
貴重な時間。アシャが休めるのは、ひょっとしたら、今だけかも知れない。
ならば、もう少し眠らせておこう。
そう決心して立ち上がろうとした途端、アシャが目を開いてどぎまぎした。
「あ…」
「どちらかと言うと」
にやり、とアシャは悪戯っぽく唇を吊り上げた。
「俺は襲う方が好みだが」
「、このっ……嘘つきっ!」
一体どのあたりから目を覚ましていたのだろう。
一気に顔が熱くなったユーノがののしると、アシャは朗らかな笑い声を上げて身を起こした。くしゃくしゃになった髪を滑らかな仕草で掻きあげ整える。
「ほら、左肩見せろ。湯で濡れただろう」
「…うん」
渋々見せながら唇を尖らせる。
(性格、悪いっ!)
時々うっかり忘れてしまう。そうだ、アシャは人をからかうのも好きで、そういう意味では誠実とか真面目とか真摯ということばとは縁遠い男だった。




