10
夜は密やかに更けていっている。夜会に疲れた人々は三々五々、それぞれの寝床に戻り、ミダス公の屋敷はしんと静まり返っていた。
「………」
広間のバルコニーで、アシャは1人、夜にじっと身を委ねていた。
つい先ほどリディノ達に解放されたばかり、目当てのユーノはいつの間にか姿を消してしまうし、彼にとっては憩いよりも疲労が増すばかりの夜会だった。それでも幾度かは、心遣いの細やかなレアナが疲れを労ってくれはしたが、ミダス公主催の、しかもアシャの功労を労う夜会に主賓が早々に抜けるわけにも行かず、結局最後まで付き合った。
(闇が、ありがたい)
「…くっ」
胸の中で響いた呟きに、我に返ってアシャは小さく苦笑した。夜闇を喜ぶなぞ、何年ぶりだろう。幼い少年の日、パディスの野を駆け回って以来ではなかったか。
あの頃のアシャは、己の力しか目に入らなかった。日増しに伸びていく力に驚愕し感嘆し、自由に使える場所が欲しくて、『太皇』の目を盗んでは『氷の双宮』を抜け出し、1人深夜の草原を疾駆していた。後にセシ公となるラル(もちろん、アシャは熟知していた)に見られ、『氷の双宮』へ戻ったところを『太皇』に見つかり、初めて『封印』を受けた。
封印。
手摺にもたれ目を閉じていたアシャは、薄く目を開いて夜の花苑を見つめた。頭の中に『太皇』のことばが遠く近く鳴り響く。
「ならぬ」
「え…?」
『泥土』から戻りグードスの後継式を済ませた足で『氷の双宮』に入ったアシャは、休む間も無く『封印』を願い出たのだが、『太皇』は一言の元に断じた。よもや拒まれるなどとは思いもしなかった衝撃にアシャはことばを失う。
『封印』。
それは、ラズーンの第一正統後継者として位置づけられた時からアシャに課せられた枷だった。パディスでの夜遊びの後、『太皇』はアシャを『氷の双宮』の地下に呼び、冷ややかな声で使うなと命じた。
「そなたの力は『魔』に近すぎる」
アシャは食ってかかった。
「そんなことは、私が生まれた時から既に予測されていたはずです!」
アシャは父母を知らない。彼は母の胎盤を経て産まれたのではない。ラズーンの、生命の再生装置が起こした気まぐれだったのか、それともあらかじめ星が定めた日時だったのか、今となっては知る術さえないが、彼は『氷の双宮』に備えられた生暖かい液体の中から産まれた。
本来なら『運命』になりかねない危うい状況だったと聞いている。胎児であったときは黒髪であったらしい。だが、育つにつれて色素が抜け、瞳は深紫の輝きを宿し、髪は金色に輝くようになった。
『太皇』はあまりの愛らしさゆえに彼方へ放逐するに忍びず、かと言って、途方もない力を持ったこの少年をどう扱うべきかわからず、迷いに迷っていた。
ある夜、北天に星の輝きが強まったとき、ついに『太皇』は天啓を受けた。
『其の者の力を時が来るまで封じよ。良きにせよ、悪しきにせよ、其の者はラズーンの存亡を左右する標の子、封じてなお、魔になるも良し、光になるも良し』
それは『太皇』の記憶のみに残る、彼方の星の声であったと言う。
天啓に従い、『太皇』はアシャが怯えるのも構わず、その力を『封じた』。ごく初歩的な心理操作の手順、アシャがその力を全開放する度に、彼が心を寄せていたものが破壊されるようにし向けたのだ。
7歳の時に『太皇』に食ってかかった時の代償は、お気に入りの馬が力の余波を受けたことにして片脚切り飛ばされた。10歳のときは飼っていたふわふわしたティグサの番いがズタズタに切り裂かれた。14歳の時は『太皇』自らの体を朱に染めて見せた。
長い長い時間をかけて、アシャの力は『封印』された。
初めのうちこそは『太皇』に反発していたアシャではあったが、長ずるにつれ、己の力の巨大さに目を開き、怒りに駆られた時にどれほどの破壊をもたらすのか理解するようになった。それは己の愛した者達が殺されるという代償よりも、遥かに大きな支払いを周囲に要求する。
アシャは必死に己を制御する術を学んだ。同時に、できるだけ人との関わりを避けた。未熟な心では容易に人を愛し、容易に相手を巻き込んでしまいかねない。
『氷の双宮』にいる名目上、第一正統後継者の名は受けたが、『ラズーン』は彼にとっては意味がなかった。そんなものは本気を出せば、すぐに手に入れることができるとわかっていた。それよりも、己の力を制御することが先決だったのだ。
視察官になることを考えたのも同じ理由だった。旅から旅をするなら、一つ所で人々と深く関わることはなくなる。諸国を巡ることで、あらゆる状況に己を晒し、その時々の制御を鍛錬することができる。
ギヌアに追われたとは言え、小国セレドに落ち着いてもいいと思い始めたのは、力の制御に自信ができたせいだ。『太陽の池』に映った己のオーラを自由に操りながら、一般の視察官と見分けがつかぬほどに制御できると確認できて嬉しかった。
『氷のアシャ』の噂も苦痛ではなかった、『氷』でなければ、アシャは世界を炎に変える。旅の間に、周囲を破壊せずに全開放近くまで力を放つ制御力も得て、アシャはこの世界の傍観者として静かに生きる道を手にしたはずだった。
だが。
(ユーノ)
あの洞窟で、ユーノが傷を裂かれて気を失った時、アシャの内側で『封印』が簡単に溶け落ちた。激情に消え失せた『封印』は、アシャを一瞬さえ食い止めなかった。
(挙句が、瀕死のユーノと…平手打ち…だ)
体が自由になると、アシャは急ぎ『泥土』から『氷の双宮』に向かい、『太皇』に新たな『封印』を願い出た。
幼い頃とは違い、今度はアシャも『封印』の難しさと必要性を十分に理解している。抵抗はしないし、むしろ協力できるはず、『太皇』とて世界を破壊しかねない『魔物』を野放しにはしたくないだろう。
なのに。
「……なぜですか」
アシャは冷たく滑り落ちるような感覚に我に返って繰り返した。
「今の私は世界にとって危険な存在では?」
「星が告げたのはただ一度の『封印』のみじゃ、その後、魔となろうと光となろうと、全てそなたに任せよと」
「『太皇』…」
アシャは呆然とした。
制御できる自信などさらさらなかった。特にユーノなどと言うはねっかえりがいる限り、アシャは彼女の危機に身が細る思いをし続けるだろう。もし万が一、彼女が死ぬようなことがあれば、今のアシャは世界を火の海にしても相手に報復するに違いない。
「それは」
「もし」
静かな声がアシャを制する。
「『氷の双宮』が滅ぶようなことがあれば、そなたは一体、何に『封印』を頼る気なのじゃ」
アシャはぎくりとした。
「ラズーンは激動の世に没するかも知れぬ。あるいは形骸になって残るやも知れぬ。未来を語れる者は誰もおらぬ、たとえ星でさえも、な」
「……」
アシャは唇を噛んだ。もし今回のように暴走して、ユーノを自ら傷つけてしまったのなら。傷つけるだけではなく、我を失ったアシャ自身が、彼女を屠ってしまったとしたら。
恐怖に震える。
「アシャよ、我が息子よ」
『太皇』は白い髪と眉、豊かな髭の中から、憐れみと慈愛を浮かべた表情でアシャを見つめた。
「そなたはもう知っておるはずじゃ、我と我が力を制する術を。幼い頃に失ったものと、この先失うかも知れぬもの、重ね合わせれば、自ずと答えは出ておる。すでにそなたは」
鋭い瞳が打ち据えてくる。
「制御できぬ力が、あの娘に何をもたらしたのか、知っておろう」




