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シャイラは途中でアシャとはぐれ、必死に『泥土』の中を駆けていた。
鼻を抓まれてもわからない闇の中、あっと思った時には思い切り前につんのめっていた。倒れた下には敵兵の死体、ぞっとして起き上がろうとした矢先、前方で騒ぎが起こったのに身を潜めた。
「お、俺達は王、シダルナンの元…ぎゃひっ!!」
男の声の後で、苛立たしげな舌打ちが聞こえた。ばしゃっと男が倒れる音、続いて臓腑を掻き毟っていくような断末魔の悲鳴が響き渡る。
「ぎゃあぁあああーっ!!」
被さるように聞こえた泥の跳ねる音、びちゃびちゃと鳴る水音に、シャイラは何が起こったのかを察した。男達はそれぞれ背中に『飢粉』を詰めた革袋を負っていた。泥獣に狙われれば一溜まりもあるまい。
男を倒した人影は軽々と空を飛び、こちらへ向かって走ってきていたが、途中でまた別の刺客に捕まったようだ。切り結ぶ剣戟の音、荒い息遣い。目を凝らせば3人が襲いかかっているアシャの姿がある。加勢をしなくてはと立ち上がって駆け出したシャイラの前で、一瞬身を沈めたアシャに次々と剣士がなだれ込むのが見えた。遅かったかと臍を噬んだシャイラは竦んだ。
どんな音がしたわけでもない。ほんの一瞬、襲いかかった3人が硬直したように宙空に体を浮かせていただけだ。だが、金色の影が滲み出るように囲みを抜け出したと思うや否や、男達はまるで決められた事でもあったかのように、次々に泥の中へ体を突っ込ませていった。
「…」
抜け出たアシャは誇る様子もない。冷ややかな表情で3人を見下ろしていたが、視線を感じたのか、ふと目を上げて叫んだ。
「シャイラ! 泥獣だ!」
「っっ!」
とっさのこと、振り向きざまに突き立てた剣の切っ先が、いつの間にか忍び寄っていた泥獣の背中を貫いた。びくりとした泥獣の緑の複眼(本当は『眼』ではない)がこちらを見上げた、いや、『見上げた』と感じた時はすでに、泥獣の術中に嵌っていたのかも知れない。
「あ…あっ!」
次の瞬間、シャイラは悲鳴を上げて、突き立てた剣を引き抜いていた。なぜなら、シャイラの剣の先に倒れていたのは1人の美少女、それが背中を刺し貫かれて息も絶え絶えにシャイラを見上げていたのだから。
何ということをしたんだ俺は、と慌てて美少女を抱き起こそうとしたシャイラの頭からは、ここが『泥土』であることも、今刺し貫いたのが確かに泥獣であったことも消え失せていた。ただ彼は、少女を己の剣で傷つけたのだから救ってやらねばならない、とだけ考えていた。
もし、アシャがいなければ、シャイラはおそらく、そのまま泥獣の贄と化していただろう。だが、シャイラが動く前にアシャの声が響き渡った。
「シャイラ! そいつは幻だ!」
鞭のように厳しい声とともに、シャイラは腹のあたりに嫌というほどきつい一撃を食らった。痛みに呻きよろめいて、何をするのかと抗議しようとした途端、倒れている少女の顔目掛けて、アシャが剣を振り下ろした。
「アシャ…っ…さ、ま……? …?」
叫びかけたシャイラは、途中でことばを失った。ざくっとアシャが少女の顔を断ち割ったと同時に、美少女の姿は消え去り、後には絶命した泥獣が肉の襞をひくひくと動かして転がっているだけとなったからだ。
「危なかったな」
アシャがにやりと笑った。
「知っていても引っ掛かる。性質の悪い幻惑遣いだよ、こいつは」
「あの…アシャ……あなたには見えなかったんですか?」
シャイラは呆然とし、衝撃から抜けきれないまま問いかけた。
「確かに女の子が深い傷を負っていて…」
「見たよ」
アシャは事も無げに言ってのけ、シャイラを再び驚かせた。
「ならばなぜ…」
「ここは『泥土』だ。女子どもが易々と入り込めるところじゃない」
シャイラは感嘆するより呆れ果てた。どこまで冷静な、いや、どこまで非情な頭を持っているのか、この甘く優しげな男は、と。
「グルセトが出ている」
アシャはシャイラの考えを読み取ったように微かに苦笑し、顎をあげて促した。
「行くぞ、シャイラ」
「は、はいっ」
静かに走り出すアシャに、シャイラは慌てて付き従った。




