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沈黙がわだかまる。
どちらも引き受けることのできない沈黙が、光の部屋に重くたゆたう。
「……我らが聖女王よ」
ラフィンニはわずかに首を振った。取り乱した自分への戒めのような、吐露し過ぎた心情をかき消すような仕草、低い声で訴える。
「剣を受けてほしい……それこそが、我らの忠誠の証となる」
音もなく歩み去り、左側に壁にそっと手を突いた、と壁がゆっくりと左右に押し開かれ、深い藍色の口を開く。
光の部屋から一転、今度はどこへユーノを誘おうと言うのか。否という返答を聞かぬために、今度こそ逃げられない深い闇の道を示しているのではないか。
「……わかった」
ユーノは深く溜め息をついた。覚悟を決める。
どちらにせよ、『狩人の山』(オムニド)を、ユーノ一人、それもチュニック1枚の軽装で、無事に下れるはずもない。
ラフィンニの指先の示すままに歩み寄る。
その口の中は、遥か下へと続く半透明の蒼水晶の階段になっていた。想像していたような次第に濃くなる闇への道ではない。下の方に、微かな光、暮れなずんだ空の紫が、ひたひたと波のように揺れながら打ち寄せている。
「ここは?」
「途中に宙道を細工した通路じゃ。時もかからずに、『狩人の山』(オムニド)の向こうの麓に降りることができる』
「向こうの?」
「そなた達の言う、『世界の果て』じゃ」
(世界の果て)
どきり、と痛いような強い鼓動が胸で鳴り響いた。
そんなものを誰が見たことがあるのだろう。セレドではもちろん、ラズーンの者でさえ、『狩人の山』(オムニド)の彼方であるのなら、見たことがある者はほとんどいないのではないか。
(どんな場所なんだろう)
ずきずきと胸の内側で痛み続ける拍動、初めての旅の空を見た時、初めての剣を手にした時、今まで知らなかった新しい世界に触れようとする時に感じる、これは好奇心だ。
(何があるんだろう)
想いは体を突き動かす。怖さに震え、それでも止められずに一歩階段に足を降ろしたとたん、まるで、その一歩で1つの国を駆け抜けたような衝撃と疲労感が襲い、思わずユーノは体をふらつかせた。
「ユーノ」
ラフィンニがはっとしたように白く細い指で支えてくれる。
「魔の者には堪えぬ通り道だが、そなたには辛かろう」
「大…丈夫、」
歯を食いしばった。
「ちょっと、目眩がしただけだから」
虚勢を張って体勢を立て直す。
再び1歩。続いて1歩。そして1歩。
(く、そ…っ)
1歩足を進める毎に、身体中の力が抜けてくる。気力が根こそぎ奪われる。
見た目には十数段しかない階段だが、この行程で『狩人の山』(オムニド)の頂上から麓までの高さを降りているというのだから、1段ごとに途轍もない距離を含んでいることになる。
そのような宙道をこともなげに作って使っている『泉の狩人』(オーミノ)はおよそこの世ならぬ力の持ち主、だがその彼女らをもってしても破滅に追い込まれた『穴の老人』(ディスティヤト)とはどのような存在だったのか。
いずれにしても、この世の理を越えた存在、それが間近に居てユーノに話しかけているということに、今更ながら身震いが出る。ラフィンニのしなやかで細いながらも力強い指に支えられ、1段、また1段と歯を食いしばりつつ降りていく。
やがて、ついに最後の一1を降り切ったユーノは、小さく吐息をついて顔を上げ、次の瞬間、目の前を覆った光景に息を呑んだ。
紫と藍の混じり合った空。その下に灰青色の水面が繊細な布のように翻る。縁取りは細やかなレースのような白い波頭、岩だらけの岸辺に砕けてあぶくを生み、その度ぴりりといがらいような匂いが、鼻の奥に押し寄せてくる。
正面は彼方まで空と水だった。正面だけではない、左右視界の届く限り、上下に切り分けられた空と水。今まで見たどんな湖の比でもない。波打つ水の動きや打ち寄せる波の高さを見れば、その波間に在るなら自分がどれほどかぼそく小さな存在であるかがよくわかる。
波が一うねりする間に水底に沈んでも誰も気づかないだろう、その巨大さ。
『海じゃ』
『狩人の山』(オムニド)を離れたせいだろうか、ラフィンニの声はどこか茫洋として捉えどころのない響き、それも悲劇を予感させる不穏さを満たしていた。
「うみ…」
凍りついていたユーノはようやく身動きし、風景に呑まれていた自分をく、と歯を噛み締めて取り戻した。挑むように繰り返し深く息を吸い、軽くむせ返った。
「…っ」
(濃い、空気…)
湿度の高い、薫りの強い、存在を主張する空気は、それそのものが水であるかのように鼻腔を満たす。
(これが、話に聞いた、海)
セレドには海はない。近隣の国々も海には面していない。けれど、遠く異国の彼方には、海と呼ばれる大きな湖に接する国々があるとは聞いていた。
その巨大な湖は1国を浸すほどに大きく、塩辛い水は様々な生き物を育み、地上で見たこともないような巨大なものも居るという。そこはまた、荒々しく非情な神々の支配下にあり、商人達は海を渡る船に乗り込むときは必ず、貴重な香を焼べ、高価な酒を注ぎ、互いの体を丁寧に清めて出立することになっているそうだ。
なるほど、それも納得できる。
これほど大きな力が溢れかえっている場所に、どれほどの集団、どれほどの船で乗り込もうとも、無事である保証など一つもあるまい。空は薄暗いが、それでもまだ荒れてはいない、それでも海がこれほどに圧倒的な激しさを突きつけてくるならば、天候が荒れ、この水全てが波打てば、どれほどの破壊力を持つか、容易に想像がつく。
(これは、力だ)
穏やかに見え、緩やかに見えても、動き出せば何ものも止めることができない力の存在。
聖女王の玉座に彫り込まれていた激流を思い出した。同時に、『氷の双宮』に彫られていた意匠も。
我は制する。
真後ろから『太皇』の低い声で囁かれたような気がした。
(命の、力だ)
ぞくり、と皮膚が粟立った。
この『海』に秘められた力、この『海』が蓄えた力、それを、『氷の双宮』を作った人々は自らのものとし、操ろうとした。
(これを、制御しようとした、のか)
運命を描く力を。
(そして、悉く、敗れ去った)
逆巻く世界の激流に呑まれ、侵食する命の力に蹂躙され、『氷の双宮』は願いの残骸として残された。
(そうか……そういうことなのか)
ラズーンは、とうに滅び去っていたのだ。
『ラズーンは
失われた都
枯れた泉
死して飛ばぬ人の夢
すべての栄えがさもあるように
永遠に続く栄えはない
いつしか
美しきこの都も
朽ち果て
大地の上に横たわらん
しかし、世は続く
人の命は続く…』
創世の詩が耳の奥に響き渡る。
今ここに残されているのは、その夢の残滓だ。人の滅亡を防ごうとして、虚しく潰えた願いの果てだ。
命の力を自らの手で制御し繋ごうとした挙げ句、『運命』や太古生物の復活という、願った永遠の栄えを遮る悪夢まで同時に発生させ続けるしかないお粗末な装置の結末だ。
その未来が見えたからこそ、最後の1人は力を放棄した。




