The wailer IX
四月十一日 甲寅 巳一刻
「おはぎちゃん、もうええよ」
と、季満が呼ばわると、薺蒿は聞こえているかのように垢をこする手を止めた。裸の背のうしろで畏まる彼女に、季満の口の動きは見えないはずなのだが。
「やあ……おはぎちゃんのお蔭で久しぶりに人心地ついたえ。痒うてかなんかったにゃわ」
首だけ振り向くと、薺蒿ははにかんだ笑顔でこれに応えた。始めはもの馴れなさから繕っているのかとも思っていたが、どうやらこれが地の顔らしい。手に握った襤褸を、湯気たつ鉢にうやうやしく濯いでいる。
「聞こえへなんでもかまわんから、なにか言いつけるときは必ず声かけたってな。この子ォ繊細やし、片端あつかいすると傷つくのや」
というのは延然の言である。聞こえないのだから意味がないと言ってみても、彼は「この子ォはよう気ィつくから」の一点張りであった。が、
(聾唖は聾唖やけど、この子ォちょっとふつうやあらへんなあ。坊さん、知っててあんなことゆうたにゃろか)
なるほどどうして、背中に声をかけてみると三度に一遍はついと振り向くではないか。本当は聞こえているのかもと、耳元で「わーっ!」とやってみたこともあったが、当人はどこ吹く風である。どうも声に反応しているようでもないらしい。
薺蒿は濯いだ襤褸を絞って、ふたたび季満の背中を拭きだした。今度はこするのではなく、拭き清めるといったふうである。その手つきもなんだか貴人に対するそれのようで、むずむずしたがひどく心持ちがいい。ついこのあいだネズミに食われそうになったことなど嘘のようであった。
(……ええ子ォやなあ、この子ォ。おれこんな大事にされたことあらへんもん)
延然の言うとおり、薺蒿は万事に気のつく働き者であった。延然に連れてこられたその日から、なにを指示されるでもなく粥を炊ぎ、水汲みに駆けずりまわり、そのあたりの廃屋から萱をむしってきて、手箒を編んでてきぱきと掃除を始めた。寸刻もじっとしておらず、屋内でやることが尽きればぱっと外へ出て行く。四半刻もすると心配になって、季満が「おはぎちゃん、おはぎちゃあん!」と呼ばわる。するとすわなにごとかと簀子縁に飛び上がってくるのだが、その両手にはどこから拾ってきたものか、燃料になりそうな小枝や葉っぱが山をなしているのだった。卒然と肩を掴まれて「な、なんや、どした」などと目を白黒させていると、そのまま按摩を始めたこともあった。
そしてそれらは偶然か否か、季満が内心求めるときになされることがよくあった。なんとなく腹が減ったと思えば、彼女はすでに穀物を洗っている。喉がかわいたと思えば水を張った椀を捧げ持ってくる。今ほど体を拭いてもらっているのも、あるいはその類かもしれない。幾日も伏せっていたせいで、痒いの臭いのにはいいかげん我慢がならなくなってきていた。
肩をつつかれて振り向くと、単衣を着せ掛けられた。どうやら拭き終わったらしい。
(ミヅキメも大人しいな。まあ、坊さんもただもんやあらへんゆうことか)
手渡された縄で腰を結ぶ。帯は洗って陰乾し中である。
ミヅキメに蘇を与えるようになってから、病が日ごと快方へ向かうのが体感できた。屋内もなんとなく明るく、心持ち湿気が退いたような気がする。いつものように部屋の隅っこに蹲って唸っているときでも、薺蒿のことは目に入っていないのか、気に留める様子もない。
延然の推察はおおむね正しい。ミヅキメが害を及ぼすのはあるていど歳経た男だけで、尾筒丸などはその幼さもあって彼女の癇に障ることはなかった。況んや少女の薺蒿においてをや、というものだ。
(坊さんの土産がのうなる頃には、病も治っとるやろ。――そういえば尾筒丸、どうなったやろ。あれきり訪ねて来いひんけど、病なおったやろか)
「……おはぎちゃん、臭う?」
薺蒿が自分の肩のあたりをくんくんやっているのに気付いて、季満は汚れはてた衿をつまんでみせた。汚いから洗いたいという意思表示もあるのだろう。季満もまったく同感なのだが、ほかに着るものもない。
(貸した衣、返してくれへんかなあ。代わりあらへんもんなあ。道説が来たら頼んでみよか。――またご飯つくりに来いひんやろか)
道説の庖丁がこしらえた料理はまことに素晴らしかった。道説は七位の下官ということだったが、その彼でさえあれほどのものを口にできるのだから、珠子などはもう毎日ほっぺたが落ちて拾うのに忙しいに違いあるまい。
季満がかの庖丁のこしらえた「鳥肉のなにやら」の味を思い出して陶然としていると、薺蒿がとつぜん立ち上がった。汁粥でも煮てくれるのかしらんと傍観しているあいだに、ぱっと簀子縁に飛び出していく。
「な、なんやおはぎちゃん、どした!」
縁端で一度しゃがみ込むと、その手には石が握られていた。それを菖蒲小路にいた人間に投げつけ始めたのである。石の当たることはなかったが、投げつけられた人びとは慌てて走り去った。
夜具をはね除けて立ち上がると、ぐうっと眩暈がした。薺蒿はいまだ縁側に陣取って、石を投げる相手を探して小路を睨めまわしている。「なにしとるの、ひとに石投げたらあかん!」と小さな肩を掴むと、とたんに力は抜けた。なにか訴えるような目で見つめてくる。
「どしたの、気にいらへんことでもあったの?」
薺蒿はまさしくいきなり立ち、いきなり縁側へ出て投石の挙に及んだのであった。季満には癇癪を起こしたようにしか見えなかった。やはり聞こえているかのように首を振って否んで、彼女は両手に持っていた石を元の通り縁端に転がした。捨てるつもりはなさそうである。しゃがんだ小さな背の領頸が、今ほど季満の掴んで縒れでもしたか、ちょっと開けてしろい肌を露出している。
(あれ……痣や)
季満はとっさにたしなめる言葉を飲み込んだ。
染みのような痣が、おそらく背中から昇ってきているのであろう、髪際をやや下ったあたりにまで広がっている。経験上、殴打によるものらしいことはすぐに見当がついた。
(……衣に隠れるとこだけ狙うとる。子たちの為業やあらへんな)
思わず彼女の来歴を考え出して、すぐにやめた。叱る気も失せた。もう一度やったら注意しようと気を取り直して、季満は部屋の中に戻った。そのまま床には入らずに、道説の置いていった負櫃の蓋を開ける。たしか湯に溶いてすぐに食べられるようにと、彼の庖丁が糯黍粉を用意してくれていたはずだった。
「おはぎちゃあん、ちょうおいないやあ」
季満が負櫃に頭を突っ込んでいるうちに、薺蒿はとぼとぼと部屋に上がってきた。
「おはぎちゃん、お腹へったなあ」
黍粉は二重の、それも目の細かい袋に入れてあったのに、湿気のせいかぽろぽろとダマになっていた。薺蒿は季満の言葉に機敏に反応して、床のかたわらにあった鉢を拾って、中身を簀子縁の向こうに撒いた。これを空けないと水が汲めないのである。
「ええよええよ、今日はおれがやったるさかい」と言って、季満は汲み置きの桶に走ろうとする薺蒿を呼び止めた。「きれいにしてもろたお礼にな、今日はおれが糯黍の餅さん作ったる。旨いえ」
薺蒿は例によってはにかんで、しかし聞こえたのか聞こえないのか、そのまま入口に置いてある桶に走り寄った。今まで気が付かなかったが、腿の裏にも同じような痣が見て取れる。幼くしてこれほどに気が回るのは、あるいは育った環境の影響なのであろうか。いずれにせよ生得のものだけというわけではないらしい。水を張った鉢を手に戻ってきた薺蒿は、にこにこ笑っていた。
(あ、やっぱり通じてるにゃわ、この子ォ)
けっきょく料理はなし崩しに分担となり、黍餅は合作となった。湿気て粉が悪くなりそうだからとたくさん作ったので、思い立って鹿の脯を戻したものを醤で韲えて餡にして、ふたりで仲良く焼いて食った。
(尾筒丸、そろそろ良うならへんかな。あの子ォ人見知りやし、おはぎちゃん見たったら驚くやろな。仲良うなれるやろか)
作り終わったのは半刻も過ぎたころで、腹一杯がんばってもいくつか余った。焼きたてをひとつミヅキメにも振る舞って、残りは袋に入れて負櫃にしまった。間に合えば尾筒丸に食わせるつもりである。
「おはぎちゃん、今はいやへんにゃけどな、きっとじきに尾筒丸ゆうちびが来よるにゃわ。たぶん恥ずかしがってぜんぜん喋らへん思うけど。――しっかりして優しい、ええ子ォやさかい」
あぐらをかいて頬杖をついて、季満は囲炉裏の鉄瓶に向かって独りごとのようにぽつぽつと言った。こういう場合、普通のひとなら聞き逃すくらいの小声でも、薺蒿はちゃんと「聞き分け」るのである。これは彼女の得がたい美徳のひとつだなと、季満はぼんやり考えた。薺蒿は首肯して、湯の入った椀を差し出した。
「仲良うしたってえな、おはぎちゃん」
椀を受け取って啜る。彼女の痣のことがふたたび頭を過ぎって、ふと薺蒿のここへ連れてこられた本当の理由に、おおまかな見当がついたような気がした。
四月十三日 丙辰 午四刻
左京桃花坊は検非違使庁舎。
堀川寄りの濡れ縁に、世界の終わりを迎えたような陰気な顔――鳥瞰的に表すると、たいそう怖ろしい顔をした大男が、庭を目の当たりにぼんやりとしている。道説に倚り掛かられた高欄は危ういほどに撓って、長大息をつくたびにめりめりと悲鳴をあげた。
躑躅もえたつ小体な庭は、折からの糠雨にけぶっている。
(空がおれのこころを代弁しおるわ……)
この男、意外と繊細な一面もあったようである。彼は暫時気をよくして、似合いもしない憂愁にちょっと酔ってみようと、
「空がおれのこころを代弁している」
わざわざ声に出して言ってみた。――あまりにも陳腐に聞こえる。惨めさはいっそう募って、「ええくそなにが代弁だ、貴様などには大便あたりが相場だ」などとますます腐ることになった。腹立ちまぎれに欄を拳骨で殴ってへし折ってしまった。さだめしあわれな欄氏は傷害事件を訴え出たかったであろうが、あいにく検非違使庁の職掌に木材の訴訟の受付は含まれない。
(うう、和妙どの……おれが間違っているのか)
考えれば考えるほど鬱の地隙に足を取られて、道説は折れ曲がった高欄に額をあずけて唸った。
和妙が道説の家宅を出て行ったのは、ほんの今朝のことであった。傷病恢復につき御役御免、というのでは無論ない。
二日前の晩、道説は和妙に使庁へ復帰する旨を打ち明けていた。なんと言おうか迷ったあげく言葉すくなに、それも部屋を退きしなにぽつんと言ったせいか、
「おお、その心意気でござります! ――これからは少々の無聊などお堪えになって、お体を損ねる外出など厳につつしんでいただかなくてはなりませぬ。さもなくばお仕事への復帰など覚束のうござりますぞ」
はたして和妙の応えはこのようなものであった。その場で言葉の内容を吟味してみるでもなく、ただ和妙が喜んだのに気をよくして、道説は釈然としないながらもうきうきと床を取った。が、さて目を瞑ってみればつらつら考えるまでもなく、和妙の言葉はなにからなにまでおかしい。正しく伝わっていない。もやもやするのに倦んでえいと立ち上がるも、刻は非常の子の闇中。この時刻に彼女の寝所の几帳をかき分けるのは、道説にとっては賀茂社の本殿をあばくにも等しい難事。「いざ致さん」「いや早まるまい」と板の間をうろうろのしのし遣っているうちに、すわなにごとかと下僕がすりこぎ片手に様子を見に来たりする。
(和妙どの、今はどこでなにをしておられるのか……うう、和妙どの……)
結局、まんじりともせずに夜を明かし、朝の挨拶と診察にまかり出でた和妙を、大男は充血した目で迎えた。「おや、お目が赤うござります。道説どの夜更かしはいけませぬぞほんにもう」などと言われて、つい目の端にしわを寄せるおのれを、道説、できうることなら領頸つかんで殴り倒してやりたい心境であった。
こちらの言わんとすることが十全に伝われば伝わったで、猛反対されるのは火を見るより明らかである。思い悩んで一日おいて、ようよう「和妙どの大事なお話が」と切り出したのが昨夜のこと。
「和妙どの。唐突な話ですが、道説は近々に復職するつもりです」と言えば、和妙は「ええ、先だって伺いました」とけろりとしている。
「大変よろしいことですぞ。とかくなにごとも目標がなければ為果せ難きもの。ご決意の真澄のごとくあれば、なんの道説どのの復職を阻むものがありましょうや。必ず傷はよくなりまする。――とりあえず、外出は別してお控えくださりますようにな」
やはり正しく伝わっていない。口論はしたくないが、言わずにおけることでもない。すでに左衛門府および検非違使庁へ赴いて、復職の願いを届け出てしまっている。もしかすると早まったかもしれぬと、道説はおのれの行動力をすこし悔いた。
「いえ、そうではないのです。――和妙どの」
「はい。なんでござりましょう改められて」
「お平らかに、決して激せられぬよう、お聞きあれ」
「ほほほ、まあなんでござりましょうな、道説どのも気をお持たせになって」
「道説、実はすでに復職の願いを届けております」
部屋の中に怖ろしいほどの沈黙が去来した。
「……届けたと言うて」
「明日にも、使庁へ出仕する予定」
「……出仕すると言うて」
「なに、傷もあらかた痛まぬようになりましたゆえ、そろそろやれようと……その、報告が事後になってしまいましたことはまことに……和妙どの?」
「…………」
「にぎた――」
「なあんですってえ!」
和妙は卒然と大爆発して立ち上がった。道説はあぐらをかいたまま一尺も飛び退り、廂に控えていた下僕などは吃驚して正座したまま一丈も飛び上がった。怒髪天を衝く形相――といっても布面で顔は見えないのだが、そのように表現せらるべきほどの、それは凄まじい怒りの発露であった。
「あれほど……あれほどわたくしが再三ご注意もうしあげてきたにも拘わらず……いったいぜんたい道説どのはご自分のお体をなにと思し召すかっ! 命に関わるとあれほど――!」
「お、お平らかに! 和妙どのの申されようは重々承知しております! しかし道説が身は道説が一等知悉しおることもまた事実にて、その道説がさよう判断――」
「きい! 知悉が聞いて呆れまする! かくも己が身体について瞽なる御方は古今東西かつて聞いた試しがござりませぬ! こと金瘡においてはいささかの知識もお持ちになられぬ道説どのが、なにゆえ医者の申すことに聾でやれるやれぬの判断を下せますのか! それとも道説どのはこの和妙めを端からご信用くださらなんだかっ!」
「げ、激されずに! 道説、お言葉は身に沁みて感じおるところでございます! 信用いたさぬなどということは毫ほどもこれなく、しかし惟みるに公器たらぬおのれにいかほどの価値のあらんやという――」
「きいい! 詭弁は大概になさりませ! 価値よ公器よなどと、命の綱をしっかりと握ったあとでいくらでも論じなさるがいい! 死んでしもうては元も子もないのですぞ! 傷の破れて万事に休する事態と相なりましたなら、わたくしは大臣に兄にどの顔を曝してお詫びすればよろしいのか!」
このあたりまで来ると、いささか高いところにあるために血の昇りにくい道説のあたまにも、既にしてそれなりの量が巡ってきている。「和妙どのは大臣や高宗さまへの面目だけで、おれの傷を診ていたのか! 好意ではなかったのか!」などと裏切られたような心持ちになる。大男は板の間を揺るがして立ち上がり、而して下僕はふたたび宙を舞った。
「見たまま聞いたままを告げられるがよろしい!」と、道説は怒鳴った。「道説はすでに十分の診療を受け平癒相なり、もうこれ以上は欲しておらぬと。無論たとえ何人に尋ねられようともこの道説、しかとそのように受け合い申す。さすれば和妙どのとて大臣にも高宗さまにも面目は立ちましょう! それで気もお済みでしょう、それでようございましょうが!」
「なんと……なんということを……こ、この和妙がさような心構えで、心構えで――」
和妙、うわずって言葉もない。その隙にさらに道説はたたみかけて、
「和妙どの、これまでの親身なる介添、切に御礼申し上げる。しかしこれ以上は無用! この上どうでも大臣に高宗さまに対し面目を施さんと欲せられるのなら、お二方へ直接談判なさるがよろしい!」
言い放った。和妙は涙に濡れた布面をひきむしって「わあっ」と部屋を駆け出ていく。一拍遅れて「わあっ」と、今度は下僕の声がする。どうも廂の中途でふたりは衝突したらしい。
しばし呆けたあと、道説はおもむろに座した。
言ってやった、負かしてやったという満足感は、ものの数秒と保たない。考えてみるまでもない、理は彼女のほうにあるのである。そんなことはそれこそ反駁している最中ですらわかっていたことであった。
「……ええと、旦那さま、和妙さまが――」
「だまれ話しかけるなっ!」
主人の特大の雷が落ちて、あわれ下僕はみたび宙を舞う。
その夜は後悔と自己弁護に汲々とし、床を転々として道説は寝付けなかった。夜が明けたら詫びようと思い立ったときには既に遅く、早朝の屋敷内に彼女の姿は見当たらなかったのである。
(怒鳴りつけるつもりなぞなかったのに……恥ずべきくだらぬ意地だ。おれはこれほどに矮小なる人間であったのか……)
空になった和妙の部屋を見るにつけ、喪失感が大男を棒立ちにさせた。しばらくはなにをする気力も湧かず、使庁を訪なうのを午後に繰り延べにしなければならなかった。下僕はすっかり畏縮してしまい、虎にお伺いをたてる鹿のごとき態度に終始する。たった一夜を明かしただけだというのに、そこはもはや別の屋敷のようであった。
「大便よな、大便よ、貴様など……」
いっとう腹立たしく情けないのは、和妙が出て行ってしまったとたん、今まで彼女の言に従わなかったこと、就中復職などを願ったばかりに、彼女が出て行く直接のきっかけを作ってしまったことに対して、激しい後悔を催すようになったことである。
(貴様は貴様なりに考えたうえで、さよう決断したのではなかったのか……情けない。まことに情けない。女子一人の心変わりにすら、おれはこれほどに引き摺られる。和妙どの……)
大男の鬱々としている間にも糠雨は止んだが、彼の感傷に満ちあふれた心象風景は依然として雨模様である。――いや、それどころではない。顧みれば季満、長恭の不幸に関する自責に始まり、先だっての田達音翁に喝破された折の自省に加えて、このたびの和妙失踪に纏わる悲嘆が重なったのである。かつて羅城門を倒壊せしめた大風にも勝らんばかりの大嵐が吹き荒れていた……くらいに言っても過言ではなかっただろう。
「菅家判官」
「…………」
背後で呼ぶ声を道説は聞き流した。最前から足音が聞こえていたので、後ろに誰かいるのに気はついていたのだが、陰々滅々とするのに忙しくて応答どころではなかった。
「菅家判官、経足のやつが来たから」
「……そうか」
「おまえ、なんかあったのか」
「なにかあったように見えるか、宣永」
問いを問いで返されて、大男を菅家判官と呼ばわった男、藤原宣永は「見えるさ」と間髪入れず応えた。
「それならなにかあったんだろう」
道説、振り向きもせずに宣う。
「大便がどうかしたとか言ってたな」
「措け」
「そういや、まだ聞いてなかった。傷はもういいのか」
(いいわけなかろう。和妙どのがそう言ったのだ。いいわけがない)
「おお……大分いい」
「うるわしの珠子どのとはうまくいってるか? こないだ使庁に来てな、えらい騒ぎになった」
(珠子どのか……さいきん文がめっきり来なくなったな。興味も薄れたのかの……)
「うむ……会うておらぬ」
「吾妻が前歯を折ったの、聞いたか」
「いや、知らぬ。なんだ事故か」
「本人は捕り物のどさくさで蒙ったとか言ってたが、つまらんから誰も信じん。細君の肘鉄をもらったというのが皆の一致した見解だ」
「さもありなん」と、道説はちょっと笑った。「そのほうがずっと真実味がある」
「菅家判官」
ふたたび呼ばれて、道説はようよう宣永に向き直った。
「しゃきっとしろ、行くぞ」
「干柿から説明は受けたんだったな」
「物盗りだろう。水玉の瓔珞」
いま現在、検非違使庁が特別任務として追っている事件がある。平安京の北西、嵯峨野はとある貴人の別邸から盗まれたという瓔珞の捜索がそれだ。
「あんまり聞かない話だけどな。おれたちが洛外の事件に首を突っ込むなんて」
「相当数を動員しているという話だが」
「ああ、尉が二の志が四」
「左右でか」
「ヒダリとミギでそれぞれな。別口だけど京識も独自で動いてる」
「……それほどの手勢を出して、洛中のほうは機能するのであろうか。賀茂祭も近いというのに」
衛門検非違使の役職にあるもののうち、検非違使として実際に洛中を警邏するものの内訳は、大まかにいって左右それぞれ少尉五名、少志十名ほどである。彼らはそれぞれ護衛官である火長を五名ほどと、実際的な手足として凶徒捕縛などに当たる放免を十数名ほど率いる。単純にひとりあたり部下十五名、アタマを足して一班十六名とすると――実に二百名弱。ちょっとした勢力である。
「ま、なんとでもするさ」
「……こたびの物盗り、そのなんだ、ものは左大臣が御所有にかかるものであるとか」
先導して簀子を軋ませていた宣永が、首だけ振り返って「そう、そう、聞いてるのな」と言った。
「被害にあったのは嵯峨野の棲霞観っていう……ま、別荘さ。なんだってそんな離れに置いといたんだかわからんけど」
嵯峨野は平安京から三里も行かない位置にある。近いことは近いが、貴重品を保管しておく場所として適当かと言われれば首を捻らざるをえない。かといって貴重品でないのかと思えば、
「いずれにせよ、よっぽどの値打ちもんさ。なんたってぜんぜん関係ないおれ達まで煩わせようってんだから」
ということである。
(奇妙も奇妙よな……いかに左大臣が訴えとはいえ、そのようないち私事に庁宣が下るとも思えぬが……)
宣永に続いて庁務所の一画にはいったとたん、吾妻こと茨田重行が「よう菅家判官、珠子ちゃんとよろしくやっておるか」と手を挙げた。空の文机が目立つそのあたりには、彼のほかに数名の男が座している。
「羨ましいのう、そこへくるとうちのかみさんなどは何ともはや……やはり結婚せぬうちが花よな。珠子ちゃん道説さんなんぞと呼び合っておるそうな」
「ええいこっぱずかしいやつよ貴公という男は!」と、重行は髭をもじゃもじゃさせながらしきりに膝をぴしぴし打っている。道説、出会い頭のご挨拶にたちまち真っ赤になった。
「き、貴様どこでそのような……」
隣で一緒になって笑っていた青年が割り込んで、
「その珠子ちゃんが来たんす。おれとかミネさんとかにまでぺこぺこ頭さげちゃって、かわいいっすね。あの子トキさんのなんなんすか?」
調子をくれた。上司を「トキさん」呼ばわりとは、とても火長が少尉を呼ぶやり方として礼に適っているとは言いがたい。彼、直経足は廿そこそこの若輩であったが、富裕な地方豪族の一粒種ということも手伝ってか、かなり礼儀に疎いところがあった。
「……これ経足、言うておくが、かの方は文章博士橘広相さまが御息女だ。無礼な口は利くまいぞ。――おお昆博、見舞うてくれて以来だの。忠岑はこのあいだ会ったな」
宣永と道説が円座を取ると、呼ばれた二人、中原昆博と壬生忠岑は揃って頭をさげた。
「道説さま、お怪我の塩梅は」
と、昆博が口火を切った。
「ん、もう大分いい」
「それはようございますが……あれだけ重篤であったものが、高々ひと月と半ほどで治りましょうものやら」
「看護についてくれたひとがよかったのだ。そのひとのお蔭だ」
昆博は依然として愁眉を開かない。
中原昆博は道説が左衛門少志の時分から部下として従ってきた男で、検非違使下司としてはわりあい古株にあたる。道説よりすこし歳上で、軽輩ながらよく情理をわきまえ、道説を官職を得て間もないころから陰日向を問わず扶けてきた忠義のひとである。
「……忠岑、そういえば澄世が見えぬが」
「澄世さんは右衛門です。移動してすでに半年を数えます。お忘れですか」
「あっ、いかんそうであった。ええまったく、ずっと臥せっておるとこのザマだ、惚けていかん」
「……休職する前から言ってたじゃないすか。『スミヨ、スミヨが見えぬ』って」
「黙っておれ経足。貴様の烏帽子に孔を穿ってくれるぞ」
経足は「ミネさあん」と忠岑の背中に隠れた。
壬生忠岑は経足より二、三ほど上の若者であるが、歳に似合わぬちょっと老成ぎみの硬骨漢で、若輩に付きものの浮薄の風のない代わりに、いささか愛想にも欠けるきらいがあった。弓馬も剣も巧みにこなす一方、衛府武官という武張った職にいささかそぐわぬ、和歌にも嗜みありという変わり種である。
「左衛門佐さまは?」
道説が誰にともなく聞くと、重行でかい声で応えて、
「午前にはおったぞ。干柿のやつめ、最近は人手が足りぬとかおれ達が怠けるとか適当に理由をつけての、どうしていると思う、なんと自分の馬を引っ張ってきて尉志の真似事を始めおった」
愚痴を打ちだした。
「誰もお止めせなんだか」
「言って止まるような柿ではないわい。もうおれはさいきん床にはいる前に必ず、願わくばどこぞの凶悪な殺人犯の廿人も、あの干柿めに遭遇せさせ給えかしと神仏に祈願しておるくらいだ」
「……貴様もよくよく不遜な輩よ」
「干柿の話なぞどうでもいい。おい貴公、珠子ちゃんとどこまで行ったのだ。しかし貴公もあれほどに幼い――」
「おい吾妻、珠子ちゃんはいいから引継ぎをちゃんとやれ」
それまで黙って円座の毳をむしっていた宣永が顔をあげて、重行の髭面を睨めつけた。ついでに小声で鋭く「大尉どのが聞いてる!」と注意する。
案外しっかり聞こえていたと見えて、部屋の片隅で文机に座していた中年の男が「お構いなく」と笑った。
「わたしに気を遣わず遠慮なく。ああ道説君復帰おめでとう、遅くなったけど」
道説はあわてて「あ、いえご挨拶が遅れました」と言って頭をさげた。
「おお、有広どの、その、わしが干柿云々などと言うたのは……食えるほうの柿の話でしてな」
「重行君の言いたいことはわかってます」と有広は受け合った。「食えない干柿のほうなら、今日は西市へ殴り込みに行きましたよ。ここに帰ってくるとしても遅くなると思います」
「さようですか。ありがとうございます」有広へ会釈をして、宣永は返す刀で重行の烏帽子頭をぺんと張った。「吾妻、仕事しろ、仕事!」
「やけに張り切っておるのう、宣永は。――ま、いい、ちと真面目にやろう。さあて菅家判官、どこまで聞いておるのかの」
きりっと髭面を引き締めた。が、ずれた烏帽子があさってを向いたままなので、見てくれはたいそう滑稽である。口ほどにもなく本人も笑いを狙っているのだろう。宣永がいまいましげにあごをしゃくり、無言の意を受けた経足がおごそかに重行の頭を整え始めた。
「件の瓔珞だが、先日とうとう市司と京識が両市の販売履歴を――」
突然、重行以外の男たちが有広を含めて全員爆笑した。経足が懐から出した紙で紙縒をいくつか作って、垂直になおした重行の烏帽子に節をつけるようにして結びつけたのである。結果、彼の頭のうえに塔婆の出来損ないのようなものがそびえ立つことになった。
「経足、仕事にならん、止せ!」と腹を抱えながら宣永。
「御利益あるっしょう、これ」と得意になる経足。
「あー神饌に甜酒を献ぜよ、こら、そこの朴念仁、大いに献ぜよ。一合で構わんから」となおも得意になる重行。
「重行君、宝塔は御仏由来です」と含み笑いながら有広。
(やはり復帰したのは間違いではなかった)
つい先ほどまでおのれを伸し潰さんばかりに圧していた鬱の、いつの間にか薄らいでいるのを道説は感じていた。こういうとき精神的な頼みになるのは、やはり親しい他人――仲間の存在であるらしい。もっとも懇意の親戚筋のひとりもいれば、道説も相談相手にしたかもしれなかったが、あいにく孤独な彼に該当しそうな人間はいなかった。
重行と経足の茶々を合間あいまに挟みながら、一刻後に検非違使たちは引継ぎを終えた。一同は円座に畏まり、有広筆をすべらせながら宣う。
「茨少尉重行は以後特務を離れる。従来のとおり、洛中諸事を務めとせよ。――只今はにわか法師どもの摘発が酣ですね」
「おお、ごっそりと刈り取ってくれん。ごっそりとな」
重行が気焔を吐いた。
「管少尉道説、故障はないか」
道説は胸を張って「ございませぬ」といらえた。
「では籐少尉宣永、管少尉道説。少志たちを束ね、協力して事件の解決に臨め。――市司と京識の仕事はほぼ終わっています。君たちはとりあえず、過去瓔珞を手にしたと思しき商人を総当たりで尋問して、可能であればいま現在の持ち主を探し当ててください」
「それほどのやばいものを、膝元の平安京で捌いたりするものですかな」
宣永が首を傾げた。
「このあたりは実際に商人から聞いた方がわかりやすいと思いますが」と、有広は前置いた。「正二位の貴人が躍起になって探すほどのものです。その瓔珞はかなりの値打ちものと断じて間違いはないでしょう。そういったものは、同じく値打ちものが集う平安京でしか捌けない。地方へ持っていっても、夷心に本当の価値はわからないし、盗人も食べ物に代えるつもりでこのような危険な犯行に及んだわけではないはず。おそらく盗むより前に、そういった危ない代物を流す経路を準備していたと見て間違いない。――もっとも、この一件が左大臣への怨恨からなされたとすれば、畿外へ持ち出された可能性も出てきます」
「そうなっては……もはや手の施しようが」
「ありませんね。だからそのことについては考えなくてもよろしい。我々は平安京に焦点を当てましょう。検非違使庁とはまったくの別件として、すでに畿内の各駅に往来物の点検を厳にするよう伝令が飛んでいます。万全とは言えませんが、後手の我々が打てる手立てとしてはこれくらいが妥当でしょう」
有広はようよう筆を擱くと、文机から立ち上がって男たちを睥睨した。
「瓔珞は平安京から出ていません。そしてそれを探し出すのは――我々左衛門検非違使です。万が一にも右衛門検非違使などに先を越されぬように!」
「よろしいか」との有広の言葉に、左衛門検非違使たちの「おおっ!」という喚声が続いた。