The wailer VIII
四月九日 壬子 酉一刻
(五条……樋口……六条坊門小路)
日が傾きつつある。
ぶつぶつ呟きながら、ぬかるむ西洞院大路をふらふらと往く壺装束がひとり。笠をうつむけ杖にすがってあちらこちらに揺れながら、珠子の足取りはいよいよ乱れる。
明け方からしとしと遣りだした雨のやんだのは、午後のかかりのことであった。
「臥身に障ろうから」との理由で、父に道説を訪なうことを厳に禁じられてより、珠子は怏々として楽しまぬ無聊の日々を過していた。このあいだまでは日に三通も認めていた文も、返信が間遠くなるにつれて「ご迷惑かしら」と筆を置きがちになり、就中この頃ただでさえないがしろにしがちであった学問には、日を追っていよいよ身が入らなくなっている。父はしきりに心配して、先だってなどは張り切って礼記の幾巻かを持ってきたのだが、結局それらは繙かれることなく唐櫛笥の底で不如意を託っていた。数珠をこねまわして経をうんうん唸ってみるのにもいささか飽いた。
なんといっても彼女は若かった。ついでに折悪しく恋をしていた。他のことを考えるゆとりなんかないのである。「男女七歳にして席を同じくせず」とか言われても「十有五年にして笄す」などとやり返すのであった。――もっとも彼女はまだ十四歳なのだが。
それでも最近は消閑のタネに、木彫りの小さな仏像を造ることを覚えた。親しい女房のひとりが仏道と称して、下手の横好きでやっていたのを勧められたのだったが、ひそかに思いびとの顔に似せて造ることを思いついてからは俄然たのしくなり、慣れぬ手つきでかりかりやっているあいだ中、覚えずにたにたして傍らの女房を気味悪がらせたりした。
もっともその腕前のほうは、名匠鞍作止利も紗冠を投げだすほど……とは到底ゆかない。「道説さん」の顔は脳裏に焼きついて離れないのに、できあがる仏像はたいてい毘沙門天とは似ても似つかぬ、蛙のごとき珍相に終着するのである。
(今は五条……次は樋口……その次が六条坊門小路)
まずまずの出来で蛙の彫りあがったころ、にわかに雲間から太陽が顔を出した。雨は静やかに終熄し、女房は急に元気づいてお庭の躑躅がどうのこうのと言いながら部屋を出て行く。珠子は一息つくと、唐櫛笥のうえに並べてあった蛙仏の群れに新入りを加えた。通算にして十二体目である。壮観であった。
(蛙の十二神将だわ)
こんな益体もないことを考えてけらけら笑いながら、ふと「道説さんは今頃なにをしていらっしゃるかしら」などと桃色吐息をついたとたん、珠子は卒然と真顔になった。
桃色吐息ならぬ青息吐息であった。あたまの中で彼女に「珠子ちゃん」と呼びかけたのは、なんと身の丈六尺に余る蛙だったのである。信じがたいことだが、どうも道説の顔を思い浮かべて蛙を彫っているうちに、道説の顔が蛙のそれへとすげ替えられてしまったようなのだ。
そののち橘邸から珠子の姿が消えるまでに、四半刻とはかからなかった。女房の緒太を失敬し、嵐のように着替え、そよ風のようによちよち歩いた。
(五条……樋口……ああくるしい。でも、お怪我をなすった道説さんはもっとくるしいのだわ。貴女がこのていどのくるしみに堪えられないわけはないわ。貴女はまだまだ頑張れるわ……六条坊門小路)
家を飛び出て四半刻ののち、ようやく道説の家宅を知らぬのに気付いた。道説が衛門府の役人であったのを辛うじて思い出し、大内裏は左衛門府の仗舎を訪ない、検非違使庁にとって返して住所を聞き、例によってさんざん道に迷い――珠子はかれこれ二刻ちかくも平安京を逍遥している。
少女の細い脚は最前からがたがた震え、すでに面はうつむき、食事を摂ってこなかったのでしきりに腹が鳴った。疲労困憊の態である。通りすがる人びとの視線をもれなく集めながら、珠子は西洞院川へ滑落しそうになる。しなだれる柳糸に突っ込む。笠から下ろした垂衣は滅茶苦茶になる。蛙十二神将の祟りを疑わずにはいられなかった。
(五条……樋口……六条)
「ちょっと、ちょっとあんた」
(坊門小路……五条……樋口)
「ちょっと、おおい!」
(大炊御門……冷泉……二条……二条?)
「おいって――ああっ!」
ちょうど疑念が持ち上がったのと、前方から大声が上がったのとで、珠子はようよう物思いから立ち返って顔を上げた。いったん立ち止まると途端に疲れが噴き出して、足のうらに根が生えたような心持ちになる。
「あんた、聞こえなかったの?」
声の主は心持ちこちらへ手をかざすようにして、今し駆け出そうとするような格好で凍りついている。
(誰かしら……へんなかっこうだわ)
珠子は膝に手をついて息を整えた。声をかけてきたのは見知らぬひとである。
瞼のやや厚ぼったい、眠たげな眼の下に、形のよい小鼻と薄い唇が置いてある。全体にやせ気味の顎のほそい顔かたちは、見る人によっては美人と評するものもいるだろう。紛れもない女であったが、姿は垂首の水干に指貫という奇態。男装のつもりであろうか、ご丁寧に烏帽子まで戴いている。長い髪の毛の結わえたものを前に回して、襟のなかへ入れ込んでいる。衣の上からでもそうとわかるほどの豊かな胸が目についた。
異様な、偉容である。
(まるで傀儡子のひとみたい……傀儡子なんて見たことないけれど。傀儡子のひとに知り合いなんかいたかしら。でもこのひとぜったい傀儡子のひとだわ、へんなかっこうだもの)
ふうふう言いながら、胡乱気に男女の体を眺めまわすことひとしきり。――記憶の底を浚っても似たような顔は浮かんでこなかった。
「あーあ、災難だったねえ」
男女は珠子の足下に目を落として、こちらへ歩んでくる。
(傀儡子ってなにするひとだったかしら。――胸が大きいわ)
「おいったら、聞こえてる? もしもし」
「はい、はい、聞こえております、なんでございましょうか」
珠子はあわてて八の字を開いた。
「うんち踏んでる」
「きゃあ!」
珠子はあわてて八の字を寄せた。足下に円座大の糞が落ちていて、そのど真ん中をみずからの右足が踏み抜いていた。
どうも牛車の落とし物らしい。午前中に雨ざらしになったせいか、はたまた生みの親の栄養状態に起因するものか、適度な粘性と剛性を兼ねそなえた傑作で、足を退けても緒太の底にしっかりとへばり付いてくる。苧麻の紗ごしには土くれにしか見えなかったのだった。
路傍のささやかな変事に、二、三の忍び笑いが通り過ぎていく。疲れ切っていたところに糞まみれの緒太を持てあまして、珠子はいっそしゃがみ込んでしまいたい衝動に駆られた。蛙神将の霊障ここに極まれり、といった塩梅である。
「……ほら、脱いで、草履」
「え、うわ」
珠子の打ちひしがれるのを黙って眺めていた男女が、ややあっていかにも業を煮やしたというふうにして彼女の足下にしゃがみ込んだ。そのまま足首を掴んで、糞まみれの緒太を引っこ抜く。
「片足で立って。そう。足あずけて、ここに。ここ、あたしの膝」
「はあ、はい、あのう、あのうお手が……」
「汚い?」
珠子の困惑顔を見上げる男女の面には、ちょっと侮り含みの慈愛に満ちた笑みが刷かれていた。が、不快のいろは窺えない。緒太を縦にして路面にばんばん打ち付け、落ちなかった汚物についてはなんのためらいもなく指で刮げていく。
珠子はふいに、自分が幼い童子になって、母親に履物の世話をしてもらっているような心境に陥って赤くなった。そのいでたちにそぐわぬ、男女にはひとの世話をするのに慣れているようなふしがある。
「牛のならね、そんなに汚くなんかないのさ。人間のは汚いけど」
「あのう、申し訳もありません。行き摺りのお方にこのような」
「見てらんないよ。あんた、いいとこの子だろう。態みりゃわかるよ」
男女の言う「いい」がなにに掛かるものなのか、珠子はちょっと判断に迷った。
「はあ。あのう、お礼をしたいのですが、あいにく今はなにも持っておりませんの……」
「ほうら、いいとこの子だ」
緒太を土で清めながら、娘みたいな無邪気な笑い声を上げる。
(このひと、いくつくらいかしら。――ほんとうに傀儡子のひとかしら)
瞥見程度では、若いようにも年増のようにも、下人にも貴人にも見える。妙な格好をしているせいで歳も身分も生業も定かでないが、どうやら人となりのほうは信用できそうである。はきはきしていて快活で、立居振舞には強い母性と、男の態をしているからであろうか、ちょっと父性のような絶妙な硬さをも備えている。女好きのする女とでも言おうか、珠子の身の回りには見つかりそうにない性質であった。
「……あのう、日を改めてお礼をさせていただきたいのですが、お住まいはどちらになりましょうか」
土で手指をごしごしやっていたのがはたと止まった。前と同じような、侮り含みの微笑みが珠子を見上げている。
「あのね、あんたね、そういうことは滅多に言うものじゃないよ」
「まあ、何故でございますか」
「いくら要求されるかわかんないよ。それにね、あんた気付いてなかったかもしれないけど、ついさっきまで後ろに二、三人、柄の悪そうなのがくっついてたんだ。ちっと用心したほうがいいと思うけど」
「まあ。気付きませんで」
あの蛙神将は焼いてしまおうと珠子は思った。
「あたしみたいなのに声かけられたらね、今度は無視するんだよ。履物を脱げなんて言われたら、大声だすくらいじゃないとだめ。あんた隙だらけだから」
俯いて素っ気なく言っているのだが、決してお座なりには聞こえない。心配して言っているのが却ってわかりやすかった。普段は過敏に反応する子ども扱いも、この女にされてみるといっそ心地よいくらいのものである。知り合ったばかりのこの女を、珠子は早くも好きになってしまった。
「よーし、ほうらだいぶましになった。ちょっと臭うかもしれないけど、草履のひとつやふたつ、お家に帰りゃ新しいのがあるんだろう?」
「はあ」
(これが盗品だなんてお知りになったらこの方……どんな顔をなさるかしら)
実のところ、珠子は履物を持っていない。外の用事は女房たちが万事こなすし、外出はすべて牛車である。今日などは例外中の例外、已むに已まれぬ窮状から考えなしに飛び出してきたのであって、自分の脚でどこかへ出かけたことなど、そもそもが指折り数える程度しかない。貴人の女にあっては常識以前の事柄であるからして、どうやら男女はさほど身分のある出ではないらしい。
「あんたみたいな子がお使いかい。ま、なんたって無茶なことさせるもんだ。あたしがちょっと目端の利く男なら、どこかの小径に引きずり込んで身ぐるみ剥がしちゃうね。たぶんさっきの男どもも、そんな魂胆であんたをつけ回してたんだろうさ。いいもの着けてるもの」
「ま」
「市にでも行くの? 今のは冗談だけど、もう日が傾いてるからじきに冗談じゃ済まなくなる。お止めよ、危ないよ」
忠告をありがたく思う一方で、珠子はなんだか既視感のようなものを覚えた。
「いえ、市ではないのです。――あのう、ご迷惑ついでに、もし知っておられましたらでよろしいのですが……」
道を聞いてみようと思い立ったのは、べつに迷う恐れがあったからではなかった。近くまで来ていることだし、すぐに方角を見失う自分でもじきに到着できるとは思うのだが、
(なんだか離れがたいわ。もう少しお話しして、お名前を伺って、できればお友達になっていただきたい……そうだわお礼もしなくちゃ)
「なんだい」
「あのう、六条坊門小路の、菅原道説というお方のお住まいをご存じでしょうか。詳しい住所がわからなくて」
端から知っているとは思わなかったが、ひょっとしたら一緒に捜すと言ってくれるかもしれない。祈るような気持ちで、珠子はできるだけ哀れを誘うようなほそい声を上げてみた。
「菅原道説ィ? あんた、あれの知り合い?」
「ええっ?」
珠子は瞠目した。それはこちらの科白であった。
「あのう、あのう、道説さんとはどのようなご関係で」
「ええ? ちょっとそりゃこっちの科白だよ、知り合いなのかい」
「いいえそれはこちらの科白ですわ、さあきりきりお答えになって」
「さきに聞いたのはこっちじゃないか、なんだい急に元気に――」
「まあ! ひとの前で開陳するに忍びないようななにかがおありになるとでもおっしゃるのでございますかあなた!」
このように息急ききって詰め寄るのも、そもそも「知っているか」などと聞いている張本人の返答としてはいささか自然を欠くのだが、彼女はのぼせ上がるとたいてい、こんなふうにして幼い地金を晒した。――それも恋という暑くるしい太陽の反射でやたらとぎらぎらしたやつを、である。
(ひょっとして、ひょっとしてこの方……でもお歳のころからいえば不自然では……ああもうどうしましょう道説さんったら!)
珠子は心中、顔だけ蛙とすげ替えられた大男の、不実を詰って身悶えしている。こちらはそもそも、別に愛人でも良人でもないのだから、そんなことをする義理も権利もないのであるが。――件の蛙神将は焚刑にするまえに寸刻みにしたがよかろうと珠子は思った。
「関係ってねえ……そうだねえ、気になるひと、といえばそうだけどねえ」
「まあ!」
男女の返答は聞き捨てならぬも、歯切れのわるいものであった。珠子が悶々と、しかしある方面において甚だ貧困な空想をたくましくしていると、男女は「でもあんたが思ってるようなのじゃないよ」とつけ加えた。
「関係だなんだって、まだ会ったこともないからね、あたしは」
「あら」
「実を言うと今日はね、そいつに会いにここまで伸してきたんだけども、どうも留守みたいだね」
珠子の肩がしおしおと萎びた。
「はあ、留守なので、ございますか。でも道説さんはお怪我で――」
「でもね、変な女がいたね。下女には見えなかったけど」
「まあ!」
珠子はたちまち肩を聳やかした。
「まあね、なんにせよ今日はいないみたいだし、お帰りな。悪いこた言わないから」
「でも、その変な方が……」
「一日くらい放っぽっといたってなにか変わったりなんかしないよ。なんにもなけりゃそれでよし、ねんごろになってりゃ今さらだろう」
「ねんごろ」
「あらいやだよ、そう繰り返すもんじゃあない。――それにさ、あんた好いたひとがもてるのって、まんざらでもないだろう」
「まあ好いたなんてわたしそんなことひと言も」
「そんならそんでもいいよ。とにかくさ、今日のところはお帰り。それでまた明日来りゃいいのさ。来てあいつを抓るなり女の尻を蹴飛ばすなりすりゃあいいじゃないか」
男女の言う「下女に見えない変な女」については大変気にかかるところではあったが、空はようよう茜いろに染まりつつあり、足はたいそう痛く、腹はたいそう減っている。なにより臭う緒太で彼のひとを訪なうのにはかなり抵抗があった。ここは男女の言うとおり大人しく家に帰って、再度緒太を失敬する手立てから考える方が利口のようでもある。
「わかりました。お言いつけのとおりにいたします。それではまた明日以降、伺うことにいたします」
「そうそう、聞き分けがいいね。――あ、そうだ、ちょっといちおう聞いておきたいことがあるんだけど」
自分の名前か住所であろうと、珠子が「はい、わたしの名前は――」と言いかけると、
「いや、それはいいんだけど、あんた土師季満って知ってる? 件の菅原道説ってやつの知り合いらしいんだけど」
(……季満どのになんのご用かしら)
一瞬ためらったあと、彼の仕事のことに考えが及んで、珠子は「はい、季満どののことなら存じております」などと請け合った。
(それにしても、季満どのはきっとたいそう有名なのだわ。なんだか知り合ったひとがみなあの方のことを知っておられるのですもの。――最初は謙遜してばかりいらっしゃったけれど、やっぱり人格がお出来になっておられる方はみなそうなのよね)
「きっと腕のほうも抜群なのだわ」と、彼の友人を自負する珠子はちょっと鼻が高かった。
「ああ、ほんとにちょうどよかったよ。その土師季満の住所、わかる?」
「ええ、簡単な絵図を書いてさしあげましょうね。ええと矢立はどこかしら――お仕事の依頼でございますか?」
「ああ、そうだよ」
「季満どのは洛中でも随一の腕前ですのよ。ちょっと事情に明るいひとは、みなあの方を頼りにいたしますわ。お目が高くていらっしゃるわ」
珠子の鼻がぐーんと伸びた。彼以外に仕事を頼んだことは無論ない。ただの知ったかぶりである。
「そうだろう、やっぱり頼むんなら信用できるやつにしなくっちゃ――へえ、右京九条! こりゃまたとんでもないところに住んでるんだねえ。見つからないわけだ」
男女は「助かったよ、ありがとうねえ」と言うなり、それまでの親身な振る舞いからはとうてい信じられないほど、あっさりと珠子に背を向けた。あんまりそっけないものだから、珠子は男女がどこかへ行こうとしているとは考えずに、なにか見つけたか通行人を避けたかしたのだとばかり思いこんだ。
「あ、あ、あら、あのう! もうし!」
ようやく自分から離れようとしていることに気付いて、大声をあげる。男女は一向かまわずにすたすた歩いていってしまう。このまま名前も知らずに別れるのではあんまりである。珠子は「お待ちを、もうし! もーし!」などと、周囲のひとの訝しむほどに大きな声をあげて、去りゆく男女の翻意を促した。
「お名前を! お名前をお教えくださいまし! あとご住所と――」
男女は首だけ振り返って「茅子だよ、じゃあね」と手を振った。が、立ち止まってはくれなかった。
(わたし、なにかお気に障ることでも口にしたかしら。――行ってしまわれたわ)
「もうし……」
かすかに寒色を帯びはじめた小暮空の、辰砂の夕陽が道ゆく人びとの横顔に朱を投げかけている。彼女――茅子と名乗った女の姿が、小さくなってひとに紛れて、やがて烏帽子の揺れるのが見えなくなるまで、珠子は西洞院川の際に茫々然と突っ立っていた。
四月十一日 甲寅 辰一刻
大内裏は真言院の裏手側、あまり日当たりのよくない小圃を前に、老人の蹲るのを見いだしたのは、辰の中頃のことである。
巻雄はちょっと眼を見張った。
「……行平さまに?」
老人は刺客に遭遇したようにはっと向き直ると、「巻雄か」と呟いてひとつ息をついた。声はまったくの平生どおりであるが、日陰を戴くせいであろうか、直衣の肩は削ぎ落とされたように悄然として見える。
「これはしたり。在中納言ともあろうお方が、国政を論ずるを惜しんで花を丹精なさるとは」
「まだ咲かぬ。いや、このようなところで果たして咲こうか」
冗談めかしたつもりだったが、行平はにこりともしない。表情が動かない。なにか屈託を抱えているようにも察せられる。
「朝議においででは、ないのでござるか」
巻雄は水を向けるつもりで、言わでものことを聞いた。在原行平は正三位中納言の重職、この時刻には外記庁に出仕して然るべき身である。が、実直方正の彼が朝議をすっぽかしたことにも況して、このような人気のないところで寂しげに土をいじる姿にこそ、巻雄は驚きを隠せない。
「……老いぼれが朝やることとしては、国の舳を左右するなどよりよほど相応しかろう」
「常の行平さまが言とも思えませぬな」
「そなたとてここにこうしておる」
「恥ずかしながら、拙めは職とてなき散位にござれば」
「散位とて散位の務めがあろう」
役職を持たぬ散位にも、一応の仕事はあった。散位寮への出仕がそれであるが、内実は閑職もいいところで、現今でははや形骸化して久しい。況して文室巻雄は当年もって七十八。おそらくは大内裏、いや洛中、いやさ畿内における最長老であると言っても過言ではないだろう。
「日本広しと雖も、坂大将軍に撫でて頂いたおつむりは、もはやこの首のうえにしか残っておるまいて。グハハ」
などと吹聴してまわる高慢ちきの因業じじいに、ああせいこうせいと指図できるものなぞいないのである。英雄坂上田村麻呂の御手が触れたこうべと言われてみれば、なんとはなしに後光も射して見えようというものだ。――もっとも証拠があるわけではないので、実のところあまり信じて貰えていなかったりするのだが。
「愚拙読書人にあらず、膝を畳んで筵を暖めるは本意にござらぬ。楮毫の振るうに慣れぬとあらば、せめて弓箭の鳴らすを老残の使命と心得申す」
「……ようまわる舌だ。そなたは昔から読書を好まぬくせに、口だけは人一倍達者であった。老残の使命と申したか」
「さよう、拙めごときにもそれはござる。況して三位が御身におかれてはなおのことと愚考つかまつる。――かような繰言も常なれば、むしろ行平さまより承るたぐいのことにござるな」
行平は声を出さずに笑っている。
「まこと、その気力壮者のごとしか。わたしよりひと回りも上とは、到底信じられぬ。案外、そなたのごとき気骨者のほうが、政には向いておるのやもしれぬ。――言葉が文にもならぬうちより漢籍の岨を登り、明法の洋を泳ぎ、牙笏の杖を曳いて無窮の政界をさまようたが……」
尻すぼみの言葉を飲み込んで、老人は汚れた手を懐に差し入れた。掘り返した黒土のうえに蒔いたのは、花の種であろうか。
「顧みてわが一生、烏有の道のりであったような気がするよ。体は病んだ。眼は霞んだ。脚は萎えた。老体を支えるための杖ひとつのほかに、いったいなにがこの手に残ったというのだろう。――叶うことなら弱冠たりしおのれに、ひとめ会うて言うてやりたい。書なんかつまらんから焼いてしまえ、弓をやって体を鍛えて、政なんぞに関わるな……」
巻雄は先頃から瞠目しっぱなしである。彼の愚痴を聞くのは幾十年の付き合いのなかの、まさに今が初めてなのだ。巷間不屈のひとなどと言われる彼は、その手の弱音を吐くのも聞くのも嫌っていた。
なにかあったのだと、巻雄は確信した。
「……そうして、弟御がごとく風雅の道に励まれますかな」
無礼であろうかとためらったが、巻雄は勇気を奮った。行平にとって弟の話は喜ばしいものではなかろう。それでも彼の人生を肯定する材料として、これ以上に恰好なものは見つからない。
果たして行平は怒らなかった。笑いさえした。
「風雅だけならよかった。女色に溺れてもよかった――並の女どもが相手であれば」たちまち笑顔が吹き消える。ひとつ長大息を吐いて続ける。「あれは、業平はまこと好き放題に生き、勝手気儘に死んだ。わたしはあれのようには生きられぬ。生きぬ。したが、そなたのようにはなれたやもしれぬな。いや、ちょっと丈が足らぬか」
「行平さま。なにかござったか」
ずかと聞いた。蹲る老人は初めて面をあげた。
「……なに、恥には思わぬが、ちと寒い」
「寒うござるか? 日は昇ってござる」
「懸命に体のほうを合わせようと思うたに、ついぞ着こなすことはできなんだ。それでも、あれほどに着心地の悪い裘でも、脱いでしまえばいささか肌寒い」
(寒い? 裘? なんのことやらわからぬが……)
「恥、とは」
「そなたが言うた。職なき身を恥ずる、と」
「……なんと仰せか」
ひやりとした。ここまで言われれば巻雄も愚物ではない、その意味は知れた。
「もはや引き継ぎも、滞りなく済んだ。あれほどに仕立ての悪い衣でも、中納言などと名前のつくからには、喜んで袖を通すものもたくさんいよう。すでに櫂は我が手より離れた、わたしがいなくとも船は動こう」
「それでは、致仕を?」
それはいっさいの官位俸禄を捨て、いち地下人に墜ちるということである。
「このたび、冬緒どのともども許された。幾度も請うた末のお許しよ。彼のひとともさんざん遣り合うたが、このうえは位官とともに遺恨をも返上しようではないかなどと言われての」
嬉しそうにしている姿が、巻雄には少し癪であった。在原行平は三位中納言といえども、籐氏、分けてもかの太政大臣の権勢によく抗する、いわば「反藤原」の重要な要害であったのだ。齢七十八にして矍鑠としている巻雄にしてみれば、七十の老齢まで踏ん張った行平を激賞したい気持ちも勿論あるのだが、それでもやはり「歳若い」ものが弱音を吐いて尻尾を巻くのは癪であった。
「……これで堀川はなおいっそう、その水嵩を増しましょうな。京内外の民政を以て鳴らした行平さまが、なんと治水の理を損なわれるとは」
「…………」
巻雄の口調は、どうしても皮肉を帯びたものになってしまう。堀川大臣こと藤原基経にしてみれば、河口にでんと居座って久しくその流れを割っていた岩が、自ら転がっていったようなものである。
「あえて無礼を承知で申し上ぐるが……行平さま、あなたさまの蒔かれた種は、そのようなところに埋まってはござらぬ。芽がなかなか出ぬのに根を負かしては、それは端から蒔かぬのと同じではござらぬか。――行平さまの種は秋咲きなのやも知れませぬぞ」
「そなたにはわからぬ」
「…………」
斬るようにひとこと言われて、巻雄ははたと黙った。
「そなたは知らぬのさ、あのあまりにも巨大な花圃を」と、巻雄を横目に、行平は前に種を蒔いた孔に丁寧に土を被せた。「耕ずるに嶮しき畝を。汗水を注ぎ、心血を注いでなお潤すこと能わなかった土を。――あまりにも強固に根を張った、あの大輪の藤の花を」
そうと言われれば黙らざるを得ない。巻雄の位も、その多くは武人たるを以て、あるいは父祖代々の功績に鑑みたものである。外記庁の倚子に腰を下ろしたことは一度もないのだった。
「巻雄よ、わたしもはや七十の声を聞いた。そなたには未だ及ばぬが、もうもう限界だ。疲れてしまった。もう腕が上がらない、膝が立たない。歩けないよ」
巻雄はすぐさま、言わでもの皮肉を口にしたことを悔いた。行平のそれはまさしく、足腰のおぼつかぬ老翁が歩きに歩いて、弱って弱って弱りきった挙句にあげるような、すべてに伏して潔しとせんばかりの、まこと哀れを誘う声であったのだ。
「そうとも、この手になにが残ったというのだ。肉を刮げて血を絞り、臓腑を刳って朝廷に尽くした。なにが残った。七十年の流光に晒された白骨だけだ。巻雄よ、それだけだ。――のう、もう捧げるものはなにも残っておらぬというのに、まだ足りぬのかの。骸骨を乞うて墓石を探すいとまを、余人は未だわたしに許さぬのかの」
「……行平さま、おいたわしゅうござる」
「巻雄よ」と、老人は莞爾と微笑んだ。「わたしの下野するはすでに決まったこと。決して考えなしに、思いつきで成したることではない。今さら掘り返してくれるな。――さあ、終わったぞ」
杖に縋って、行平はよろよろと立ち上がった。気にならないのか、その両手は土に汚れたままである。
「ご無礼つかまつった。浅慮にござった」
「いい、いい、そなたの浅慮は慣れっこだ」
行平は真っ黒になった手をひらひら振って笑っている。腰を直角に折って頭を下げる巻雄に比べれば、まことにあっけらかんとしたものだった。
「これでもう、大内裏に用事はないな。――ときに、それ、巻雄よ、その手に持ったそれはなにかの」
「最前から気になっておった」と、老人は眼を細めて、巻雄の右手に握られたものを注視している。
「これは……そう、なにと見えまするかな」
「なにと言うて、そうだの、太刀、にしてはなんとも細いの」
「御意。いかにも、これは太刀にござる」
瞥見したところ、それはたしかに太刀であった。柄があり、鍔がある。鞘のうちには刀身があろう。が、各々の意匠は普通のそれとかなり異なる。柄は両手で握れぬほど短く、鍔はほんの小指ていどの張り出しがあるのみ。刃の幅などを見れば、太刀というより針と形容したほうがふさわしい。
「どうぞ、試しに抜いてござれ」
「……なんと、軽いのう。これならわたしでも振り回せそうだ」
子どもみたいに喜んで、針もどきを戯れにぴゅんと振ってみせた。乾いた、鋭利な音がする。
「したが……わたしは素人だからなんともわからぬが、これでなにかの役に立つのかの。とてもひとを切れそうには見えぬし、受ければただちに折れようが」
「さようにござる」と、巻雄はあっさり肯定した。「造りは切先諸刃にて基部には及びませぬゆえ、見てくれよりは丈夫にござるが、それでもまあ、まともに受ければ折れましょうな」
「両手に握るには丈が足らぬ。反りもない。なんというても細すぎる。これは太刀でのうて……言ってみれば細刀だの」
「サチ、ふうむ、言い得て妙でござるな」
「ううむ、したが、これでも恰好は付くの。――わざわざ造らせてくれたのかの」
どうも行平は、巻雄が自分のために持ってきてくれたものだと思ったらしい。少々気が咎めたが、巻雄は訂正しなければならなかった。
「いえ、申し訳ありませぬが、行平さまがために造らせたものにはござらぬ」
「あ、そうか。うむ、ちと残念だの。ではそなたが使うのか」
「いえ、蜂の尻にくっつけてやらんと思いましての」
「蜂?」
「いかにも」
行平は首を傾げている。巻雄は呵々と笑っている。
「おりましたのでござる。ぶんぶんちくちくとまことうるさき蜂が。――しかしそのぶんぶんがいなくなってみればどうしたことか、奇妙なことに寂しくも感じる。これは針をなくして悄気おる、その小蜂にくれてやるつもりで持ってきたものでしてな」
「蜂針の細刀か。それ、なんと申したか、そなたが入れ込んでおる剣術の。あすこにおるのかの、その果報者の蜂は」
「さようにござる。傲慢無礼なる慮外者にて、さだめしありがたく頂戴などとは言わぬでござろうが」
「ふうん。官を辞したのちは、奨学院にでも顔を出そうかと思うておったが、ちょっと興味が湧くのう。それ、なんと申した」
「魚腸にござる」
「そう魚腸。なんとも珍妙な名前だが……どれ、ひとつわたしもやってみようかの」
と言って、行平は大笑いに笑った。
「なんの、笑いごとにはござらぬぞ。拙めの見たところ、行平さまは脚の萎えたるがゆえに杖を突いているのではござらぬ。杖を突くがゆえ、脚が萎えたのでござる」
「なんと! まことによう回る舌だわい。それではあべこべではないか!」
二人はしばらくのあいだ、ともども腹を抱えて笑っていた。笑っているあいだに日の境界は移ろい、前に行平の蒔いた種のうえを明るく照らした。土は黒々として、肥沃に覗われる。
「なにを蒔いたのでござるか」
と、巻雄は聞いた。行平は我が意を得たりと微笑んで、
「唐葵だ、秋咲きの花よ。わたしは咲かなかったが、うん、これはきっと咲こう。大内裏の一隅なりとも、これはきっとわたしのいろに染めあげる。――それでいい」
はればれと言うのだった。
か、隔週は無理……。




