The wailer VII
四月七日 庚戌 申三刻
門を潜るのをためらうことしばらく、道説はふいには横合から、明らかに自分を目指してやってくる足音を聞いて取った。軽やかな双足と、細い杖の石突とが土を突く音は、その主がこれから彼に言わんとすることを予言しているかのように忙しい。
(田達音先生)
「たきか。何をしに来た」
道説は数歩さがってあたまを下げた。
「田達音先生、御無沙汰をいたし――」
「挨拶はいいのだ、とにかく、それ、もうちっと離れなさい、門から。中から見えるから。ほらほら」
犬を追い払うみたいに手の甲を振りふり、田達音は大男に衝突せんばかりにすたすたと歩を詰めてくる。道説は詰め寄られるぶんだけさがって「申し訳も、申し訳も」とあたまを下げた。自分はここではいつまでも童子のままなのだと、彼は改めて情けなさに拉がれた。
(おれもいいかげん変わらぬが……先生も一向にお変わりがない)
最後に会ったときも、田達音は今に変わらぬ白髪頭に立烏帽子、歳ほどの皺もなく、竹の杖を振り回して唾を飛ばしていたように記憶している。最初に会った頃は「随分と老けたお人だ」などと思ったものだが、十余年を経ても初見の印象に変化はない。四十前後とおぼしき顔は、しかし五十をとうに過ぎたはずで、こうなってみれば「老け顔」にあらず、「若作り」とでも形容できようか。
「ここへ顔を出せばどういうことになるか、考えの及ばんきみではあるまい。いったい何をしに来たというんだ」
厨に猪を見いだしたような、予測外の出来事にうんざりしたような言い方である。慌てるということを知らぬひとなので、おそらく本当に猪が暴れていたとしても、同じようなことを言って諫めたに違いない。
「は、いえ、あのう、義姉上の、御機嫌うかがいに」
「……考えが及ばんのは、ぼくも同じであったらしい」
老人が眉根を揉み出す。自分はなにか妙なことを言っただろうかと、大男は身を硬くした。
「はあ、さようで……それであのう――」
「きこは会わんよ」と、田達音は早口に機先を制した。きことは宣来子の謂で、道説にとっては嫂、田達音にとっては娘に当たる。彼にはひとの名前を自分の呼びやすいように崩して呼ぶ、変な癖があった。「会わんとも。そのくらいのこと、わかろうもんじゃあないか。きみの顔を見ればいつだって真っ赤になって怒りだす。喚く。不機嫌になる。そのあとあれを宥めるのもまったく一苦労だよ、きみはなんだっていつもぼくのいるときにのこのこやってくるんだ、況して今はこまもおらんのだよ、こっちの身にもなってみたまえ」
「はあ、相すみませぬ」
「今日は廊下に顔を出しがてら、孫の顔を見に来たのだ、きみにかかずらっているヒマはないぞ。――なんだね、それは」
老人が杖の石突で目籠を指した。
「はあ、義姉上が召し上がるかと」
「ふーん……覆盆子か。きみなりに、あれのご機嫌を取ろうという魂胆かね」
「いえ、まあ、はあ」
「以前よりは進歩したようだ、結構なことだ。もっとも、きみが手ぶらで来たことを、あれは怒ったわけじゃあないが」
「はあ」
「そのあたりの物売女から買ったんじゃあなかろうね。あれらは平気で三日四日も経った青物を売りつける。市に並べてあるのだっていいかげん土埃をかぶってどうしようもないのがあるが。青果は自分で育てるか、育てている知己から譲ってもらうか、二つにひとつだ。薄給取りのきみだからして、そこまでの要求はせんが」
「はあ、申し訳も」
道説と田達音の会話は、たいていこのような遣り取りに終始する。老人のほうが一方的に喋りまくって、大男のほうはただ背を屈めて「はあ、はあ」と相づちを打つのである。
「きみにかかずらっているヒマはないぞ」などと宣ったわりに、田達音は一向に道説を解放する気配はなかった。口ほどにもなく厄介ごとが大好きで、以前の訪問に際してたまたま居合わせた折も、暗くなって棟門が閉められるまで、彼はああだこうだと義姉に口を利いてくれていた。
美濃介に玄蕃頭を兼ねる碩学、田達音こと嶋田忠臣は歴とした殿上人のひとりだったが、任国美濃には目代を置き、唐や渤海など海外使節への対応を任とする玄蕃頭としての職は、その性格上いそがしさに斑があるようで、彼はあまった時間を廊下での講義などに充てていた。娘家族に会えるのも一石二鳥で、時間が取れればたいてい菅原家のあたりをうろうろしているのである。
老人の止めどないおしゃべりの隙を縫って、菅原邸からはふたたび、かすかに千字文の素読が聞こえてきていた。前に上がっていた子ども特有の疎らな斉唱ではなく、小さくしんとした女の子の声である。
「――そういえば、最初の質問に答えてもらってないな」
ひとつ咳払いして言って、老人はようやく饒舌を打ち切った。透けて見えでもするのか、その目は菅原邸の築地塀を穿たんばかりに注視している。道説のほうを向いていないので、答えを督促しておきながら、一方で聞きたくないと拒絶されているようでもある。この老人に対して常にそうであるように、道説は結局ことばを選びあぐねて「はあ」と気の抜けた返事を繰り返した。
千字文の素読がはたと止んだ。田達音はむつかしい顔を背けたまま、
「孔懷兄弟。同氣連枝」
抑揚ゆたかに呟いた。「は?」と、道説の巨体はいよいよ困惑きわまったというふうに縮こまった。
「……兄のことを聞きに来たのだろう? こまが帰京すると、誰かに聞いたのだな」
老人は面にひと刷けの笑みを浮かべて、いちど鋭く舌打ちをした。
「は、王侍従さまに」
道説の受け答えは短くひかえめである。田達音というひとは、あたまの良すぎるせいなのか、はたまた性格に奇妙なものがあるのか、笑いながら怒ったり仏頂面で喜んだりすることがしばしばあるのだ。
(おれなどにはとうてい理解できぬ、なにか深遠な理由あってのことであろうが……)
学者才人に盲目の尊敬を抱く道説も、亡き父の愛弟子であり、兄の師であるこの碩学には、予てよりいささか与し難いものを感じていた。職務上、渤海交易商や遣日本使の通辞などもこなしているせいか、ところどころに彼の理解できない言葉が顔を出すのにも閉口を禁じ得ない。
「王侍従、知らんね」と、田達音の言いようはにべもない。「たしかに、こまは遠からず帰京するよ。それを知らせてくれなんだことに意趣を持ったかして、きみは平素忌避するところのここへ来たというわけか」
「いえ、忌避などとは露も」
「きこは忌避しておるよ、きみを。この屋の半分、いや、けっこう出入りがあったから、今は三分の一くらいかな、それくらいの者たちも未だにそうだ。きこは父親に似て聡明だから、仕人どもの信頼は篤い。あれの言うことはおしなべて真実として聞くから、きみを嫌う人間はあれ以上減らんだろう」
「……はあ」
「きこは聡明で器量よしだが、せまい世界でちやほやされるのに慣れきってしまったから、頑迷で、狭量で、遠くを視る目を持っているにも拘わらず、とかくそれを細める労を厭うきらいがある。井蛙不可以語於海者、拘於虚也。そうだ、蛙に海を語らせるとあんな感じになる」自らの娘を高調子にこきおろして、田達音はさも楽しげにあとを続けた。「憖じの才があるから、自分は世の中のあらゆる事象に通じていると信じ、知らぬ事柄は並べて虚ろであると考えるふしがある。だからひとの話をあまり聞かない。況してそれが嫌いな人間のものなら尚更だ。反駁のことばは一見理に叶っているようにも聞こえるが、ちょっともののわかった人間が聞けば、童子が両耳をふさいでわあわあ喚いているのとたいして変わらない」
「…………はあ」
(ご自分の娘をこれほど悪しざまに評されるとは……過去に遣り込められたことでもあるのかな)
「まあ、それもこれも、父親を範としたあの子の不運だ。我が身の不徳のいたすところ……というやつさ」
はたして同意していいものやら、道説は暫時返答に悩んだが、けっきょく「はあ」と相づちを打った。――老人の面にかすかな険の走るのを見てとって、大男は今ほどの判断を早々と後悔することになった。
「詩歌であれば佳作のひとつやふたつも捻ってみせようがね。ま、子どもを育てるというのは、いまひとつうまくゆかないものだ。きみももうちょっとすればわかる」
「はあ」
「話が逸れた。それで?」
「はあ。は?」
不意を突かれてへどもどしていると、老人は卒然と門のなかに向き直って「おひろ、行きなさい。ほら入ってなさい!」と声を飛ばした。
「衍、ですか?」
道説の問いかけには舌打ちが返ってきただけである。
「じじさま、だあれ? だれかきたの?」
はたして、棟門の影から小さな尼削頭がちょこんと飛び出してきた。
「あー! あにさまだ! あにさまだ!」
道説の姿を認めるなり、放たれた矢のように駆けてきたのは、牡丹の夏汗衫に切袴といったいでたちの少女であった。兄の娘で、名を衍子という。
「おお、久しいなあ、衍や――あ、これ、離れなさい。籠を持っておるのだ、ぶら下がるのはやめなさい。これ!」
気難しい故老と相対しているのに疲れ果てていた道説にとって、姪の衍子の登場は思いがけぬ救いとなった。どうも前に千字文を読んでいたのはこの子であったらしい。
「衍や、今はお祖父様とお話ししている最中だから――」
「あにさま、これなあに?」
「これか。これは……お前のお母様にお土産に買うてきたものでな」
「すっぱい」
「これ、食うては……すっぱいのか、これは」
「うん、すっぱい」
衍子は「じじさま」そっちのけで、きゃっきゃと道説の足下をよちよち駆け回り、彼の背によじ登ろうとしたり腕にぶら下がったりしている。齢十二、三ほどになるはずだったが、いまだに稚気の抜け切らぬ子であった。道説はふいに珠子のことを思い出して、
(たしか珠子どのも同じ年ごろであったはずだが、これはいったいどちらが年相応なのやら……)
首を捻ることしきりであった。
黙って二人の遣り取りを眺めている田達音は、不機嫌を露わにしている。なにかお気に入りの玩具を取り上げられた子どものような、拗ねたようないろが見える。
「きみはおひろのお気に入りだな」
との科白もどことなく投げ遣りである。木石に烏帽子を乗せたような道説も、ようやく老人の機嫌を取る必要に思い及んだ。
「あ、いえ、田達音先生には及びも……おおそうだ、衍はお祖父様に学問を見て貰うておるのだったな。うむ、いかい精だしておるようだな」
「ううん」
衍子は首を横に振った。冷や汗が出てきた。
「せ、先生ほどの才人は、この京のどこを捜してもおるまい。衍はこれほどの得がたい師に教えを授けて頂いておるのだから、お言葉は心して聞かねばならぬぞ」
「……見聞きしたことが悉く口から出る、ぼくのようなのを才人とは言わんのさ。小人之学也、入乎耳出乎口。才人とは佳く聞いて、寡く話す、きみのようなのを言うのだ」
その言葉も、いったい本気で言っているのか皮肉で言っているのか、たいそう解りづらい。とりあえず機嫌が直っていないことだけは理解できたのだが。
「じじさまはよくわからないこと言うからいや。衍子あにさまと勉強する」
脂汗が出た。衍子も衍子で、「あにさま」を窮地に追いやるようなことばかり言う。
「こまが帰京のことをきみに知らせるなと言ったのは、ぼくだ」
突然、なにを前置くこともせずに、田達音はぽつりと言った。
「…………」
「方々の親戚にもそう言って回った」
「あにさま、こまってなあに?」
「衍、降りなさい」
「こまって――」
「降りなさい!」
衍子は降りなかったが、道説の剣幕におどろいて大声で泣き出した。衆人の目が門前の三者に注がれている。衍子を降ろして肩を押すと、彼女は両手を目に当てて泣きながら、田達音の背後に隠れていった。
(先生はおれに含むところがあったのか。味方ではなかったのか!)
「なにゆえでございます。あまりにも無体ななさりよう、道説は承伏いたしかねます」
「無体だと思うかね」
「無論でございます」
「じゃ言わなかったとしよう。またぞろきこがきいきい言い出すぞ。あれは他人が考えたことには、たとえ全く非の打ち所がなかったとしても生返事しかしないが、自分で言い出したことは徹底するから、この機会に今後いっさい出入禁止などと言い出しかねない。こまはこまで、ああいう短気で血の熱い性格だ。こと道理の通らないことに関しては、一歩退いたり宥めたりなんてことは考えもしないから、おのれの舌の及ぶ限りの大舌戦を繰り広げて妻をこてんぱんに打ち負かすだろう。――きみはそうなったあとのこの家がどのような様相を呈するか、想像できるかね」
「は、いえ」
「縦しきこが忿懣やるかたなくも、きみがこまの帰京をともに祝うことをうべなったとしよう。さて、きみは前にぼくの言った三分の一の人間と、きみを汚物かなにかのように考えている嫂と一緒に酒を呑み、食べ物を食べ、詩歌のひとつも捻ることになる。きみはそういう席に進んで出たいと思っているのかね。自ら白けず、座をも白けさせない自信があるのかね。もしぼくがきみの立場なら、そうならないようにしてくれる気の利いた友人のひとりでも、前もって作っておくが」
「……は」
道説はすでに前の考えを撤回して、自らを罵るありったけの言葉を探して煩悶している。田達音は婉曲に、道説への一風かわった友情を仄めかしているのである。
「こまにはきこに知られないように、あとできみを訪なわせようと思っていた。――ぼくのささやかな謀りごとは措くとしよう。きみはここへきこを問い質しに来たのだな?」
「さように、ございます」
「帰りたまえ。あれは会わんし、聞かん。こたびばかりは力になれんね。ぼくの入れ知恵には違いないが、それはあれも考えていたことだ」
「ひと言でようございます。お詫びとお祝いを」
「きみも会うとは思っていない、そうだろう。このままおとなしく帰ることだ」
「……それでも、ひと目、お目通りを」
「……何度も言わせんでくれ。帰れ」
「…………」
田達音はいちど溜息をつくと、大男を「豎子め!」と一喝した。
「きみのそういう我を張った行為が、どれだけこの家の平和を乱すと思っている。きみには学習能力がないのか! 誠意を見せさえすれば翻意がかなうなどと、まだ青臭いことを考えているのか! 以前にあれほどの騒ぎを起こしておいて、今またこんなくだらん用件であの子の神経をすり減らそうというのか! この大馬鹿者っ!」
道説は恐懼して飛び退る。はずみで目籠を取り落とす。いまだ熟し切らぬ酸い覆盆子は、彼の青い誠意は土にまみれた。嘉納されなかった。
「……まったくもって、返す言葉も」
忸怩に堪えかねてうなだれているあいだに、田達音の言う「あの子」が、義姉のことを指しているのだということに遅まきながら気付いて、道説は眩暈のするほどの自己嫌悪に陥った。
田達音は道説の立場にたって便宜をはかってくれていたのではなかった。一片の友情から、あるいは同情から――ひょっとすると純粋な迷惑から、道説と菅家の調停をしてくれていたに過ぎなかった。なんのことはない、我と我が家族を悪し様に評してみたのも、単に孤立している道説に気を配ったに過ぎなかったのだ。
(豎子よ、貴様は。いたずらに馬齢を重ねるばかりの、貴様はけっきょく賤丸であったのだ。ひとの落とし物をついばんで、生かして貰うていることにも気の付かぬ……)
もういちど溜息をついて、田達音はうって変わって穏やかに話しだした。声を荒らげる田達音が珍しいのだろう、後ろで祖父を見つめる衍子の眼はおどろきに見開かれている。
「きみは馬鹿だが、いい男だよ。いい男だが、この家では依然として平和を乱す邪魔者でしかないのだ。事情が理解できたのならすぐに帰りなさい。ここへは二度と来てはならない」
「は」
田達音の顔を見ることもできずに、道説はそのまま踵を返して足早に歩き出した。その背に「あにさま、また来てねえ」と衍子が呆けたような声をかけた。
「父上ェ、なにごとかございましたか」
(義姉上)
田達音との会話を聞きつけたのだろう、遠ざかりゆく菅原邸から聞こえてきたのは、義姉の間延びした声であった。
「なんでもないよ。ちょっと物売りが通りがかったのだ」
「珍しゅう声をお荒げになって」
「ああ、こんな青い覆盆子を十文で売りつけようとするもんだから、怒鳴りつけてしまった。ちょっとすっぱいが、どうだね」
「いえ、わたくし覆盆子は好きませぬので。――父上も衍子も早うお入り下され、降って参りましたよ」
衍子が明るい声でなにか言っているのが聞こえる。二人が門のなかの団欒に入っていく気配を感じ、生暖かい雨粒が狩衣の肩に浸むのを感じた。涙がこみ上げてくるのを感じた。
(使庁へ行こう。仕事に戻らなければ。公務から離れたおれに、生きている値打ちなどない)
歩いているうちにも雨は刻一刻と激しくなって、はからずも彼の涙を隠す体裁となった。憂鬱に思っていたものが思いがけぬ救いになるものだ――道説はあたまのなかの妙に冷めた一隅で、そんなことを考えていた。
雨足はいよいよ繁く、大男の歩みを急かす。
四月八日 辛亥 未一刻
背後でどよめきが起こったかと思う間に、「非違検めェ!」との怒声が四条大路に響き渡った。
(まずい!)
吟師は身を硬くして、大路の中ほどに突っ立っている。人の波に紛れて路肩に寄るべきだったが、機を逸した。人びとの視線が痛い。
どたどたとやかましい足音が近づいてきて、佇む吟師の傍らを走り抜けていった。疲れ果て、それでも止まることのできないひと特有の、焦燥をそのまま音にしたような足音である。次いで十数人規模の、群れなす小型の肉食動物然とした足音がそれに追いすがる。こちらは検非違使の手先たる放免のものであろう。
両者は縮こまる吟師を無視して駆け去り、一町も行かぬうちにひとつになった。
「たすけてえ! たすけてえ!」
「なあにが助けてじゃ。この、食らえい」
組み伏せられた小太りの男は、太い声できゃあきゃあと女のような悲鳴をあげている。放免どもがその体をさんざんに打ち据える。殴る蹴るの暴行は捕り物にあっては茶飯事で、ことに放免は犯罪捜査の手足として働く見返りに罪を免れている、はっきり言えば犯罪者の集団なので、そのやりようは自然と荒っぽくならざるを得ない。
ひとしきり殴られまくって男が血だるまになったころ、騎乗した検非違使が放免の駆けてきたほうからとことことやってきた。
「退けい」
言って、道ばたに佇んでいた吟師の肩を、検非違使のひとりが携えていた弓の本弭でぴしりと打つ。一行は騎馬ばかりが五人である。
(おれではなかったか……外出は控えたほうがいいのかもしれないな)
畏れたふうを装って、吟師はこそこそと人垣のなかへ分け入った。塒を出しなに、呼師が「大路には出るな」と言っていたのを思い出した。
洛中の陰陽法師の取り締まりが苛烈を極めているのだという。
「右検非違使少尉、平輔広である。神妙に縛につけ」
「あ、あ、あほか! おれがなにしたっちゅう――!」
「ちゅう」のところで放免の蹴りが入って、男は「ちゅう」と悶絶した。
「呪い師、自称平法師。先月某所にて外法無頼の者どもと会合し、公辺を呪詛せしめんとしたこと明白である。相違ないか」
「はああ? なんやら法師なんて聞いたことあらへんわ、人違いや! おれは――」
言葉の途中で検非違使のひとりが顎を振った。ふたたび男の体に放免どもの足の裏が降りそそぐ。
「相違ないか」
「た、平法師ゆうて名乗ったのんは、半年も前の話やあ! 今はただの職人や、悪さなんかしてへん! たすけてえ!」
股間を蹴られて、男は「きゃー!」とひとつ叫んだ。放免の暴行は続く。それきり男が言葉を継ぐことはなかった。
「よし、引っ捕らえよ」
男が動かなくなったころを見計らって、馬上から縄が投げられた。両端が輪になっているもので、手を縛って歩かせようという考えなのだろうが、男は死んだように横たわってぴくりとも動かない。
仕方なく形ばかり両手を縛られ、彼は数人の放免に嫌々かつがれて大路を退散していった。
(あれは……)
気の毒な男を後目に見送る最中、吟師はふいに人混みのなかに見覚えのある人間を見いだした。人目を避ける意図か、首までをすっぽり覆う尼のような頭巾を被り――その腕はかたわらの男の腕に絡められている。えらの張った厳つい面で、中背だががっしりと幅のある、ちょっと浦人のような屈強の男である。
なにごとか潜み話でもしているのか、ときどきその男の耳元に顔を寄せているのは、紛れもない哭師であった。
「みなみな聞け! もし呪い事を生業とするものが身辺にいたなら、速やかに京識ないし検非違使庁へ連絡されたい。なお協力者には些少の報謝あり、また知って庇うものには今ほどのごとき手厚い報いのあることを知れ。――このたびの追捕は右検非違使少尉平輔広が為業なり」
ひとくさりがなり立てると、鞍上の輔広は配下をともなって馬首を返した。前に吟師にそうしたように、弓を左右に振りふり「退け退け」と呼ばわりながら、検非違使の一行は右京へと引き返していった。
(哭師……そりゃあないだろう。言師が死んでひと月しか経ってないっていうのに)
ややあって夢から醒めたように、大路の路肩に寄っていた人垣はめいめい用事を思い出して散っていった。哭師と件の男も連れだって、吟師の猜疑のまなざしに背を向けて歩き出す。
腕を絡めて肩を寄せあう後ろ姿は、いかにも睦まじげに見える。吟師はやるせない想念に囚われた。彼女はついこの間までは人妻であったはずだ。
追いかけ問い詰めて、不実を詰ってやろうかとも思ったが、彼は結局あきらめて帰路につくことにした。いまだに言師のことを考えると胸が詰まるのに、その上かつての妻から言わでもの弁解など聞きたくなかった。
(そういえば、別当が捜しているのだったか。――儘よ)
別当は嫌なやつで、今や哭師もその仲間入りをした。わざわざ駆けていって事情を説明する労など厭わしい。恐らくはここ最近の取り締まりに鑑みて、自重をうながす腹積もりなのだろうが、
(どうにでもなれだ。せっかく新しい情夫とよろしくやってるのに、邪魔なんかしないとも。別当も哭師もせいぜい困ればいいのさ)
捨て置くことにした。
官職をえさに別当の元で過ごすようになって数ヶ月を数えるが、その目的はいつもあやふやで、「誰々を呪詛せよ」などと命じられるのではなく、いきなりなにかの呪物らしきものを持ってくるなり「これに念を籠めろ」とか、深更に叩き起こされて「あちらへ向かって加持しろ」とか、とにかく訳のわからないことばかり言われるのである。――尤も、吟師に力がないと判断されて、そのような雑事を回されているだけなのかもしれないのだが。
今やすでに仕事に対する情熱も冷めつつあり、陰陽師になる望みなど半分あきらめている。専らただで飲み食いができるから居るのであって、今さら別当の手足を忠実に演じる気などさらさらなかった。
(それにしても、女ってやつは――)
「言師も草葉の陰で泣いてらあ……」
と小さく呻いて、吟師は踵を返した。それが聞こえたかのような頃合で、遠ざかり行く哭師がついと振り返ったのに、彼が気付くことはなかった。