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夢を見ていた。
見慣れた実家の道場で、迅は少女と相対していた。
双方の手には竹刀が握られ、互いに肩に担ぐように構えている。
油断のない真剣な眼差しで、少女がすり足で間合いを詰めてくる。十三歳という年齢を抜きにしても小柄で華奢な体格のせいで、道着に身を包んで構えを取っている姿は、どこかままごとのように見える。肩まで伸ばしたさらさらの髪も、清楚な白百合を思わせる端正な顔立ちも、とても剣をやるようには見えない。
だが、迅は知っていた。彼女が剣において、比類なき達人であることを。
竹刀を持つ手が緊張で汗ばみ、迅は気取らないよう、竹刀を握り直した。
――間合いではこちらが上。尋常の戦いならば、ペースを握るのは自分だ。
自分に言い聞かせて、呼吸を落ち着ける。
互いに間合いを詰めながら、あと一歩で迅の間合いに入るところで――少女が飛び出した。
颶風のような速さで懐に入り込もうとする彼女に、迅は迷いなく竹刀を打ち下ろす。
無論、少女はそれを予測していた。全体重が乗った鋭い斬撃を鮮やかにかわし、構わず前進してくる。
剣閃が走る。
迅はとっさに身体を落とし、首への一撃をかわした。すかさず身体をひねり、全身のばねで回転しながら横薙ぎの一閃を返す。
少女もそれは読んでいたらしく、間合いぎりぎりのところでかわされる。
距離が離れ、仕切り直しになる。
再びすり足で間合いを詰めながら、少女は八双に構え直し、手の中で竹刀の柄をくるりと回した。
――それは迅だけが知る、少女の癖だった。
気持ちの昂ぶりを抑えきれず、得意の一撃を放とうとする時の、彼女の癖。
あるいは、迅以外にも彼女を癖を知るものがいたのかもしれない。だとしても、癖を知っていた程度では、彼女に一矢報いることもできなかっただろう。
それほどまでに、彼女の技は完成されていた。
少女は竹刀を構えながら、じりじりと間合いを詰める。
迅は彼女の一挙手一投足も見逃すまいと、眼力を光らせる。
だが、瞬きの瞬間。
少女の姿が消えた。
敵手が忽然と姿を消したことに、迅は動揺して視線を巡らせた。完全に死角に入られてしまい、少女の姿は見当たらない。
「――っ!」
不意に背後から殺気を感じ、迅は振り向き様に袈裟懸けに竹刀を打ち下ろした。
会心の一撃だった。
並の相手ならが、間違いなくこの一撃で床に沈んでいただろう。
だが、斬撃の先にいた少女は、それを予測していたように薄く笑みを浮かべる。
唸りを上げて迫る鋭い斬撃を、彼女は竹刀を掲げて柳のように受け流した。竹刀を打ち合せている感触すらなく、風に剣を絡め取られたような感触に、思わず迅の身体が前に泳ぐ。
その首筋に、少女の竹刀が叩き込まれ――触れる寸前で停止した。
首筋に添えられた竹刀に冷や汗を流しながら、迅は溜めていた呼吸とともに声を吐き出す。
「……参った」
迅の言葉に、少女も竹刀を手元に戻して笑みをこぼした。互いに礼を交わしてから、板張りの床の上に腰を下ろす。
「お疲れ様です、兄さん」
「……おう。お前もな、小夜」
先ほどまで戦っていた少女――妹の小夜に労われ、迅はなんとも複雑な気分でそれに応じた。
一歳年下のこの妹は、迅にとって複雑な存在だった。無論、自分には勿体ないほど出来た妹だと思っているし、自分が妹へ向ける家族としての親愛の情も、他の家庭の兄妹に決して劣るものではないと自負している。
だが彼女の剣才が自分より勝ると気付き、実際に剣で負けてしまってから、迅は彼女にコンプレックスのようなものを抱き続けているのだった。
それに気づいていないのか、小夜は少しだけ眉根を寄せて、迅を叱ってくる。
「兄さん。さっきの試合、手を抜いていませんでしたか?」
「そんなことないだろ。俺の腕は元々、こんなもんだよ」
「嘘です。だいたい、『晦月』なんてもう何度も見せてるのに、全然対策してないじゃないですか」
晦月というのは、小夜が先ほど見せた消える歩法のことだ。瞬きや思考の瞬間をついて死角に移動し、相手に位置を気取られないように死角から死角へと無音で移動する。
春日一刀流の秘奥の一つであり、原理はわかっていても破るのは一朝一夕ではままならない。闇雲に剣を振り回せば隙だらけになるし、意図的に死角を作って誘導しても、小夜ほどの達人なら裏をかかれるだけだ。かといって、先ほどの迅のように相手を凝視していても、かえって敵の動きの起こりが読めなくなる。
そんな迅の試行錯誤も知らず、小夜は説教を続ける。
「そもそも、うちの剣は相手の間を外す懸かり技が真髄です。なのに、どうして兄さんは、いつもわたしの攻め手を待っているんですか?」
「それは……」
――妹に全力で立ち向かって負けるなんて、兄として恥ずかしすぎるだろ。
とは、さすがに迅も言えなかった。
迅の沈黙を図星と捉えたのか、小夜は頬をふくらませて続けてくる。
「やっぱり、一週間も稽古をサボるなんてよくないです。今日からでもちゃんと毎日稽古しないと、本当に私に追い越されちゃいますよ?」
「……いや、お前にはもう追い越されてるだろ」
「それは兄さんが手を抜いてるからです。だって」
そこで一旦言葉を切って、小夜は心から大切そうに、続く言葉を口にする。
「兄さんは、私のヒーローですから。私なんかに負けるはずありません」
「……いつの話してるんだよ」
むずがゆい気分を振り払うように、迅は首の後を掻いた。
剣術を始める前の小夜は、近所の悪ガキどもにいじめられるほど気が小さく、いつも兄の背中に隠れてばかりだった。迅も小夜を守ることに兄としての誇りのようなものを感じていたし、そんな兄を小夜はずっと心から尊敬してくれていた。
小夜が剣術を始めたのにも、大好きな兄の真似をしたいという気持ちが、少なからずあっただろう。
(でも、俺は小夜の期待に応えられなかった)
迅も決して凡才ではなかったが、それを遥かに凌ぐほど、小夜の剣才は凄まじかった。
あっという間に免許皆伝をもらい、自分の遥か先に行ってしまった妹に、迅は合わせる顔がないのだった。
そういう思いもあって、つい心にもないことを言ってしまう。
「……いいんだよ。俺は剣術なんて、真面目にする気ないからな」
「では、剣術以外にやりたいことでも?」
「それは……」
即座に問い詰められ、返事に窮する。
そんな兄の様子に、小夜は「仕方ないですね」と苦笑を漏らした。
「兄さんがやりたいことを見つけたのなら、私はなんでも応援します。でも、やりたいことが他にないなら、剣術を続けたほうがいいと思います」
「……そうか? 痛いしきついし、剣術なんてやってても、いいことないだろ」
「私は楽しいですよ? 兄さんと稽古するの」
真正面から一片の邪気のない言葉をぶつけられ、迅は言葉に詰まってしまった。同時に、しょうもないプライドに固執して、妹に負けることを恐れてばかりいた自分が恥ずかしくなる。
なんとなく目を合わせられなくなって、迅は彼女から視線をそらした。
それに寂しそうに笑いながら、小夜は続ける。
「私は、兄さんと一緒に稽古がしたいです。私にとっての剣術は、兄さんとの大事な繋がりで……ただ、それだけなんです。きっと……私がおばあちゃんになっても、ずっとそうです」
「……爺さんになっても、俺は剣を振り続けなきゃいけないのか? 無茶言うな」
「無茶なのはわかってます。それでも、言葉にしなきゃ叶わないことだって、きっとあります」
そんなこと言われても困りますよね、と小夜は照れ隠しのように笑う。
痛みを隠すような妹の顔を見て、迅は思わず妹の頭を撫でていた。さらさらの髪を梳くように優しく撫でてやると、小夜は少しだけ驚いてから、嬉しそうに目を細めた。
それに安堵しつつ、迅は妹の願いに応える。
「……まぁ、お前に好きな男ができるまでは、俺が付き合ってるやるよ」
「はいっ」
それは、ほんの二年前の出来事。
もう二度と戻ることのできない、悲しい夢だった。




