花曇り
突然、頭の中が真っ白になって、気がつくと私は独り薄暗い霧の中にいた。
靴も履かずに、蘇った死人のように、ひたひたと私は歩みを進めていた。今までの記憶はまるでない。それどころか、もうすぐ朝がやってくるのか夜がやってくるのか、それすらもわからない。
この霧はどこまで続いているのだろう。全く先が見えない。薄暗い空の色を吸収したのように青白い。このままここに居続けたら、私はこの霧に飲み込まれて、ふっつりと消えてしまうのではないか。
自分の足音以外物音ひとつしない霧の中で、私はひとり怯えた。その時だ。
どこかから漂う、甘い香り。
柔らかく優しい、春の香りが私の鼻をくすぐった。
なにか、ある……?
よく目を凝らしてみると、前方にぼんやりと何か光るものが見える。……外灯、だろうか。だけど、それにしてはやけに大きすぎるような気がする。
私は小走りでそれに近づき、そして仰天した。
それは外灯の明かりではなく、枝という枝を薄桃色で埋め尽くした一本の大きな桜の木だった。
よく見ると、花のひとつひとつがぼんやりと淡い光を帯びている。
見れば見るほどに美しく、甘く優しい香りを放つ。私は一瞬にしてその桜から目を離すことができなくなってしまった。こんなに大きく立派な桜なんて見たことがない。感動を通り越して恐怖すらおぼえる。
私はその桜の木の真横へ歩み寄り、翠色の苔の生えた幹にそっと手を添えた。
固く、ごわついた苔の感触が手に触れる。その瞬間、どこか懐かしいようで悲しい、一言では言い表せないような熱い感情が、腹の底からどっとせり上がってきた。
私は静かに崩れ落ち、泣いた。何かの箍が外れたように。
自分のすべてを、理解してしまったのだ。
それから、一体どれだけ泣いただろうか。
私は泣き疲れ、静かに目を閉じ、そのまま死んだように眠った。