金木犀
金木犀の匂い立つ、十月の午後。私は何気なくその匂いを嗅いだ。
毎年、胸がざわつくような、奇妙な感覚に襲われる。きっと金木犀の匂いには、腹の底から込み上げる何かが隠されているのだと思っていた。しかし誰に聞いてみても、そんな感覚は知らないという。これは私だけなのだろうか。
自分が生きていることに漠然とした「不思議」を感じる。子どもの頃の日常的な一瞬が、匂いと共に鮮やかに甦る。何故自分はここまで生きてきたのかと思う。
オレンジ色の小さな花がひとつ、またひとつと地面に落ちていく。くるくる回るように、静かに舞っている。私はその様子を縁側に寝そべって眺めている。縁側の真下には、この前まで真っ黄色に咲いていたはずの彼岸花が色褪せている。
お婆ちゃんはこの花を「真っ赤」と言うが、私にその色はわからない。どう見ても黄色なのだ。
いつにも増して冷たい風が吹き抜けた。私は起き上がって自分の尻尾を手の上に置いた。
そういえば、捨てられたあの時も、こんな風が吹いていた。湿ったダンボールの上を不思議な匂いを乗せた冷たい風が吹き抜けて行ったのだ。頭上を見上げれば真っ青な空間が広がっていた。初めて空を見た瞬間だった。そうか。どうりで、近所の飼い猫に聞いても理解されないわけだ。
しかし何故だろう、あれからもう随分と時間がたったような気がする。五〇年、いや、六〇年……だけどおかしい。私が金木犀を嗅いだのはほんの数回程度。何故私の中の時間と外の時間はこんなにも違うのか。外の時間はあまりにも遅すぎるのだ。
また、金木犀の花が地面に落ちる。色褪せた彼岸花が、冷たい風に揺れる。私の髭の一本一本も風にそよいでいる。
「とらちゃん」
居間からやって来たお婆ちゃんが隣に座る。
「今日はお月見だねぇ」
私は掠れた高い声で返事をする。
「にゃあ」
約三年ぶりの更新です。
ドリーム・ダイバーのほうに載せようかと思いましたが、こちらのほうがしっくりきたので……