第二十三話:『手がかり』を握る教師
そういえば俺は一週間水だけで生活したことがある。それも『アカデミー』での訓練の一環だった。スパイならそれくらいの過酷な環境に耐えることができて当たり前らしい。
初めてその絶食の一週間を終えたあとに食った飯は味もくそもなかった。ただ胃になにかいれなければ死んでしまうという恐怖だけだった。たらふく食おうとしたら教官に殴られた。胃が弱ってんだからゆっくり食えってことらしいが、殴ることはねーじゃんな。
どうでもいいが目の前のカツ丼がうまそう過ぎて仕方ない。一睡もしてない上に朝飯抜いてるんだもんな。
「食いたいならさっさと食えよ。別に話はあとでいいから」
「いや、話が先だ。俺は遊んでいるわけじゃないんだ」
水樹が俺の目の前の席につく。学生部の食堂は他の食堂に比べてちょっと狭いような気がする。飯時だってのに俺たち以外に客はいないようだ。
「ここは普段からあまり人はいないんだよ。学期が始まったら少しは増えると思うけど」
人がいないのは好都合だ。と言っても人に秘す必要がある話なのかどうかはよくわからないが。
「しかし、いつか言ったことが実現できて嬉しいな」
「なにが?」
「初めて会ったとき、昼飯をおごらせてくれって言っただろ? これで貸し借りなしってことで頼む」
「何かを貸した覚えなんてないけどな。暇そうで何よりだ」
「実際に暇なら嬉しいんだけどな。実はちょっとやばいことになりそうだ。もしかしたら明日からの新学期は始まらないかもしれない」
「新学期って明日からだっけ?」
「そうだよ。忘れてたのか?」
忘れてた。俺が学園に来てもう四日目になるのか。期限が設定されているわけじゃないが、授業が始まって動きが制限されるようになるのは嫌だな。
「始まらないって、どういうことだ?」
「まだ言えない。だけどそうなったら転入早々蒼輔には申し訳ないことになるな」
「忙しいんなら手短に行こう。水樹、『A.G.P.』って単語に聞き覚えはないか?」
「『A.G.P.』? わからないな。なんだそれは」
「なにかの計画、もしくは実験だと思うんだが……。おそらくその計画には高木刃子も関わっている」
「刃子が? 俺にはわからん。……それでその『A.G.P.』ってのが失踪者の行方の手がかりになるってことなのか」
「おそらく、としか言えないがな。高木刃子のほかに教師がその『計画』に関わっているらしいんだが、高木と仲のいい教師について教えてくれないか?」
「刃子と親しい教師なんているはずないだろう。彼女は誰でも見下しているんだ」
目上の人間に対してもああなのかよ。
「でも水樹のことは例外だって言ってたけどな」
「俺のどこを気に入ったのか知らないけどな。また刃子に会いに行くか?」
「いや、今行ってもはぐらかされるだけだろう。なんせこっちには証拠がない。桜谷って教師の居場所はわかるか?」
「まだ授業が始まっていないから職員部だろう。だが、どうして桜谷先生に会いに行く」
「桜谷は青組の担任なんだろう? 高木と近しいといえなくもない」
「担任だっていうだけで疑うのは無理があると思うけど」
「今は手がかりが少なすぎるんだ。無理なことでもやってみなくちゃならない」
今のところ唯一の証拠らしいといえる見澤の日記を持っているのが、桜谷という教師だ。桜谷から日記を借り出すことができれば、まだしも高木と戦うための助けになるかもしれない。
だが、もし桜谷が高木と一緒に『計画』に関わっていたという『先生』だったなら、事態は難しいことになる。見澤の日記は握りつぶされることになるだろうし、俺に『A.G.P.』について教えてくれるはずもない。
勘弁してほしいな。今はとにかくやってみるしかない、か。
「蒼輔、お前自分の立場がわかっているのか?」
「なんだよ」
「お前には刃子から謹慎処分が申告されているはずだけど」
「ああ、そんなのあったかな」
「ったく、いいよ。そっちの方は俺が何とかしとくから、お前は自由にやってくれ」
職員部には一度やってきたな。あの時は転入の挨拶をするため、久万教員を訪れた。あの時は教員を積極的に疑ってかかる必要があったわけではないが、久万は生徒会の顧問教員だ。高木に近しい人間といえば、今のところこれから訪ねる桜谷か久万くらいしか思いつかない。久万は温厚な好々爺といった印象だったが、人間は見かけでは判断できない。
あの時久万はここで草木に水遣りをしていたが、今日はいないようだ。
建物に入る。案内板が出ているな。桜谷……五階か――うん、この部屋のようだな。
ノック。中からドアが開いて女性が顔を出した。
年のころは三十代前半。優雅に着こなした黒のスーツには皺一つない。髪はショートに軽やかにまとめ、しかし目の奥のやや切れ長の目は視線の対象を捉えて離さない。
「誰……へえ」
声に覚えがある。見澤の部屋で聞いた声だ。なるほど、どうやら確かにこの人が桜谷という教員のようだな。
蒼輔を捉えた桜谷の目元が一瞬にして笑顔に変わる。その瞬間厳しげな彼女の印象は一変し、まるであどけない少女の笑みのような暖かみを帯びる。
「吾川蒼輔か。よろしい。入りなさい」
ん、どうして俺の名前を知っているんだ?
というか讃神学園に来てから、自己紹介する前に名前を言い当てられることが多いような気がする。
「吾川。そこに座っていなさい」
なんというか、無機質な部屋だ。六畳を縦に二つ並べたくらいの部屋の四囲は本棚と収納棚に囲まれ、奥にある窓からかろうじて光が差し伸べられている。部屋の中にある本は全て本棚に収められ、例外は桜谷の使う机の上におかれた本だけのようだ。その机にしても上におかれているのはワープロと数冊の辞書類だけのようだ。正直、長居したいと思う部屋じゃない。
椅子といっても、ドアの横にパイプ椅子が二脚あるだけ。本棚の前じゃなんとなく落ち着かないな。
桜谷はワープロをいじっているようだ。……いや、もう切ったか。
「どうして俺の名前を知っているんですか?」
「名前だけでなく、貴方が見澤灯のことを探していることも知っている。そこじゃ遠いから、もう少し近くに来なさい。……よろしい。悪いけどこの部屋にはコーヒーなんかはない。必要なら場所を変える?」
「気にしなくていい。だが、どういうことですか?」
「わからない? よろしい。私は穂乃歌――住吉穂乃歌の相談によく乗っているんだ。その中で貴方の名前も何度か出てきた。だから知っていた」
「なるほど、なら話が早い。今日は見澤の日記について聞きに来たんです」
「何故日記のことを貴方が知っている?」
見澤の部屋に忍び込んだことはばれていないようだ。ならば嘘をつき続けるべきだろう。
「穂乃歌から聞いた」
「そうか、穂乃歌がしゃべったか。よろしい。なら今後の対応のことを聞きにきたのだろう。だが残念ながらあれだけで教師が動くことはできない」
「高木――副会長が何らかの実験を見澤に強要していたとしても?」
「あの日記の内容だけで、そう断定することはできない。それに教員が関わっているかもしれない以上、下手に動くわけにも行かない」
「つまり同僚だから庇うってことか?」
「そうじゃない。騒げばそれだけ大きな騒動になる。明確な証拠がなければ、大人たちはなかったことにする方向で動くだろう、ということ」
……だろうな。元々、教員たちに期待していたわけじゃない。
「桜谷先生、その日記を俺に貸してもらえないでしょうか」
「読みたいならここで読ませてあげるけど?」
「そうじゃなく、その日記を突きつけて高木を揺さぶってみたいと思うんだ。折角見つかった数少ない証拠を無駄にするわけには行かない」
「……そうだな。高木に日記の内容の確認を求めることは必要だろう」
「決して大きく騒ぎ立てるつもりはない。ただ一つでも手がかりがほしいんだ」
「吾川。その役目は私に任せてもらえないだろうか。私も高木と話すことは考えていた」
「先生を疑うわけじゃないが、高木刃子は一筋縄じゃいかない相手だ。少しでも弱味を見せたらやられる」
「ええ、それはわかっているつもりだ。私は高木の担任なのだから」
「……そうだろうけど」
「吾川、貴方は謹慎処分を受けたと聞いたけど?」
「その点については、水樹――生徒会長が何とかしてくれる」
「でも、高木は納得しないだろうな。少なくとも貴方とまともに話をするとは思えない」
……ち、桜谷の言うことはもっともだ。
「蒼輔、私も貴方と同じように、見澤灯のことは心配しているんだ。彼女のことはなんとしても見つけ出してあげたい。言ったでしょう。私は穂乃歌の相談に乗っているんだよ。穂乃歌のためにも、見澤を見つけ出したい。できるならこの手で」
なるほど、桜谷は見かけはぶっきらぼうな教師だが、中身は生徒思いの熱い先生のようだな。穂乃歌が信頼するのもうなずける。
「わかった。でもせめて、高木を詰問する場面には立ち合わせてもらえませんか」
「よろしい。そのくらいの権利は、貴方にはあると思う。では明日の放課後としましょう。高木をここに呼び出すから、貴方はここにいればいい」
「ありがとうございます。ああ、それから……」
ここに来たのは桜谷に『A.G.P.』について知っているかどうかでもあったんだが、今までの会話を見る限り、桜谷が『計画』の関係者である可能性はないだろうな。
「いや、なんでもない。明日はよろしくお願いします、桜谷先生」
「よろしい。でも蒼輔、明日のことはあまり期待はしないでもらいたい。貴方も知っているように、高木は手ごわい」
「わかっています。だから俺も、何か別の手がかりがないか探していこうと思います」