ロロと博士と食い物
「博士」とロロは隣に佇む眼鏡の少年に話しかける。視線は前方に固定されたままだ。「この子は、いま何を考えているんだろ?」
物怖じしない野良犬。敵意も感じない。
ドーム型と言えばいいのか、丘状と言えばいいのか、パンダの顔がペイントされたコンクリートの遊具。公園の隅に置いてあるその遊具の中で、ロロは野良犬を見つけた。
縫い目がほつれた安っぽい首輪。汚れた毛並みに、ひどく痩せ細った体。動きたくても、もう動けないのかも知れなかった。
「さあ、わからないな。ぼくは犬じゃないからね」
「だよね」
淡いクリーム色をした毛並みで、どこにでもいそうな雑種犬だった。ロロはじっと犬を見つめ、犬も彼を見つめ返す。
「ここ、寒くないの? 行くところないの? 日本語、わかる?」
「わからないだろうね」
「だよねぇー」と小首をかしげるロロ。
帰路でロロに捕まえられた博士は、律儀に彼と一緒にドームの中にいる。なにやら、みかんを奇抜な方法で食べていた。
「ぼくの言葉が通じない。犬の言葉をぼくは知らない。博士、ぼくは、これって怖いことだと思うんだ」
しゃがみ込んでいるロロと、野良犬の視線はほぼ同じだ。野良犬は、博士のみかんが気になるのか、チラチラと彼に視線を向けている。
「怖いってほどのことでもないんじゃないかな? こいつは、ぼくのみかんを狙っている。それはよく伝わってくる」
博士はみかんの皮の上に、食後の残骸である薄皮を並べていた。
「なにその変な食べ方……、もったいないよ」
「だが美味しそう、だろ?」
「全然」
と、ロロはみかんへの興味を瞬時に無くし、野良犬に向き直る。
「目を見れば、この犬は、『僕は僕だ』って言ってる。でも、話したりできない。だから、ぼくは動物が怖い」
「僕は僕……。意思を感じるってこと?」
「そう……なんだと思う。あとで辞書で調べてみる」
「なにを?」
「いし」
明確な意思を感じるのに、言葉や人間的な表現は通じない。かといって、彼らの言葉や表現を、こちらが知っているわけでもない。それをロロは怖いと言った。訓練などをすれば、ある程度のことは理解させ、こちらも理解できるのだろうが、野良であれば望むべくもない。
「なるほどね。なんとなく、わかる」
博士はみかんの残骸を、ビニール袋に収めながら頷いた。
「変なもの、食べちゃ駄目だよ。ね?」
言葉は通じないと了解しているロロ。それでも、彼は野良犬にそう話しかけ、すっくと立ち上がった。
「そろそろ帰ろう、博士」
「そうだね。トトが迎えに現れる前に、ぼくも帰りたいと思っていたんだ」
「そっか、トトに伝えておくよ」
「やめてください」
博士の眼鏡が心なしか曇った。
持ち合わせたみかんを全て置き、公園を出た二人は、しばらく進んだ通りで別れた。ロロとトトの家は、もうすぐ近くだ。
そして、独りになった博士は思い出す。一、二年前、ロロとトトはシマリスを飼っていたはずだ。シマリスの話を彼らからまるで聞かなくなったのは、いつからだっただろうか。
◆
冬の快晴。ロロと博士が出会った野良犬は、道端で死んでいた。
穏やかに優しく降り注ぐ陽光は、彼にとって既に意味を成さない。暖かな日差しも、不憫に思う視線も、地面の冷たさも、気味悪げに交わされる会話も、彼にとってはもう全てが遅い。
食べ物も、居場所も、体さえ失って、心は数日前に死んで、言葉の通じない、意思も届かない黒い鳥に食われていく。
茶色の髪と瞳を持つ少年が、ロロという名前だということも、彼には意味を持たない。生前、それを知ったところで、お腹は膨れなかった。
ロロは大きな瞳をじっと向け、カラスに食べられる彼を見つめている。規則正しく吐かれる白い息。乱れなく、落ち着いていた。横には複雑な表情をした眼鏡の少年。長く、溜息に似た呼吸を繰り返していた。
「死ぬと食べられる。カラスはそれで生きる。博士、リスも埋めないで、カラスにあげれば良かったのかな?」
「それはなんとも言えないね。土の中にだって、生きてる何かがいて、きっと少しは捕食したんじゃないかな。というか、あのシマリス、死んじゃったのか……」
「間違ってサッソザイを食べて死んじゃった」
あぁ、と漏れ出た博士の溜息のあと、二人の間に言葉は消えた。黒い鳥が羽ばたくまで、音も色も消えてしまったような歩道に、小さな少年と、少し大きな少年は、ただ黙って立っていた。
彼も、ただ黙って食われ、生命の残り香を失い続けた。
◆
「ロロ、平気?」
「うん……。生き物は必ず死ぬんだってわかって、死んだら食べられて、食べたほうは生きるんだってわかった。だから、大丈夫」
でも、と続けて、ロロはうつむいた。
「悔しい悲しいって思うのは、わかったこととは、違うんだね」
「そうだね。理解と感情は別口なんだと思う」
「博士。死んでしまったら、心はどうなるの? あの犬には “いし” があったよ」
ロロは博士と歩きながら、死んだ犬の心を想った。そして、それはそのまま、自分が死んだときの心の行き場所を想うことだった。
「なにそれ、難しい」
「だよねぇ」
博士は言葉通り難しい顔をして、ロロはくすっと笑う。二人が踏みしめる雪がぎゅっとなった。
「死んだら、煙か土か食い物になるって、前に読んだ本に書いてあったんだけど、心もそうなのかも知れない」
博士の言葉は、ロロには難解に聞こえた。メモ帳を取り出して、けむりかつちかくいもの、と書いている。
「なんていう本?」
「煙か土か食い物」
そう、と頷き、著者名も尋ねて書き足すロロ。
「あの野良犬の心は、たぶん僕とロロが食べた。僕らの食い物になった」
「なにそれ、難しい」
「真似しないでよ」
博士はふにゃっと笑った。ロロもつられて笑った。
「みかん、食べる?」
「うん、食べる。でも、あの変な食べ方はしないよ」
ロロの牽制に、博士は少し苦笑する。彼はカバンからみかんを二つ取り出して、ロロに一つ手渡した。
「教えてあげようと思ったのに……。まあいいか」
それじゃあ――、
「いただきます」
と、二人は声を揃えた。
2017/10/06 段組を修正。誤字脱字、表記揺れを修正。