7 文字ってお腹膨れないし
朝、リリアが目を覚ました時、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
全身を包み込む柔らかな感触。身体を預ければ、どこまでも沈み込んでいくような錯覚に陥る。
薄く目を開けば、視界を覆うのは豪奢な天蓋と、微風に揺れる薄絹のカーテン。窓から差し込む朝日は、スラムの埃っぽく濁った光とは違う、透き通るような輝きを放っていた。
「……あ」
昨夜の記憶がゆっくり蘇る。 皇帝。騎士。風呂。飯。意味のわからないほど柔らかい寝台。
そして――聖女。
リリアはもぞりと身を起こした。寝返りを打ってもなお余るほど広い空間に、落ち着かない居心地の悪さを感じる。
「……すご」
ぽつりと漏れた声は、半分感心で、半分警戒だった。
こんな場所、自分には不釣り合いだ。 それなのに、昨夜はいつの間にか眠ってしまっていた。
スラムではあり得ないことだ。眠っている間に荷物を盗まれることも、見知らぬ男に身体を触られることもない夜なんて。
リリアは無意識に、自分の腕を抱いた。
――静かだ。
誰も怒鳴らない。誰も酒臭い息を吐きながら、暴力的に扉を蹴破ってこない。
その静けさが、逆に彼女の背筋を凍らせた。
コンコン、と控えめなノックが響く。
「リリア様、朝食のご用意が整っております」
侍女の声だった。
リリアは一瞬だけ身構えたが、すぐに昨夜のやり取りを思い出す。ここの侍女たちは、勝手に触れてはこない。
「……入っていいよ」
扉が開き、侍女たちが静かに入室する。 やはり誰も距離を詰めない。
そのことに少しだけ安心しながら、リリアは寝台から降りた。
朝食を終えた頃、部屋へやって来たイーサンは、今日も一点の乱れもない完璧な姿だった。
銀縁の眼鏡の奥、感情を押し殺した視線がリリアを捉える。
「体調はいかがですか」
「んー……普通」
「それは何よりです」
感情の起伏に乏しい声音。 だが昨夜より、幾分柔らかい。
イーサンは手にしていた書類を閉じた。
「本日は、城内の案内も兼ねて書庫へ向かいます」
「しょこ?」
「書物を保管している場所です」
リリアの顔があからさまに曇った。
「あー……勉強系?」
「ええ」
「えぇ……」
心底嫌そうな声だった。
イーサンは小さく息を吐く。 だが、以前のように叱責はしなかった。
「最低限の知識は必要です。特に、聖女として公の場へ出る以上、一般常識は身につけていただかねば困ります」
「もう働くんだ……」
ぼそりと零れた言葉に、イーサンの指先がわずかに止まった。
働く。
リリアにとって、“聖女”とはそういう認識なのだ。
高潔な使命でも救済でもない。
ただ 生きるための、衣食住と引き換えの労働。
イーサンは視線を伏せる。
「……急がせるつもりはありません」
「でもやるんでしょ?」
「必要ですから」
リリアは面倒そうに頬を掻いた。
「ふーん……まあ、ご飯出るなら頑張る」
あまりにも俗っぽい返答だった。
だがイーサンは、なぜか少しだけ安堵してしまった。 少なくとも今の彼女は、“生きること”を諦めてはいない。
「では、参りましょう」
城の廊下を歩きながら、リリアは終始きょろきょろしていた。
赤い絨毯。 巨大な窓。 壁に飾られた絵画。 磨き上げられた甲冑。
「あれ絶対高い……。売ったらいくらになるんだろ」
思わず漏れた呟きに、イーサンが視線だけ向ける。
「壊さないでくださいね。売ることも許可しません」
「壊したら弁償?」
「場合によります。命で支払うことになるかも知れませんね」
「怖……」
リリアは途端に壁際へ寄った。
そんな様子を見て、イーサンはほんのわずかに口元を緩める。
以前の彼女なら、美術品や歴史画に興味を示していただろう。 描かれている人物は誰か、どういう歴史があるのか、きっと目を輝かせて尋ねてきた。
だが今のリリアは違う。
価値基準のすべてが、“生き延びる”ことへ塗り替わっている。
やがて、大きな両開きの扉の前でイーサンは足を止めた。
「こちらです」
扉が開いた瞬間、リリアは息を呑んだ。
「……うわ」
天井まで届くほどの巨大な本棚。 びっしりと並ぶ無数の本。 紙とインクの匂い。 静寂。
「……これ、全部、本?燃えちゃったらすごいことになりそう……」
「何冊あるか正確には把握しておりませんが、焚き火にするにはあまりに高価ですよ」
リリアはぽかんと口を開けたまま、辺りを見回す。
本など、スラムではほとんど見かけなかった。 あったとしても、薄汚れて破れていて、意味を成していないものばかりだった。
イーサンは一冊の本を手に取る。
「まずは簡単な歴史と地理から――」
「えぇー……」
早速嫌そうな顔をするリリアに、イーサンは淡々と言葉を続けた。
「知識は貴方を守る武器になります」
「別にいらなくない?」
リリアは不思議そうに、本当に理解できないという顔で首を傾げた。
「……何故そう思うのです」
「だって、文字ってお腹膨れないし」
その言葉に、イーサンの呼吸がわずかに止まった。
――違う。
かつてのリリアは、違った。
ひたすら本を読んでいた。 できることはないかと、少しでも知識を得ようと、血眼になっていた。
聖女として人を救うため、 文字を、知識を、世界を知ろうとしていた。
なのに今の彼女は、それを「不要」と切り捨てる。
生きることに直結しない、贅沢品だと。
イーサンは静かに本を閉じた。
乾いた音が、静寂に満ちた書庫に寂しく響く。
「……今日は、案内だけにしておきましょう。長時間の学習は、今のあなたには非効率です」
「え、いいの? 案外優しいじゃん」
意外そうに目を丸くするリリアへ、イーサンは薄く、どこか悲しげな微笑を向けた。
「ふーん……?」
納得したような、していないような顔で立ち去る彼女の背中を見送りながら、イーサンは指先で古びた本の背表紙をなぞった。
幼い頃。 この書庫の本を、寝る間も惜しんで読み続けた金髪の皇子を思い出していた。
『イーサンは、賢いね』
あの日、自分に向けられた、あの眩しい琥珀色の瞳を。
守りたかった。あの少年の理想を。そして、共に歩んだ彼女の純粋さを。




