【愚帝の息子 後編】
皇妃は皇帝への度重なる苦言が罪となり、処刑されたと、ニヤけた顔の臣下が報告してくれた。
ジークヴァルトは、真っ直ぐに向き合おうとした母の気高さを想い、静かに死後の平穏を祈った。
ジークヴァルドが十二歳になろうとしていた頃、侍従のイーサンと共に城下へと抜け出した。
腐敗しきった城の警護を潜り抜けるのは、拍子抜けするほど容易かった。
向かったのは、王都の外れ。父帝が「ゴミの掃き溜め」と呼んでいた場所。
スラムに足を踏み入れたジークヴァルドは、言葉を失った。
路上に散乱する汚物。生きているか死んでいるかもわからぬ人影。
そして、あの日嗅いだ箱の中身と同じ、濃厚な死臭。
「ひどい……においです……」
イーサンが真っ青な顔で嘔気を堪えていた。
どう見ても身なりの良い2人だったが、スラムの人々は視線を寄越すだけで、襲いかかって来ることもない。
もう、そんな力すらないのだ。
「あんな皇帝の享楽のために……、民が、これほどまでに……」
ジークヴァルドは、折れそうなほど強く拳を握りしめた。
スラムの奥に進むほど、荒廃していく町並み。
そして、ゴミが山積みになっているそこに、くすんだ赤色が見えた。
それは、1人の少年の髪だった。
名をゲルハルトと言った。
まだ少年だったが、その瞳は飢えた獣のようにぎらついていた。
復讐と野心だけを燃料に生き延びてきた眼だった。
ジークヴァルドは笑顔で手を差し伸べる。
「この帝国を壊さないか?」
ゲルハルトを騎士団へ潜り込ませたが、代償としてジークヴァルドの身に危険が迫り始めた。
放たれる毒矢、暗がりの刃。
限界が近いと感じていた折、反皇帝派の筆頭・ヴァルテンベルク公爵家から申し出が届いた。
「我が公爵家の息子を、専属護衛騎士に」
イーサン、ゲルハルトと共に向かった顔合わせの席に現れたカイルという少年は、驚くほどの無表情だった。
だが、口を開けば「命令とあらば、愚帝を討ちますが」と平然と言ってのける。
息子のとんでもない発言にも動じる様子もないヴァルテンベルク家当主を見て、傀儡にされる懸念はあったが、ジークヴァルドは彼を専属護衛に任じた。
成し遂げるべきことのために。
そして16の誕生日を幾日か過ぎたある夜。
ジークヴァルドは、皇帝の私室にいた。
酒に酔い顔を赤くした父は、息子の侵入に驚くことすらなかった。
傍らの女の乳房を掴み、酒を煽って下卑た笑いを上げる。
「皇帝はいいぞお……。何もかもが思いのままだ!」
その瞬間――。
ジークヴァルドは皇帝へと飛びかかり、背に隠していた短刀をその喉元へ突き立てた。
吹き上がる血飛沫。
劈くような女達の悲鳴。
それらを次々に切り裂き、刃を突き立てていく。
扉の外は、ゲルハルトとカイルが始末した筈だ。
返り血で真っ赤に染まった顔を、袖でぐい、と拭うと、背後から声がした。イーサンだ。
「首を」
イーサンもまた、手にした短刀で今まさに女の息の根を止めたところだった。
「首を取られませ」
イーサンの目に、涙が滲んでいた。
日が昇り、再び帝国に地獄の日々が訪れると、誰もが思っていた。
だがその日は違った。
皇城に煙が上がっていた。
ジークヴァルド達があげた狼煙だった。
人々は何事かと広場に集まりはじめる。
ジークヴァルドは広場を見下ろせるテラスに出ると、右手を上げて叫んだ。
「帝国は今日より、私が統べる!」
挙げた右手からボタボタと落ちる赤色が、ジークヴァルドの足元に水溜りを作っていく。
「民よ!……嘆くな!憂うな!私が誓おう!」
「ゼラザード帝国を、良き帝国にすると!」
歓声が上がった。新しい、若き皇帝の誕生に。
そして、彼が掲げた、醜悪な先帝の生首に向かって。
「お前の淹れる紅茶は美味いね」
ほう、と溜息をついたジークヴァルドを見て、イーサンが難しい顔をして腹部をさする。
「慢性的な胃痛ってのも可哀想なもんだなあ」
ゲルハルトがからかうように笑い、イーサンの背を叩く。
ジークヴァルドは背後に立つ近衛騎士団長に投げかける。
「平和だな。そう思うだろう?」
問われたカイルは、ちらりと皇帝を見やり、短く応えた。
「陛下が治める治世なら当然かと」
ジークヴァルドは少し目を丸くし、それから少し照れくさそうに笑った。
「お前たちがいてくれる限り、私は善い皇帝でいられる気がするよ」
イーサンは少しだけ目を細めて、ふっと笑う。
「それなら、休んでいてはいけませんね」
血に塗れた玉座を奪い取り。 数えきれない罪の上に築いた、束の間の平穏。
この時の彼らは、まだ知らなかった。
自分たちがやがて、一人の少女を救えず。
そして―― もう一度、その人生を利用することになる未来を。




