6 (共犯者)
リリアが去った後の部屋は、逃げ場のない重苦しい沈黙に支配されていた。
先ほどまで贅を尽くした料理が並んでいたテーブルの上は、今はただ無残に食い散らかされている。皿の端に寄せられた食べカス、零れたソース。
それは、かつて彼女に教えた優雅な所作を完全に上書きしてしまった、凄惨な生存の跡だった。
誰も動けなかった。
誰も、言葉を紡ぐことさえ許されないような空気がそこにはあった。
どれほど時間が過ぎただろうか。不意に、ゲルハルトが椅子を荒々しく引き、どかっと腰を下ろした。
彼は皿の上に残った肉を剥き出しの手で掴み、獣のように齧り付いた。
「……客、だとよ」
咀嚼の合間に、呪詛のように吐き捨てる。
ゲルハルトは、行き場のない怒りと後悔を胃の腑へ無理やり流し込むように、肉を喰らい続けた。
彼の脳裏には、先ほどのリリアの姿が焼き付いて離れない。
毒の有無を疑い、周囲を警戒しながら、いつ取り上げられるかも分からない不安に急かされるように食べ進める。それは紛れもない、スラムの底這う人間の姿だった。
そして、自分たちを「客」と呼び、対価を求めるその眼差しは、身体を切り売りして生きてきたスラム女のそれだった。
ジークヴァルドは、テーブルの上で組み合わされた指先に、白くなるほど力を込めた。
「一年という歳月は……これほどまで、残酷なものだったんだな」
スラムという場所の過酷さなど、言葉では理解していたつもりだった。
だが、実際にそこへ突き落とされた彼女が、たった一年で、ここまで壊れた。その現実を前にして、自分たちの認識がいかに傲慢で、甘かったかを思い知らされる。
そろりと、イーサンが事務的な手つきで皿を整え始めた。
「……食事量の調整が必要ですね。飢餓状態が長すぎた。それに、食事マナーについても、一から再教育が必要でしょう」
あまりに淡々と、実務として語る彼に、ジークヴァルドは乾いた笑いをもらした。
「はは……。イーサン、詰め込み過ぎるなよ。今の彼女に『マナー』という名の圧をかけすぎれば、また逃げ場を探してしまう」
「無論です」
きっぱりと言い切ったイーサンの瞳には、冷徹な事務処理の裏に、決意が宿っていた。
ジークヴァルドは一息つき、視線を上げた。
「今発生している瘴気は複数。浄化を急がねばならない。だが、リリアにはまだ……この生活に慣れさせ、教えていかねばならないことが多すぎる。それまでは、セラフィーナになんとか繋いでもらわなければならない」
その名が出た瞬間、カイルが鋭い声を差し込んだ。
「アレには、もう無理だ」
ジークヴァルドは悲しげな苦笑を浮かべ、手でカイルの言葉を制した。
「無理でも、やってもらわねばならないんだ」
ジークヴァルドの琥珀色の瞳に、情を排した「皇帝」としての冷徹な光が宿る。
「セラフィーナは、まだ“聖女”だ。……帝国が崩れるのを、瘴気は待ってはくれないのだからね」
その声音に、情も慈悲もなかった。
ゲルハルトが、手近なワインを喉へ流し込み、鼻で笑った。
「出たよ。これだ、残酷な皇帝様。結局また使い潰すんだな」
おどけた口調の裏に、隠しようのない侮蔑が混じる。
皇帝は眉を下げ、疲れたように背もたれに身を預けた。
「……そうはしたくないのだがね」
ゲルハルトは鼻を鳴らし、カイルは黙り込む。
誰も、それ以上は何も言えなかった。
この男もまた、理想だけでは帝国を守れないことを知っている。
そして――
誰よりも、“愚かな王”を嫌悪していることも。
「瘴気の進行は、既に北部で限界が近いとのことです」
イーサンが空気を変えるように、現実の数値を並べ立てる。
「今月中に最低でも二箇所。できれば三箇所の浄化を完遂せねば、北の防衛線が沈みます」
「だから、また聖女様に働いてもらう、か」
ゲルハルトが吐き捨てる。
ジークヴァルドは、自分に言い聞かせるように、小さく囁いた。
「……そうだ」
それを否定できる者は、この部屋には一人もいなかった。彼女を連れ戻した自分たちもまた、その「地獄」の共犯者なのだから。
重苦しい沈黙を、カイルの低く迷いのない声が裂いた。
「俺が護衛につく。……リルの浄化には、俺が必ず同行する」
ゲルハルトが眉をひそめ、カイルを睨みつけた。
「……近衛騎士団長自らが、か? 陛下の傍を離れて?」
「ああ」
カイルは即答した。揺るぎない意志がその瞳にはあった。
「瘴気地帯は、以前よりも危険度が増している。護衛は必要不可欠だ。それに――」
そこで、言葉が詰まった。
『もう二度と、一人で行かせたくない。もう二度と、あんな目には遭わせない』
喉元までせり上がった醜い本音を、カイルは奥歯で強く噛み潰した。
「……聖女の安全確保は、帝国の最優先事項だ」
あまりに硬く、言い訳じみた声音に、ゲルハルトが鼻で笑う。
「安全確保、ねぇ」
その皮肉に、カイルは反論しなかった。
ただ静かに、かつてミサンガが結ばれていた、今は何も結ばれていない手首を指先で撫でた。




