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5 いい職場

重厚な扉の向こうには、白い蒸気がゆったりと満ちていた。

磨き上げられた大理石の床。壁際に整然と並ぶ香油や柔らかな布。そして中央には、なみなみと湯気を立てる巨大な浴槽。

リリアは足を踏み入れた瞬間に動きを止め、目を瞬かせた。


「……うわ」

思わず漏れた声は、子どものように素直だった。


ここまで大量の湯を、ただ個人のためだけに、それも一度きりのために使う光景など見たことがない。


スラムにおいて、水は命を繋ぐ貴重品だった。汚れた桶の水を数人で分け合い、冷たい水で身体を流せればまだマシな方。

だから、目の前の光景は、彼女にとってまるで御伽噺の中の別世界だった。


「お召し物をお預かりいたします」

侍女の声に、リリアの肩がぴくりと揺れる。

数人の侍女たちが、一定の距離を保ちながら静かに控えていた。


リリアは彼女たちをじっと観察する。

距離。手の位置。視線。逃げ道。

数秒かけて、自分に危害が及ばないことを「確認」し、ようやく小さく口を開いた。


「……触る?」

「必要であれば、お手伝いいたします」

即答だった。


だが、その侍女は一歩も距離を詰めてこない。

リリアはしばらく考え込み、それから短く首を横に振った。

「服は自分で脱ぐ。髪も、自分でやる」

「承知いたしました」


拒絶に慣れているのか、あるいはそう教育されているのか。侍女たちは動じることなく、さらに一歩下がって頭を垂れる。

それを見て、リリアはほんのわずかに眉を上げた。


(楽だ……)


押さえつけられない。急かされない。こちらの拒絶で機嫌を損ねる様子もない。

それだけで、リリアにとっては、ここが随分と“まともな環境”に思えた。


リリアは慎重に、綻びた服を脱ぎ始める。


露わになったその白い肌には、目を背けたくなるような古い痣や傷痕が、幾重にも刻み込まれていた。


紫色に変色した跡。

誰かの爪で執拗に裂かれた痕。

薄く白く残った、幾多の古傷。


侍女たちは、その痛ましい身体を目の当たりにしても、悲鳴を上げることはなかった。ただ、彼女たちの視線が、耐えがたい悲しみに沈んでいく。


リリアはその空気に気づきながらも、特に隠そうとはしなかった。

隠したところで、身体が商品である生活をしていれば、いずれ見られるもの。そういう諦めが、既に彼女の魂には深く根を張っていた。


湯へ指先を沈める。

「あっつ……」

びくりと肩を震わせながらも、ゆっくりと、恐る恐る足を入れる。

熱が、芯まで冷え切っていた身体をじわりと包み込んでいく。


「……すご」

ぽつりと呟きが漏れた。

温かい。ただ、それだけのことが、妙に信じがたかった。


胸の奥にこびりついていた冷えが、少しずつ溶けていく。生きるために常に張り詰めていた筋肉が、緩慢にほどけていく。

リリアは浴槽の縁に頭を預け、長く、深い息を吐いた。

「聖女って、すごい仕事なんだ……」

その呟きに、侍女たちは答えない。ただ静かに、溢れる涙を堪えていた。


リリアはぼんやりと天井を見上げたまま、指先で湯を掻いた。


温かい食事。清潔な湯浴み。柔らかい寝台。


ここまで至れり尽くせりな仕事など、彼女の知る泥濘のような世界には存在しない。


だからこそ、理解できる。


(その分、求められるってことよね)

どれほど過酷な作業なのか。身体のどこまでを、どんな風に便利に使われるのか。

想像はつかない。だが、それでも。


少なくとも、ここでは殴られない、と思う。飢えなくて済む。寒さに震えなくていい。


彼女にとっては、それだけで「契約」を結ぶには十分すぎる条件だった。


湯から上がると、侍女たちは無言で、手触りの良いタオルを差し出した。

やはり誰も、強引に触れようとはしない。


リリアは濡れた髪を雑に拭きながら、不思議そうに彼女たちを見つめた。

「……あんたたち、変わってるね」

「何がでしょうか」

「普通、もっと勝手に触ってくるから」


その言葉に、侍女たちの空気が一瞬だけ凍りついた。

だが、リリアは気づかない。

彼女にとっては、理不尽に触られ、扱われることが「普通」の基準だったからだ。


用意された寝室へ案内されると、リリアは再び目を丸くした。

大きすぎる寝台。厚い絨毯。暖炉の炎。窓辺に揺れる薄絹のカーテン。

「……うわぁ」

素直な感嘆が漏れる。


恐る恐るベッドへ腰掛けると、羽根のような柔らかさに身体が深く沈み込んだ。

「なにこれ、やば……」

思わず、乾いた笑いがこぼれる。


柔らかい。温かい。信じられないくらい、心地いい。

リリアはそのまま、ぽすりと後ろへ倒れ込んだ。

シーツからは、日に干したような清潔な匂いがする。


ぼんやりと天井を見つめながら、リリアは小さく呟いた。

「……いい職場かも」


――前より、ずっとマシ。


その「マシ」という基準そのものが、既に修復不可能なほどに壊れていることに、彼女自身はまだ気づいていなかった。

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