第60話 大橋開通と最初のテストラン
ステュクス大河の激しくうねる濁流の音が、今朝はどこか遠く、穏やかなものに感じられた。
魔界の物流を根底から変革する巨大な吊り橋。数ヶ月に及んだ過酷な架橋工事が、ついに昨日、すべてのジョイントの接続と安全確認をもって完了したからだ。
朝靄を切り裂くようにして対岸へと伸びるその威容は、冷たい朝の光を受けて鈍い鋼の輝きを放っている。
仮設ベースキャンプのテントから出たグンツは、張り詰めていた空気がわずかに緩んだのを感じながら、深く、長く息を吸い込んだ。
「わふっ!」
「きゅ〜んっ!」
テントの裏手から、弾むような足音と共に二つの大きな毛玉が飛び出してきた。
ブランとノワールだ。
グンツが膝をつき、両手を広げて待ち構えると、二匹は猛烈な勢いで彼の胸に飛び込んできた。
ずしり、とした確かな重みと、毛皮越しに伝わる強烈な体温。ここ数週間で骨格が一段と太くなり、彼らはもはや片手で容易く抱えられる重さではなくなっていた。
ブランはフカフカの白い頭をグンツの首筋にぐりぐりと押し付け、短い尻尾をちぎれんばかりに振っている。ノワールはグンツの腕の中に鼻先を強引に突っ込み、もっと撫でてほしいと前足でグンツの膝をカリカリと掻いた。
「おはよう。二人とも、ずっといい子にしてたか」
激務が続く現場では、なかなかゆっくりと相手をしてやる時間がとれなかった。グンツは彼らの温かい体温を胸に感じながら、その顎の下から耳の後ろにかけて、力強く、かつ丁寧に指を滑らせていく。
的確な手つきで撫でられるのがたまらなく心地よいのか、ブランは目を細めてうっとりとした表情を浮かべ、完全に全身の力を抜いてグンツの腕に寄りかかった。ノワールは喉の奥で「ぐるる……」と満足げな音を鳴らしながら、グンツの手のひらに何度もすり寄ってくる。
冷え切っていたグンツの指先に、彼らの柔らかな毛並みと命の熱がじんわりと伝わり、徹夜明けの脳に蓄積していた疲労が静かに溶けていくようだった。
少しだけ時間をかけて二匹の背中を撫でてやると、彼らは心底嬉しそうにグンツの頬をペロペロと舐め、ようやく満足したようにお座りをした。
朝靄が完全に晴れる頃、橋のたもとには魔王軍の各部門の責任者たちが集結していた。
リーゼロッテ、ゼノビア、セリア、ステラ、ヴィオラ、そしてクロエ。
彼女たちの視線の先には、物流部門のレイラが持ち込んだ巨大な魔導輸送トラックが、重低音を響かせて待機している。
車輪の直径だけでも優に三メートルを超え、分厚い装甲に覆われた車体はそれ自体が小さな要塞のようだ。後方の荷台には、テストラン用の重りとして、数百トンもの魔導コンクリートのブロックが満載されている。
「積載量は規定の最大値。タイヤの魔力圧、サスペンションの可動域、すべて正常値です」
リーゼロッテが手元のバインダーに目を落とし、淀みない声で報告する。
グンツは右目の《構造解析》を起動し、トラックの総重量と橋の耐久値、そして現在大河を吹き抜けている風の抵抗を瞬時に計算した。
「レイラ、準備はいいか」
通信用のインカム越しに、静かに問いかける。
『いつでもいける。最高に重い荷物だけど、アタシのアクセルワークならミリ単位で重心を制御してみせるよ』
運転席のレイラは、分厚い手袋越しにハンドルをしっかりと握りしめ、不敵な笑みを浮かべていた。
「頼む。最初の走行だ、慎重に進めてくれ」
グンツの短い合図と共に、レイラがペダルを踏み込んだ。
空気を震わせる凄まじい排気音と共に、巨大な輸送トラックがゆっくりと動き出した。
数百トンという圧倒的な質量が、真新しい魔導コンクリートと鋼鉄で編み上げられた橋の入り口に差し掛かる。
グンツの視界の中で、トラックの極太のタイヤが接地している部分から、赤い応力の波形が橋桁全体へと波紋のように広がっていくのが見えた。
ズンッ、と橋の入り口がわずかに沈み込む。
しかし、上空に張られた極太のメインケーブルと、そこから等間隔に垂れ下がる無数のハンガーロープが、即座にその強大な重量を分散させた。川底の岩盤に打ち込まれたテトラポッドの基礎群が、激流の振動を完全に殺しているため、巨大な橋脚は微動だにしない。
トラックが徐々に速度を上げ、橋の中央部へと向かっていく。
ステュクス大河を吹き抜ける特有の強風がトラックの側面を激しく叩くが、レイラは絶妙なステアリング操作で風の抵抗を逃がし、寸分の狂いもなく直進を維持し続けていた。
「……素晴らしいですわ。事前の計算式と、実際の応力分散のデータが完全に一致していますわ」
セリアが手元の観測機器を見つめながら、感嘆の声を漏らした。
グンツも無言で頷く。このまま対岸に到達すれば、魔界全土の血液となる巨大な物流ルートが正式に開通する。誰もがその歴史的瞬間に立ち会おうと息を呑んだ。
だが、トラックが橋のちょうど中央に差し掛かったその時だった。
グンツの《構造解析》が、下流の岩陰から急激に膨れ上がる、不自然で異常な魔力反応を捉えた。
「下方、距離三百! 高密度の魔力収束!」
グンツが鋭く叫ぶ。
ゼノビアが即座に反応し、前に出た。
「迎撃します!」
しかし、相手の魔法の発動の方が一瞬早かった。
岩陰から放たれたのは、極限まで圧縮された灼熱の火炎弾だった。それは放物線を描くことなく、恐ろしい速度の直線的な軌道でトラックの真下、橋桁を支える最も重要なジョイント部分へと向かって飛翔した。
ガルシア商会の残党か、あるいは魔界の発展を阻もうとする人間界の工作部隊か。
いずれにせよ、彼らの狙いは明確だった。開通の瞬間に橋の中央をへし折り、トラックごと大河に沈めることで、魔王軍の威信と物流計画を完全に粉砕すること。
距離と速度から計算して、迎撃の魔法は間に合わない。
「レイラ、そのまま抜けろ!」
グンツの叫びとほぼ同時に、火炎弾が橋桁の真裏に直撃した。
凄まじい爆発音がステュクス大河の谷間に木霊し、巨大な火球が橋の中央部を完全に包み込んだ。
「レイラさん!」
ヴィオラが悲鳴を上げる。
だが、爆発の閃光と分厚い黒煙が強風によって晴れた後、そこにあったのは、無傷で走行を続ける巨大トラックと、何事もなかったかのように対岸へと繋がっている橋の姿だった。
「……馬鹿な。あれほどの直撃を受けて、なぜ橋が落ちない……!?」
岩陰に潜んでいた残党の魔法使いが、信じられないものを見るように声を震わせた。
グンツは鋭い視線をその岩陰へ向けたまま、冷静に状況を口にした。
「硬いだけの構造物は、許容値を超える衝撃を受ければ折れる。だが、この橋は違う」
グンツの《構造解析》の視界には、爆発の瞬間に起きた力学的な奇跡のプロセスが、青と赤の光の帯となってはっきりと映し出されていた。
火炎弾の物理的な衝撃波が直撃した瞬間。橋桁はそれを受け止めて耐えるのではなく、風にそよぐ柳のように、大きく波打って「しなった」のだ。
衝撃の恐るべきエネルギーは、橋を破壊する力としてではなく、橋全体を揺らす運動エネルギーへと変換された。
そして、その揺れを瞬時に抑え込んだのが、セリアが開発した形状記憶合金を用いたジョイントと、ステラが手配した無数に張り巡らされた特殊ワイヤーだった。
限界まで引き伸ばされた合金のジョイントが、爆発の熱を感知して本来の形状を記憶し、強力な反発力をもって橋桁を瞬時に元の位置へと引き戻す。同時に生じた複雑な振動は、メインケーブルのしなりを伝わって両岸の巨大なアンカーブロックと、川底のテトラポッド群へと逃がされ、大地の途方もない質量によって完全に相殺されたのだ。
剛性で耐えるのではなく、柔軟性で力を逃がす。それこそが、この大橋の設計思想であった。
トラックの運転席で、レイラがニヤリと笑う。
爆発の衝撃で車体は下から大きく突き上げられたはずだが、彼女の常人離れした動体視力とハンドリング技術が、タイヤの接地圧の抜けを完璧にコントロールし、アクセルを緩めることなく悪路を走破するように走り抜けたのだ。
「目標、対岸に到達。テストラン、完了しました」
リーゼロッテの静かな、しかし確かな声が響く。
橋の無事を確認したゼノビアは、すでに動いていた。彼女は竜の強靭な脚力で岸辺の岩盤を蹴り、一瞬にして下流の岩陰へと跳躍した。
短い悲鳴と鈍い打撃音が響き、数秒後には、ゼノビアが完全に気を失った数名の残党たちを引きずって姿を現した。
「警備の不手際、申し訳ありません。速やかに尋問にかけます」
「助かる。誰も怪我がなくて何よりだ」
グンツは短く労い、再び橋へと視線を戻した。
朝の光を浴びて輝く巨大な吊り橋。その上を、対岸で反転したレイラのトラックが、誇らしげに警笛を鳴らしながら戻ってくる。
足元では、ブランとノワールがその大きな音に驚くこともなく、グンツの安全靴にすり寄りながら、ちぎれんばかりに尻尾を振ってトラックを出迎えていた。
【発売のお知らせ】
いつも本作をお読みいただき、ありがとうございます。
作者の別連載作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されました!
Web版をもとに加筆・修正を行い、書き下ろしなども収録しています。
本作とは別の作品になりますが、ご興味がありましたらぜひチェックしていただけると嬉しいです。
『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿』第1巻、発売中です!
詳しい書籍情報は活動報告をご覧ください。




