第46話 重心
光の一切届かない暗黒のダストシュートの中を、凄まじい風切り音と共に落下していく。
背中を作業着の分厚い生地越しに擦る恐ろしい摩擦熱と、内臓が喉元までせり上がるような強烈な浮遊感。グンツは奥歯が砕けそうなほど強く歯を食いしばり、両腕に抱え込んだ二つの小さな命を、自らの胸に押し付けるようにして必死に庇っていた。
「くぅぅ……っ」
「きゅ〜ん……」
ブランとノワールは、未知の落下と完全な暗闇の恐怖にすくみ上がり、グンツの作業用ベストの生地を小さな爪でガッチリと掴んでブルブルと震えていた。その早鐘のように打つ激しい心音と、鼻先から漏れる熱い息遣いが、グンツの胸元に直接伝わってくる。
視覚が完全に奪われた空間では、落下速度がどれほどに達しているのかすら正確には測れない。ただ、耳をつんざく風の咆哮と、チューブの壁面を滑り落ちる際の暴力的な振動だけが、彼らが凄まじい速度で地底へと向かっていることを証明していた。
(……このまま落ち続ければ、衝撃で骨ごとミンチになる)
グンツは呼吸を薄く保ち、自らの足元に魔力を極限まで集中させた。
ダストシュートの壁面に仕込んでおいた、何重もの魔力クッションと減速スロープのトリガーを、自身の落下座標に合わせて次々と起動させていく。
ドンッ、ドンッ、と不可視のトランポリンにぶつかるような衝撃が下半身を打ち据え、その度に内臓が押し潰されるような強烈な重力加速度がグンツの全身の血管を軋ませた。
彼は腕の中の二匹がその衝撃で潰れないよう、自身の上半身の筋肉を鋼鉄のように硬直させてショックアブソーバーの役割を果たす。眼球に血が上り、視界が真っ赤に染まった直後。
ダストシュートの終着点である硬い岩盤の床へと、着地のエネルギーを極限まで殺しながら、グンツはついに滑り降りた。
★★★★★★★★★★★
ズザァァァァッ!
摩擦で靴底から白い煙を上げながら、グンツは最下層のフロアに降り立った。
土煙が晴れた薄暗い空間の奥で、壁に背を預けて荒い息を吐く女性たちの姿があった。
ゼノビアが破れたスーツの肩を痛ましげに押さえ、リーゼロッテがヒビの入った眼鏡のブリッジを歪んだ指で押し上げている。レイラは息を激しく弾ませながら両膝に手をつき、ステラとヴィオラは瓦礫の影に座り込んで激しく肩を上下させていた。クロエもまた、先ほどの解析と退避の疲労からか、一人で冷たい岩壁に寄りかかり、浅く速い呼吸を繰り返している。
誰一人として無傷ではない。全員が魔力を底まで絞り出し、文字通り命を削って時間を稼いだのだ。だが、誰も欠けることなく、この最下層の空間まで到達していた。
「……よく、生き延びたな」
グンツはそれ以上、余計な労いの言葉は口にしなかった。そんな気休めを言う段階はとうに過ぎている。
彼は腕の中から震える二匹をそっと床に下ろし、立ち上がった。
ここがどこであるか、全員が痛いほど理解している。全90層に及ぶ『絶望の箱庭』の最下層。それも、通常の処理プールなどを遥かに越えた、迷宮の基盤となる岩盤が剥き出しになった真の最深部だ。
凍てつくような冷気と、数千万トンの岩と土が放つ圧倒的な土の匂いが、鼻腔をツンと刺す。上層からは、迷宮の各階層が次々と崩壊していく重く鈍い地鳴りが、絶え間なく響き続けていた。
グンツは愛用のヘルメットを深く被り直し、右目に全魔力を集中させた。
バチィィィンッ!
眼球の奥の毛細血管が一斉に弾け、焼き切れそうなほどの激痛が走った。
《構造解析》のスキルを、眼前の空間だけでなく、この迷宮全90層の巨大な立体構造すべてにリンクさせる。
彼の視界に、幾重にも重なる岩盤、崩落しかけている石柱、引きちぎられた魔力ラインの残骸が、血のように赤いワイヤーフレームとなって展開されていく。数千万トンという途方もない質量が、今、どこに向かって押し潰されようとしているのか。
重力のベクトル。地脈の反発係数。空間の歪み。
膨大な演算処理が、グンツの脳細胞を容赦なく削り取っていく。額から脂汗が滝のように流れ落ち、視界の端が赤黒く明滅した。右目から一筋の血の涙が頬を伝って顎から滴り落ちるが、彼は決して瞬きを許さなかった。
「……見つけた」
グンツは血の滲む唇を噛み締め、薄暗い空間の一点を睨みつけた。
何の変哲もない、ただの平坦な岩盤の床。
だが、彼の目にははっきりと見えていた。上層からのすべての崩落エネルギー、迷宮全体の質量と重力が、最終的に一点に収束し、逃げ場のない極限の圧力を生み出す『重心』の座標が。
「……全員、壁際から1ミリも動くな。少しでも前に出れば、俺でも助けられない」
グンツは低くしゃがれ声で告げると、チョークを取り出し、自らの立ち位置を確認しながら、床のその一点に冷酷な視線を落とした。
★★★★★★★★★★★
ズズン……ッ!
頭上の分厚い岩盤が、突然、泥のようにボロボロと崩れ落ちた。
巨大な空穴が開き、そこから大量の瓦礫と粉塵が滝のように降り注ぐ。
そして、その粉塵を空間ごと滑らかに切り裂きながら、一人の男が静かに最下層の床へと降り立った。
勇者、アレクサンダー。
純白だった軽鎧は黒く煤け、所々がひび割れている。端正な顔立ちの頬には火傷の痕が赤く残り、その呼吸はかすかに荒く、肩がわずかに上下していた。
彼の周囲に展開されている空間切断の結界も、時折、表面がノイズのように透明な波紋を立てて不規則に揺らいでいる。
アレクサンダーは、無機質な碧眼で周囲の暗がりを見回した。
壁際で座り込む魔王軍の幹部たち。そして、彼らから離れ、空間の奥でただ一人、一切の武器を持たずに立っている作業着姿の男。
「……ここが、貴様らの墓場か」
アレクサンダーが初めて、低く、感情の抜け落ちた声を発した。
彼はゆっくりと、腰の長剣を構え直す。
グンツは何も答えない。
挑発も、罠の解説も、命乞いもしない。ただ、血の涙を流す右目で見据えながら、静かに後ずさりした。
アレクサンダーが、無言で追従する。
彼の靴底が硬い岩盤を踏みしめるたび、周囲の空間がズリィィンと削り取られ、黒い亀裂が生まれては消えていく。
グンツの狙いはただ一つ。己の体を囮にして、アレクサンダーに自分への最短距離を歩かせることだ。一切の魔法の罠を仕掛けず、魔力も使わない。ただの空間の移動。警戒心の塊である勇者に、ここには足元の罠も天井からの奇襲もないと錯覚させる。
距離が削り取られていく。
十五メートル。十メートル。
アレクサンダーの剣の間合いまで、あとわずか数メートル。
グンツの心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく警鐘を鳴らす。額の汗が目に入り、視界を強烈に滲ませるが、瞬きすら許されない。右目の《構造解析》が、アレクサンダーの足元と、彼自身が特定した『重心』の座標を完璧に重ね合わせていく。
五メートル。三メートル。
男の靴底が岩盤を打つ音が、死のカウントダウンのように暗い地下空間に響く。
アレクサンダーの右足が、グンツが目視で確認した、何もないただの岩盤の上へと静かに踏み出された。
勇者の靴底が、完璧にその座標の中心を捉えた。
「……そこだ」
グンツの喉の奥から、獣のような低い声が漏れた。
彼の右腕の筋肉が異常なまでに隆起し、血管が青黒く浮き上がる。
彼は両手を、自らの足元の岩盤へと全力で叩きつけた。
ズガァァァァァァァァンッ!!!!!
全90層の迷宮の岩盤を支えていた、最後の、そして最大の魔力ストッパーが、グンツの魔力によって完全に破壊された音が響く。
アレクサンダーの頭上の岩盤が限界を迎え、底知れぬ轟音と共に完全な崩落を開始した。




