第30話 魔王の視察
すべての業務と事後処理が終わり、特級迷宮『絶望の箱庭』に深い静寂が訪れた深夜。
第10層の奥にあるプレハブ小屋の自室で、グンツは埃まみれの作業着を脱ぎ、ゆったりとした部屋着姿で小さな丸テーブルに向かっていた。
薄暗い魔力ランプの灯りの下、テーブルには質素だが洗練されたつまみが並んでいる。木製のカッティングボードには、薄くスライスされた脂の乗ったサラミソーセージと、艶やかなオリーヴの酢漬け。その横には、適度な塩気がまぶされたポテトチップスが少々添えられていた。
グンツは、重厚な赤黒い液体が注がれたグラスを静かに傾けた。
人間界の南部、肥沃な大地と強い日差しを浴びて育った葡萄から作られたという、タンニンが強く骨太な赤ワインだ。口に含むと、深い渋みと大地を思わせる豊かな香りが舌の上に広がる。そこへサラミを一枚放り込み、噛み締める。肉の濃厚な脂とスパイスの刺激を、フルボディの重いワインが見事に受け止め、口の中で完璧な調和を生み出した。
続いてオリーヴの酢漬けをかじり、強い酸味で舌を一度リセットする。ポテトチップスの小気味良い食感と塩気が、次の一口への欲求を自然と駆り立てた。
グラスが空になると、グンツは別のボトルを開けた。
今度は人間界の西方諸国で造られた、輝くようなルビー色をした甘口の赤ワインだ。渋みは少なく、熟した果実の濃厚な甘みが、一日中酷使して疲弊した脳の血管に直接染み渡っていくような感覚がある。防衛戦で張り詰めていた神経が、ゆっくりと解きほぐされていく。
「……ふぅ」
甘いワインを飲み干すと、彼は最後に戸棚の奥から特別な一本を取り出した。
人間界の極東、職人たちが集う小さな工房で静かに蒸留されたという年代物のモルトウイスキーだ。グラスにストレートで注ぎ、琥珀色の液体を煽る。強烈なアルコールと、ピート特有の煙を燻らせたような深い香りが、食道から胃へと熱い線を引いて落ちていく。
過酷な現場を生き抜いた一日の終わりに、一人静かに酒と向き合う。誰にも邪魔されない、グンツにとって至福の晩酌の時間だった。
「わふっ」
「すぅ……」
足元のラグマットでは、白犬のブランと黒犬のノワールが、互いの背中をくっつけ合って平和な寝息を立てている。
グンツはモルトの余韻を楽しみながら、明日は少し遅めに起きようと心に決め、静かに目を閉じた。
★★★★★★★★★★★
「グンツさん! 起きてください、緊急事態です!」
翌朝。
けたたましいノックの音と共に、経理担当のリーゼロッテが血相を変えて部屋に飛び込んできた。
グンツは慌ててベッドから跳ね起き、作業用ベストを掴む。
「どうした。またどこかの壁が崩落したか」
「違います。……魔王様が、今まさにこの迷宮の正面ゲートに到着されました。アポなしの、完全な抜き打ち視察です」
「……は?」
グンツの思考が、一瞬完全に停止した。
「なぜこんな急に……! 今日はヴィオラが釣ってきたAランクの勇者パーティ『金獅子の牙』が侵入してくる予定日だぞ! 今、魔王様にウロウロされたら、防衛ラインの運用に支障が出る!」
「魔王様は『そちたちがどのように勇者を処理しておるのか、生で特等席から見学したいのじゃ』と仰っています。すでに広報のヴィオラさんが入り口でお出迎えし、必死に時間を稼いでいますが、これ以上の足止めは不可能です」
グンツは急いで冷水で顔を洗い、ヘルメットを被って監視室へと駆け込んだ。
そこには、調達部のステラ、物流のレイラ、研究開発のセリア、そして品質保証のクロエが、かつてないほど顔を引き攣らせて集まっていた。
「全員聞いてくれ」
グンツは操作盤の前に立ち、低い声で指示を出した。
「魔王様を迷宮の奥へご案内する。俺が《即時建築》で、魔王様の進行ルートに沿って完璧な強度の透明な防弾ガラスの通路をリアルタイムで構築し続ける。魔王様には安全な観覧席から、勇者どもが罠にかかる姿を見ていただく」
「わかったわ。でもグンツ、魔王様はただ罠にかかるところを見るだけで満足してくれるかしら?」
ステラが腕を組んで懸念を口にする。
「そこだ。魔王様はエンターテイメントを求めている。普段の俺たちの効率重視の地味な罠じゃ、確実に不機嫌になられる。……いいか、今日は防衛戦じゃない。魔王軍の未来を懸けた『接待』だ。俺が魔王様をエスコートする。お前らは俺の通信の合図に合わせて、指定したポイントに資材と罠を放り込め。見栄えを最優先しろ」
グンツが言い終えた直後、監視室の扉が開き、深紅のドレスを着た幼女が堂々とした足取りで入ってきた。
「うむ! 邪魔するぞ、グンツ! 今日はそちの手腕を特等席で見せてもらうからな!」
「はっ。お待ちしておりました、魔王様」
グンツは深く頭を下げ、魔王を監視室の奥から第15層へと通じる秘密の視察用ルートへと案内した。
★★★★★★★★★★★
第15層。
分厚い魔導防弾ガラスに覆われた空中の通路から、眼下の広大なダンジョンを見下ろすことができる。
ちょうどその時、Aランク勇者パーティ『金獅子の牙』の四人が、警戒しながら下の通路に足を踏み入れていた。
「おお、来たな! あれが噂の勇者か!」
魔王が目を輝かせてガラスに張り付く。
「はい。彼らの歩く先には、先日完成した『無音の毒針床』が仕掛けられております。踏み込んだ瞬間に致死毒の針が靴底を貫き、彼らは音もなく静かに絶命する手筈です」
グンツが解説すると、魔王は不満げに頬を膨らませた。
「なんじゃ、ただ針が刺さってバタッと倒れるだけか? 地味じゃな。もっとこう、ドッカーンと火柱が上がるような派手な演出はないのか!」
無茶苦茶な要求だった。毒針の床に火柱を上げる機構など組み込んでいない。
だが、グンツの表情は微塵も揺るがなかった。彼は魔王の視界から外れた位置で、胸元の小型通信機を指で二回叩いた。
『……レイラ、セリア。聞いたな。5秒後に床を爆破しろ』
『マジかよ!? 了解だ!』
『急ぎますわ!』
勇者たちが毒針の床に足を踏み入れようとした、その瞬間だった。
レイラが別ルートから猛スピードで投げ込んだセリア特製の『可燃性スライム爆弾』が、勇者たちの足元に正確に着弾した。
ドゴォォォォォンッ!!
凄まじい轟音と共に、鮮やかな真紅の火柱が天井まで吹き上がった。
勇者たちは悲鳴を上げる間もなく、爆炎に包まれて吹き飛ばされ、そのまま毒針の床へと叩きつけられて即死した。
「おおーっ! 素晴らしい! 火柱の中から針のむしろへ落ちるとは、見事なコンボじゃ!」
魔王が手を叩いて大喜びする。
「ありがとうございます。すべて計算通りです」
グンツは冷や汗をかきながら、平然と一礼した。
生き残った勇者パーティの後衛二人が、仲間の死にパニックを起こし、先の部屋へと逃げ込んだ。
「さぁ、次はどうするのじゃ! 余をもっと驚かせてみよ!」
魔王の無邪気な瞳がグンツに向けられる。
勇者たちが逃げ込んだのは、入ると前後の扉が閉まり、天井から徐々に重い岩盤が降りてきて圧殺するという、堅実で確実なプレストラップの部屋だった。
「あそこは徐々に天井が下がり、時間をかけて対象を押し潰す部屋です。彼らの絶望に歪む顔をじっくりとご覧いただけます」
「うーむ。徐々に下がるのも良いが……逆に、床が上に向かってドゴォンと跳ね上がり、天井のトゲにぶち刺さる方がスピーディーで良くないか?」
完全に物理法則とこれまでの設計を無視した思いつきだった。
床を跳ね上げる機構など、あの部屋には存在しない。
『……ステラ、リーゼロッテ。予算の制限を解除する。今すぐあの部屋の床下に、大型の反発式スプリングと高圧の魔導シリンダーを組み込め。時間は30秒だ』
『30秒!? 正気ですか、総監督! 稟議書を書く時間すらありませんよ! ええい、事後承認です、ステラさん、資材を!』
『ちょっとグンツ、30秒で組み込めって無茶言わないでよ! ああっもう、手持ちの最高級の魔導シリンダーを全部投げ込んであげるから、さっさと受け取りなさい!』
通信機越しに、普段は冷静な二人の悲鳴に近い怒号が飛び交う。
グンツは魔王の気を逸らすため、防弾ガラスの強度について長々と説明を始めた。
その裏で、ステラが倉庫から引っ張り出した高額な資材をレイラが神速で運び込み、グンツが《即時建築》の魔法を足元からこっそりと流し込み、勇者たちの足元の岩盤を力技で切断し、届けられた魔導シリンダーを次々とねじ込んでいく。現場と管理室は完全にパニック状態だった。
「……というわけで、このガラスは絶対に安全です。さぁ、魔王様、ご覧ください」
グンツが指を鳴らした瞬間。
勇者たちが立ちすくんでいた部屋の床が、爆発的な魔力圧力によって一気に数メートル跳ね上がった。
「なっ、ぎゃあああっ!?」
勇者たちはトランポリンのように上空へ射出され、そのまま天井に仕込まれていた太い石のトゲに深々と突き刺さり、完全に絶命した。
「おおっ! 飛んだ! 見事に飛んで刺さったぞ! 余のアイデアを瞬時に取り入れるとは、さすが特級迷宮建築士じゃな!」
「恐縮です」
グンツは首筋を流れる冷たい汗を拭うこともできず、ただ深く頭を下げた。
★★★★★★★★★★★
その後も、魔王の無茶な「思いつき」による罠の変更要求は続いた。
「酸の雨の色を可愛らしいピンク色にしろ」「転がってくる岩石を四角形にしろ」「無音の真空部屋で優雅なクラシック音楽を流せ」。
そのすべてに対し、グンツは現場の《即時建築》と、各部署のプロフェッショナルたちとの裏通信による神業の連携で、リアルタイムに罠を改造し、応え続けた。
クロエが致死量を計算し直し、セリアが泣きながら薬品を混ぜて色を変え、ヴィオラが音源を探して通信網をハッキングし、ステラが資材の在庫を探してヒールで走り回り、レイラが汗だくになってそれを運び、リーゼロッテが目を回しながら経費の決済印を押し続ける。
それはもはや防衛戦ではなく、魔王軍全社が一丸となって取り組んだ、死と破壊の最高級エンターテイメント・ショーであった。
「……ふぅ。見事じゃった。久々に心の底から楽しめたぞ」
数時間後。
すべての勇者パーティが全滅し、視察を終えた魔王は、満足げに玉座へ戻るための魔導列車の前に立っていた。
「そちたちの働き、見事であった。特にあの即興の演出力、客を楽しませるというサービス精神に溢れておった。……リーゼロッテよ」
「は、はっ」
髪を振り乱し、息を切らせたリーゼロッテがバインダーを抱えて進み出る。
「今回の視察の評価として、第4工兵師団に特別ボーナスとして金貨5万枚を支給するよう、本部に手配しておこう」
その言葉を聞いた瞬間、リーゼロッテの眼鏡の奥の瞳がカッと見開かれ、彼女は深々と、かつてないほど完璧な角度で一礼した。
「魔王様の寛大なる御心に、心より感謝申し上げます!」
「うむ。グンツよ、これからも励めよ!」
魔王を乗せた列車が、静かにホームを出発していく。
それが見えなくなった瞬間。
「……終わった……」
グンツは膝から崩れ落ち、プラットホームの冷たい床に大の字になって倒れ込んだ。
精神力と魔力を極限まで使い果たし、指先一つ動かす気力も残っていなかった。
「お疲れ様でした、総監督」
リーゼロッテがバインダーを抱きしめ、満面の笑みでグンツを見下ろす。
「金貨5万枚の特別ボーナス。これで最新型の換気システムと、予備の魔力タンクが買えます。最高の接待でしたね」
「……二度と、二度と御免だ。俺は職人であって、ピエロじゃないんだぞ……」
グンツは仰向けのまま、昨晩飲んだモルトウイスキーの深い香りを思い出していた。
家に帰ったら、あの一番高いボトルを、今夜は半分まで空けてやろう。
そんなささやかな野望だけを胸に抱きながら、特級迷宮建築士は安堵と共に、静かに意識を手放した。




