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迷宮建築士の防衛戦記 ~勇者を殺すダンジョンを造れと言われましても~  作者: 伊達ジン


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第1話 予算金貨3枚のデスゲーム

「……聞いてないぞ。こんな罠があるなんて、冒険者ギルドの資料には一言も書いてなかったじゃないか!」


 泥とスライムの粘液にまみれた若き剣士が、泣きそうな顔で叫んだ。

 彼の自慢であるミスリル製の輝く鎧は見る影もなくドロドロに汚れ、本来なら敵の攻撃を防ぐはずのその重量が、今はただの重い枷となって彼の体力を容赦なく奪っている。隣で杖を強く握りしめる魔法使いの少女も、何度も斜面を登ろうとしては無様に滑り落ち、すでに魔力も体力も底を突きかけていた。


 彼らがここへやって来たのは昨日の朝のことだった。最初は意気揚々と罠を警戒しながら進んでいた彼らだったが、今やその威勢の良さは完全に失われている。


「こんなの……ただの泥遊びじゃないか……っ! くそっ、足が、足が全く踏ん張れない!」

「気をつけて! また下から粘液が……きゃああっ!」

「ああっ、俺の純白の法衣が……っ!」


 神官の若者も泥沼に顔から突っ込み、その神聖なはずの衣装は見るも無残な土気色に染まっている。彼らはすでに何十回、いや何百回となくこの斜面に挑み、その度に無慈悲に滑り落ちてきたのだ。

 彼らがこの第2層に到達してから丸1日、魔物を1匹も倒していないどころか、誰の刃とも交えていない。ただ目の前に立ちはだかるツルツルに滑る泥の斜面を前に、ひたすらに体力と気力をすり減らし、完全に自滅しようとしていた。


 その滑稽な姿を、ダンジョン最深部に設置された監視水晶越しに眺めながら、男は深く、ひたすらに深く、重いため息を吐いた。


「……勇者の防御力や魔法耐性がどれだけ高かろうが、肺の中の酸素量と、この星の重力には逆らえない。当たり前の物理法則だ」


 男の名前はグンツ・アーキテクト。年齢30歳。

 魔王軍の第4工兵師団に所属する特級迷宮建築士である。

 身長188センチの鋼のような肉体、無精髭に鋭い眼光。その風貌は歴戦の狂戦士か、さもなくば一流の暗殺者のようだが、彼が身につけているのは血生臭い鎧ではない。多数の工具が機能的に収まった作業用ベストと、分厚い鉄板が入った安全靴だった。


 彼はコーヒーに似た魔界の泥水を一口すすると、手元のバインダーに『侵入者、疲労困憊につき撤退予測は99パーセント。作戦は最終段階へ』と書き込んだ。


「ふぅ……彼らの体力も限界だろう。これでなんとか、今日も定時で帰れそうだな」


「甘いですね、グンツさん。まだ彼らが撤退の意志を示したわけではありませんよ」


 背後から、氷のように冷たく、そして理知的な声が降ってきた。

 振り返ると、そこに立っていたのはダークエルフの女性だった。名をリーゼロッテ。魔王軍経理部から出向してきている、この辺境第7ダンジョンの資材管理官である。


 彼女は180センチを超える長身で、ダークエルフ特有の美しい褐色の肌を持っている。しかし、一般的なエルフの華奢で神秘的なイメージとは程遠く、タイトな事務官用スーツの上からでもわかるほど、彫刻のように隆起した筋肉を備えていた。特にバインダーを抱える上腕二頭筋の張りは凄まじく、高級なスーツの生地が常に悲鳴を上げている。


「とはいえ、作戦の推移が今のところ順調なのは認めます。しかし、事前の稟議書にあった滑落トラップ用スライムへの慰労金および特別飼料代の請求ですが、予定より20パーセントもオーバーしています。この無駄遣いはどういうことですか?」


 リーゼロッテは鼻眼鏡を押し上げながら、分厚い鉄板入りのバインダーをドン、とデスクに叩きつけた。デスクの木製天板がメリッと嫌な音を立てて軋む。


「無駄遣いだと? ふざけるな」


 グンツは眉間の皺をさらに深くして反論した。


「そもそも、お前が俺に渡した今回の防衛予算は金貨3枚だっただろうが。金貨3枚だぞ? 人間界の路地裏で粗悪なエールを数杯飲んだら消えるハシタ金だ。そんな予算で、どうやって生意気な初級勇者パーティを殺せって言うんだ?」


 魔王軍は現在、深刻な予算不足に陥っていた。

 かつてのように魔王の圧倒的カリスマと恐怖で世界を支配する時代はとうの昔に終わり、今は株式会社としての魔王軍という組織形態をとり、厳格な予算管理と法令遵守のもとでダンジョンを細々と運営している。ダンジョンは魔界のエネルギー源である魔力を精製する重要なプラントであり、それを正義の御旗を掲げて破壊しにくる人間たちは、いわば理不尽な災害、あるいは悪質な破壊工作員であった。


「金貨3枚あれば、ゴブリンのアルバイトを10匹雇えます。彼らに安い棍棒を持たせて突撃させれば、少しばかりの足止めくらいにはなったでしょうに。なぜそうしなかったのですか?」


「あのな、ゴブリンを10匹使い捨てにしたところで、あいつらの経験値稼ぎの餌になるだけだ。それに、怪我をしたゴブリンの労災処理や遺族への見舞金の手続き、残された家族への説明をするのは全部この俺だぞ。お前は書類の上の数字しか見ていないだろうが、俺は現場で汗水垂らして働く奴らの命を預かっているんだ」


 グンツは生粋の職人気質だった。部下であるモンスターの命を無駄な時間稼ぎのために散らすことを極端に嫌い、彼らの安全と労働環境を守ることを何よりも第一としている。だからこそ、現場のモンスターたちからの信頼は、時には上層部の幹部を凌ぐほど絶大だった。


「だから俺は、誰も傷つかないように頭を絞り、知恵と物理法則を使ったんだ。……思い返してみろ、3日前のあの無茶苦茶な発注会議を」


 3日前。辺境第7ダンジョンのプレハブ会議室。


「明後日、人間の街から期待の新人として持て囃されている初級勇者の4人パーティがやってきます。ギルドの調査によれば、適正レベルは15。剣士、魔法使い、僧侶、盗賊の非常にバランスの取れた編成です。舐めてかかれば痛い目を見るでしょう」


「それで、迎撃用の防衛予算は?」


「金貨3枚です」


「……ゼロが2つ足りないぞ、リーゼロッテ」


 グンツは深くため息をついた。


「当ダンジョンは現在業績不振の辺境拠点です。本社からの予算配分はこれが限界です。高価なミスリル製のゴーレムも、致死性の高い毒ガス兵器も買えません。今この現場にあるのは、その辺の泥土と、食堂から出た廃棄予定の調理油、あとはのんびり床を這っているスライム数匹だけです」


 筋肉質のエルフは無表情で、冷酷な現実を告げた。

 グンツは両手で頭を抱えた。レベル15といえば、駆け出しとはいえ鉄の剣でオークを切り伏せ、初級の火炎魔法でゴブリンの群れを簡単に焼き払う程度の力はある。真正面からぶつかれば、このダンジョンに残された貧弱なモンスターなど5分で全滅し、迷宮の核を破壊されてしまうだろう。


「……仕方ない。罠でハメる」


 グンツは立ち上がり、背中に背負っていた巨大な図面ケースから丸まった羊皮紙を取り出し、デスクいっぱいに広げた。


「ダンジョンの第2層、大通路を大規模に改造する。新しい罠を買う予算がないなら、既存の地形を弄り回すしかない」


 グンツの右目が青白く光った。彼が持つ構造解析のスキルである。

 ダンジョンの古い設計図を睨むだけで、岩盤の強度、地脈の魔力残量、重心の偏りなど、ありとあらゆる物理的情報が瞬時に脳内にインプットされていく。


「第2層の大通路は、緩やかな下り坂になっている。俺の即時建築の魔法を使って、この坂の傾斜角を強引に45度まで引き上げる。床の岩盤ごと力技で持ち上げるんだ」


「傾斜角45度……それはもう壁に近いですね。しかし、ただの急な坂なら、彼らはロープや魔法を使って強引に登ってくるのでは? 岩の隙間に手足をねじ込めば、彼らの身体能力なら越えられない壁ではありません」


「そこで、お前の言っていた廃棄予定の油と、このダンジョンに住み着いているスライムを使う」


 グンツは図面にガシガシと木炭ペンで書き込みを入れていく。


「スライムたちを絶対に傷つけないよう、指先の器用なオークたちに極めて丁寧にマッサージさせて、彼らの分泌する極上の粘液だけを搾り取る。それをバケツに集めて、廃油と泥を特定の割合で配合する。スライムには労いとして新鮮な魔力水をたっぷり与えておけ」


「……生きたまま優しく粘液を採取するのですね。手間がかかりますが」


「ああ、俺は部下を大事にするからな。これをこの急斜面となった大通路の床と壁、およそ100メートルにわたってブチ撒ける。名付けて絶対滑落トラップだ」


「……つまり、摩擦係数を極限までゼロに近づけると?」


「そうだ。人間が立って前に進むためには摩擦が必要だ。地面を蹴る力が推進力に変わる。だが、摩擦がゼロの斜面ではどうなる? 歩くどころか、立つことすらできず、重力に従って一番下まで滑り落ちるだけだ」


 グンツの口角がわずかに上がった。


「一番下には、深さ3メートルの泥沼を用意しておく。滑り落ちた勇者たちは泥沼にハマり、そこから這い上がろうとしてまた滑り落ちる。ロープを引っかけようにも、壁にも粘液をたっぷり塗っておくから金具が刺さらない。彼らはあの斜面の中で、永遠に登っては落ちる徒労を繰り返すことになる」


「……えげつないですね。直接的なダメージは一切与えず、ただひたすらに気力と体力を削り取る、と」


「ああ。どんな伝説の聖剣を持っていようが、強力な火炎魔法を使えようが関係ない。斜面を登るという単純な物理現象がクリアできない限り、奴らは俺の前に辿り着くことすらできない」


 グンツは立ち上がり、愛用のヘルメットを被った。


「現場に行ってくる。オークたちを叩き起こせ。突貫工事だ」


 そして現在。

 監視水晶には、全身泥まみれになり、魔法の杖を投げ捨てて地面に突っ伏す勇者パーティの姿が映っていた。彼らが誇る聖なる加護による状態異常耐性も、魔法による防御力向上も、ただの滑るという圧倒的な物理現象の前には何の意味もなさなかった。

 彼らはもはや、立ち上がろうとする気力すら失っていた。泥にまみれた顔を見合わせ、誰もが敗北を悟っている。


「……もう、ダメだ……ギブアップ……」


 ついに心が折れたリーダーの剣士が、震える手で腰のベルトから帰還の転移石を取り出した。

 最後の魔力を込めると、彼らの体は淡い光に包まれ、ダンジョンから逃げ帰るように完全に消え去った。


「……対象の完全離脱を確認。これで防衛完了だ」


 グンツは肩の力を抜き、ギシギシと鳴るパイプ椅子に深く腰掛けた。


「見事です、グンツさん」


 先ほどまでは経費の小言を言っていたリーゼロッテも、今度は心底からの称賛を込めて頷いた。


「金貨3枚という極小予算で、こちらのモンスターには一切の被害を出さず、勇者パーティを撤退に追い込んだ。この圧倒的な費用対効果の高さは、本部に大々的に報告するに値します」


「報告なんてしなくていい。俺は目立ちたくないんだ。この辺境の地で、適当に安い罠を作って、オーク共と賄い飯でも食いながら平穏に暮らせればそれでいい……」


 その時だった。

 リーゼロッテの手元にあった通信用の魔導具が、けたたましい警告音を立てて鳴り響いた。

 彼女は受話器を取り、数秒ほど無言で頷き、そして水晶のような冷たい瞳でグンツを見た。


「グンツさん。あなたの望む平穏な暮らしは、今日で終わりのようです」


「……なんだよ、嫌な予感しかしないぞ」


「本部からの通達です。今回の金貨3枚での防衛実績が、魔王様の目に留まったそうです」


 リーゼロッテは、鉄のバインダーをグンツの胸に押し付けた。その顔には、ほんのわずかな同情が混じっている。


「魔王軍第4工兵師団、特級迷宮建築士グンツ。貴官に対し、魔界中心部に位置する特級迷宮『絶望の箱庭』の総監督への栄転を命じます」


「……は?」


「なお、同迷宮は現在、最高位の勇者パーティの度重なる侵攻と、前任者の横領によって防衛システムが完全に崩壊しており、引き継ぎ予算は実質ゼロです。明日の朝一番で着任してください。拒否権はありません」


「……っざけんなぁぁぁ!!」


 魔王軍の過酷すぎる辞令が、監視室の窓ガラスをビリビリと揺らした。彼の怒号は、地下ダンジョンの奥深くへと虚しく響き渡っていく。


 こうして、泥と廃材を愛する不器用な迷宮建築士の、理不尽極まりない防衛とお仕事の戦いが、幕を開けたのである。

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