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第二話:本能と理性

オークの身体は、成長が早い。


 目が見えるようになった頃には、すでに立って歩けた。

 歩けるようになった頃には、走ることができた。

 そして、俺が自分の名前も忘れてしまった頃には、体は成人男性と変わらないほどの筋肉を備えていた。


 だが、心は追いついていなかった。

 人間だった頃の記憶は薄れかけているが、倫理観だけが、どうしようもなく体に染みついている。


 目の前の肉塊を、誰よりも早く奪う。

 年老いた者を押しのけて、自分の分を確保する。

 歯を剥き、唸り声をあげ、同族の頭を殴ってでも、生き残る。


 それが、ここでの“知恵”だった。


 でも、俺にはできなかった。


 やろうとすればできる。

 筋力は誰よりもある。反射神経も、すでに人間を超えている。

 ただ、“理性”が邪魔をした。


 


 特に困ったのは――性衝動だった。


 ある夜、隣の檻から、女オークが交尾を始めた。

 苦しげに鳴きながら、汗と匂いと唾液を撒き散らす。

 それに反応して、俺の身体は……勝手に、熱を帯びた。


 思考が追いつかない。

 理性では抑えようとしても、どうしようもなく、肉体が求めてしまう。


「くそ……俺は人間だった。こんなの、ただの獣じゃないか……」


 壁に頭をぶつけて、衝動を抑えた。

 そして、気づいた。


 俺は、オークに欲情できない。


 女オークの体は、ただ“異形”でしかなかった。

 臭い、重い、荒々しい。

 確かに性的な信号を発しているのはわかるが、心がまったく反応しない。


 この矛盾が、俺を苦しめた。


 体は求めているのに、心が拒絶する。

 俺の中の人間が、「それは違う」と叫んでいる。


 結果、俺は檻の隅で、ひとり体を抱え、夜を耐えるしかなかった。


 


 それでも、他のオークたちと比べれば、俺は“まし”な存在だった。


 ある日、となりのゴブリンの少年が選ばれた。

 檻の鍵が開き、人間が無表情で手招きする。

 少年は震えながら、立ち上がった。

 他の誰も、何も言わなかった。


 けれど、俺だけは、声にならない叫びを喉に押し込んでいた。


 


 その夜、その少年は戻ってきた。

 腕に裂傷を負い、服はぼろぼろ、目は焦点が合っていなかった。

 腹のあたりには、焼けたような痕があった。


 ゴブリンの母が抱きしめ、何かを喋りかけたが、少年は何も反応しなかった。


 その翌日、少年は、餌に手を伸ばさず、檻の奥で静かに死んだ。


 泣く者はいなかった。

 驚く者もいなかった。


 それが、“日常”だったから。


 


 そんな中で、唯一、少しだけ“まとも”と呼べる選択肢があった。


 それは、「狩りに出される」ことだった。


 人間の言葉で「狩猟試練」と呼ばれるそれは、どうやら

 兵士たちが育てる“モンスター捕食訓練用プログラム”の一環で、

 一定の年齢・体格に達したモンスターは、山や森に放たれて、

 “標的”として、狩られることを許される。


 もちろん、生き延びられる保証はない。

 訓練用の犬、魔物、追跡術を持つ兵士たちに追われ、

 捕まり次第、殺されるか、再収容される。


 だが、それでも――空を見られるのだ。


 檻の外の空気を吸える。

 草の匂いを嗅げる。

 そして、運が良ければ――逃げられるかもしれない。


 


 その“狩り”に選ばれた者だけは、ほんの一瞬だが、檻の中で“英雄”扱いされる。

 それが、どれだけ歪んでいようと。


「アイツ、狩りだってさ。いいな……俺も、行きてぇな……」

「死ぬかもだけどさ、ここよりマシだろ」

「空、見てえな……青いやつ……」


 


 地上に出ることは、死を意味する。

 けれど、檻の中で朽ちるよりも、それを選ぶ者が多い。


 それが、この世界の“まとも”だった。


 


 俺は、この世界の価値観を、徐々に理解し始めていた。


 そして、それと同時に、人間だった頃の価値観が、壊れていく音がした。


「この世界では、自由は“死のギリギリ”にしか存在しない」

「なら、自由を奪っている側――“人間”を超えるしかない」


 檻の隅、母のぬくもりを背に、俺はじっと天井を見上げた。


 空があるなら、そこに届く道を探す。

 それがどんなに冷酷でも、血まみれでも、俺は、生きる。

この世界には、言葉があった。


 ただし、それは俺が知っている「言語」とはまるで違う。

 口を開けば伝わるものでもなければ、文法で整理されたものでもない。

 それは、音と、間と、匂いと、目線で成り立つ“生き物”だった。


 


 俺が檻の中で初めて“他者”と交信したのは、ある夜のことだった。


 その日は、餌の投下が遅れた。

 時間の感覚は曖昧だが、腹の痛みが、もう何時間も空腹が続いていることを告げていた。


 腹を空かせたオークたちは、互いに威嚇し合い、苛立ちをぶつけ始めていた。

 獣のような唸り声が、檻のあちこちから聞こえる。

 いまにも誰かが誰かを襲いそうな、そんな空気。


 そんな中、俺の隣に座っていた小柄なゴブリンが、

 そっと、足を引っ張ってきた。


 反射的に身構えたが、ゴブリンは攻撃の意思を見せなかった。

 ただ、指を一本立てて、口を尖らせる。

 その姿が、なぜか妙に“知的”に見えた。


 


 ゴブリンは、小さな声で唸り、

 次いで、俺の顔に手のひらをかざし、そこに小さな石を置いた。


 石は丸く、滑らかだった。

 かつて、俺が日本にいた頃、公園で拾った「おはじき」に似ていた。


 意味がわからない。

 だが、彼の仕草からは、敵意も、取引も、脅しも感じなかった。


 純粋に、“何かを伝えたい”という意志だけがあった。


 


 俺は、その石を受け取り、自分の胸に当ててみせた。

 すると、ゴブリンの目がぱっと開いた。

 小さく、カラカラと笑い声をあげる。


 そのとき、俺は思った。


 言葉が通じなくても、“心”は通じるのかもしれない。


 


 それ以来、そのゴブリン――俺は彼を勝手に“ニゴ”と名付けた――は、

 頻繁に俺の隣に来るようになった。

 言葉を交わすことはなかったが、視線と仕草で、ある程度の意志疎通ができた。


 ニゴは、檻の中の「知恵袋」だった。


 檻の中に流れる“ルール”、誰がどの縄張りを持っているか、

 餌の分配順、連れて行かれる順番の予測――

 彼は、それを読み解く“感覚”を持っていた。


 俺は、ニゴの真似をしながら、檻の中の階層構造を学び、

 そして、自分の居場所を探し始めた。


 


 その一方で、檻の“外”からは、違う種類の言葉が聞こえてきた。


「No.24、予定変更。生体反応あり、魔術耐性テストに回せ」

「教育用オーク、群れのリーダー交代。現指導体制に問題あり」

「記録更新……『被検体オス31、筋肉増加値+17%』」


 それは、明確に“支配する者の言語”だった。


 言葉に意味はある。

 だが、それはあまりに無機質で、記号的で、生き物への敬意を微塵も含まない単語の羅列だった。


 その声は、俺たちを「存在」として認識していない。


 処理対象。実験体。反応。異常値。廃棄基準。

 それが、彼らの“会話”の内容だった。


 俺は思った。


「この世界の言葉は、命を認識するためのものじゃない。

命を“管理するための道具”として使われてるんだ」


 


 ニゴは言葉を使わない。

 でも、彼には感情があり、知恵があり、表情があった。


 檻の中の他のオークたちも同じだった。

 話せなくても、そこには確かに“社会”があり、“感情”があった。


 だが、檻の外にいる人間たちは、言葉を話しているのに、“人間”ではなかった。


 モンスターのふりをしているのは、俺たちじゃない。

  人間のふりをしているのが、あっちだった。


 


 その夜、俺は眠れなかった。

 ただ、ぼんやりと天井を見つめながら、ニゴのくれた石を手の中で転がしていた。


 “言葉”ではなく、“理解”を手に入れるためには――

 俺は、もっと知る必要がある。


 この檻の中のこと。

 この施設の構造。

 そして、外の世界のルール。


 


「俺は、ここに生まれてしまった。

だが、ここで終わるつもりはない」


「“言葉”を越えて、“知”を得る。

それが、俺が選ぶ“支配”の第一歩だ」


 


 暗闇の中、俺は静かに、石を握り締めた。


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