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第一話「暁田県庁 異類対策課へ配属を命ずる」

はじめまして。淘汰と申します。

この作品は、架空の土地「暁田県」を舞台に、県庁の地下にひっそり存在する「異類対策課」の仕事を描く、現代ファンタジーです。


この物語に出てくる「異類」は、幽霊や妖怪、神さまのような、人の暮らしのすぐそばにありながら、少しだけ時間に置いていかれた存在たちです。

怖さよりも、忘れられたものの寂しさや、誰かを思い続ける気持ち、そして別れのやさしさを大切にしながら書いています。


派手なバトルや強い能力で解決していく話ではなく、土地の空気や、人の記憶や、言葉にできなかった思いを、少しずつ拾い上げていくような物語です。

冬の匂いが残る地方の風景や、静かな怪異譚がお好きな方に楽しんでいただけたら嬉しいです。


どうぞよろしくお願いします。

 四月の朝だというのに、暁田の空は冬の名残をまだ手放していなかった。


 県庁舎の前に立つと、空は薄い鉛を溶かして流したみたいな色をしていて、朝陽は雲の向こうでただ白んでいるだけだった。風は冷たくはない。けれど心地よいわけでもなく、スーツの襟元に入ってきて、肌の上を湿った指でなぞっていくような不快さがあった。


 俺は一度だけ息を吐いて、ガラス張りの正面玄関を見上げる。


 暁田県庁。


 古い本庁舎に増築を重ねたせいで、どこか継ぎ接ぎのような外観をしている。正面から見ればそれなりに立派だが、少し角度を変えると、色の違う壁や不自然な窓の並びが目につく。きれいに整えられてはいるのに、どこか過去の時間が残っている建物だった。


 その感じは、暁田という土地そのものに似ていた。


 新しい店ができても、ひと冬越すころには看板が色褪せている。道路が整備されても、その先には昔からの商店街がひっそりと口を閉ざしている。何かが前へ進もうとして、そのたびに置いていかれたものが、静かに積もっていく土地だ。


 俺はその空気が嫌いではなかった。好きだと胸を張って言えるほどでもないが、少なくとも、馴染みはあった。


 自動ドアが音もなく開く。


 中へ入ると、暖房の効いた空気が頬に触れた。外の湿り気とは違う、乾いたあたたかさだ。磨かれた床に蛍光灯の白い光が映っていて、ロビーには新採用らしい若い職員たちが何人も集まっていた。真新しいスーツ。少し硬い表情。


 笑っている者もいる。すでに打ち解けたのか、小声で出身地の話をしている者もいた。


 その輪の外れで、俺は小さく肩をすくめた。


 中途採用は俺一人ではないはずだが、こういう場に立つと、自分だけ少し遅れて列に混じったような気分になる。二十八という年齢がどうこうではない。ただ、学生の延長線みたいな晴れやかさを、俺はとうに置いてきてしまっていた。


 受付の前に列ができていたので、その最後尾につく。


 前に並んだ男が名札の入った封筒を受け取って、ほっとしたように頭を下げる。次の女は案内の紙を受け取って、同期らしい別の女と顔を見合わせ、少し笑った。


 そういう一つひとつの小さな動きが、この場所にある「まともさ」を形作っているように見えた。


 そのまともさのなかに立っていると、自分のほうが場違いに思えてくる。


 昔からそうだ。


 俺には、見えるものがあった。


 見えなくていいはずのものが、見えた。


 小さいころは、それを誰にでも見えているものだと思っていた。道端の祠の脇に座り込んでいる、濡れた着物の女。閉店した文房具屋のシャッターの前で、いつまでも店番をしている老人。河川敷の古いベンチに腰かけたまま、夕暮れごとに帰りそびれる子ども。


 どれも俺には、そこにいる人間と同じように見えていた。


 違うと知ったのは、だいぶあとだ。


 さらに厄介だったのは、俺にはそれだけではなく、そいつらからどこかへ伸びる細い線のようなものまで見えていたことだ。半透明で、光の具合によっては消えそうなくらい頼りない線。それが、古びたお守りだったり、欠けた茶碗だったり、錆びた自転車だったり、もう誰にも気に留められないような何かへとつながっている。


 人にはつながっていない。


 生きている誰かの胸や背中に、その線が伸びているのを見たことは一度もない。


 だから余計に、その線の意味が分からなかった。


 ただ、あれが見えるとき、そいつらはたいていそこから動けないでいる。そういうことだけは、なんとなく分かっていた。


「次の方、どうぞ」


 受付の女性の声に呼ばれて、俺は我に返った。


 カウンターの前に立つ。


近藤伊織(こんどう いおり)です」


 名を告げた瞬間だった。


 受付の女性の目が、ほんのわずかに揺れた。


 露骨な驚きではない。だが、こちらの顔と手元の名簿を見比べた、この一瞬でたしかに空気が変わった。仕事用の笑顔の奥で、何か確認されたような、そんな間だった。


「……近藤伊織さん、ですね」


「はい」


「少々お待ちください」


 女性はすぐに背後の内線を取り、短く何かを伝えた。声は低く抑えられていて、聞き取れたのは「お見えです」と「はい、地下二階」の二語だけだった。


 地下二階。


 その響きに、嫌な冷たさがあった。


 県庁で地下二階といえば、普通は倉庫とか機械室とか、そういう類の場所を思い浮かべる。少なくとも、新採用職員の初登庁で真っ先に案内される場所ではない。


「申し訳ありません、近藤さんは、別の案内になります」


 女性は営業用のやわらかな声を崩さないまま言った。


「別の、ですか?」


「はい。担当の者が参りますので、こちらで少々お待ちください」


 そう言われて脇に寄ると、あとから来た新採用たちが次々と受付を済ませていった。封筒を受け取り、案内係に誘導され、明るいエレベーターホールへ流れていく。


 スーツの擦れる音、控えめな笑い声、革靴の乾いた足音。


 その流れから一人だけ外れている自分を、俺はガラス越しに眺めているみたいな気持ちで見ていた。


 やがて、年配の女性職員がこちらへ歩いてきた。灰色のカーディガンの上から職員証を提げ、髪をきっちりまとめている。まじめそうというより、長くここで働いてきた人の顔だった。


「近藤さんですか」


「はい」


「こちらへどうぞ」


 それだけ言って、女性は踵を返した。


 案内されたのは、同期たちが向かっていった大きなエレベーターとは別の、廊下の奥にある小ぶりなエレベーターだった。来庁者向けというより、職員用か荷物用に近い。扉の塗装はところどころくすみ、押しボタンの周りだけが不自然につやつやしている。


 女性が無言で「B2」のボタンを押す。


 静かに扉が閉まり、箱が下へ沈んでいく。


 一階から地下へ降りるだけなのに、耳の奥がつんとした。鏡張りでもない狭い箱のなかで、蛍光灯の光だけがやけに白く見える。女性は何も話さなかったし、俺も何を聞けばいいのか分からなかった。


 ただ、エレベーターの鏡に映る自分の姿が、どこか心許なく見えた。


 地下二階で扉が開く。


 空気が変わった。


 暖房の届き方が弱いのか、ひやりとしている。湿度のある冷たさだった。古い紙とコンクリート、ほんの少しのカビの匂い。人が働いている場所の気配はあるのに、上のロビーとはまるで別の建物に来たようだった。


 廊下は狭く、天井も低い。白い塗装は年月で黄ばんでいて、壁際にはスチール棚や古びたキャビネットが並んでいた。扉には「文書保管庫」「管財課備品室」「防災資材置場」といった札がかかっている。


 女性職員の後をついて歩く。


 途中、角を曲がったところで、俺はふと足を止めそうになった。


 配管の影に、誰かが立っていたからだ。


 青っぽい作業着を着た、五十代くらいの男。肩を丸め、何かを待っているようにぼんやり突っ立っている。けれど女性職員はそちらを見向きもせず、まっすぐ歩いていく。


 男から、かすかな線が一本、廊下の突き当たりの古い消火器へ伸びていた。


 半透明の、細い線。


 俺は何も言わずに視線を外した。


 ここでいちいち反応していたらきりがない。驚くのはもう、ずっと前にやめた。問題は、県庁の地下にまでそういうものがいるという事のほうだった。


 案内役の女性は、廊下の一番奥で立ち止まった。


 扉がある。


 古い木目調の扉で、いかにも後付けらしい小さなプレートが掛かっていた。


 黒字で、こう書かれている。


 異類対策課。


 俺は一瞬、その文字を見間違えたのかと思った。


 いるいたいさくか。


 聞いたことのない部署名だった。総務課でも、人事課でも、観光振興でもない。県庁の組織図のどこにも載っていなさそうな、妙に浮いた字面だった。


「こちらです」


 女性はノックもそこそこに扉を開ける。


「課長、近藤さんをお連れしました」


 中から返事があった。


「ああ、どうぞ」


 低くて、どこか気の抜けた声だった。


 女性に促されて中へ入る。


 部屋は思っていたより広かったが、そのぶん雑多だった。壁一面に灰色の書庫。積み上がった段ボール。年代物のストーブ。窓はない。空気は地下の湿気を含んで重く、古い書類とインク、コーヒーの匂いが混ざっていた。


 机は三つあるのに、使われている気配があるのは一つだけだった。


 その机の向こうに座っていた男を見て、俺は息を詰めた。


「……あんた」


 男は書類から顔を上げた。


 面接のときの男だった。


 四十代後半くらい。癖のある髪を無造作に流し、ネクタイはゆるい。姿勢はだらしなく見えるのに、目だけが妙に醒めている。あの面接室でも、この男だけは県庁の人間というより、別のところから紛れ込んできたみたいな違和感があった。


 男は俺を見て、薄く笑った。


「ようこそ。採用おめでとう、近藤伊織くん」


 祝いの言葉なのに、まったく華やかさがなかった。


 女性職員は一礼して部屋を出ていく。扉が閉まり、地下の静けさが戻った。


 俺はその場に立ったまま、改めて部屋を見回した。


 壁際のハンガーには古びたコートが掛かっている。電気ポットの隣に紙コップが二つ。棚には分厚いファイルが詰まり、背表紙には年号と地名が細かく書き込まれていた。海沿いの町、山間の集落、閉鎖された駅名、聞いたことのある神社の名前。どれも雑然としているのに、長く使い込まれた秩序のようなものがあった。


「座っていいですか」


「もちろん。といっても、歓迎会らしい歓迎会をやる余裕はないんだが」


 男、面接官だったその人は、顎で向かいの椅子を示した。


 腰を下ろすと、パイプ椅子がきしむ。


「改めて。俺は烏丸護からすま まもる。ここの課長だ」


「課長……」


「そう。見てのとおり、たいした課じゃないがね」


 烏丸護。


 名前を頭の中で思い返す。


 面接のときも名乗っていた気はするが、そのときはそこまで意識していなかった。ただ、俺がこれまで誰にも話したことのないもの、見えるもののことを、あの場でこの男だけがまっすぐ聞いてきたことだけは覚えている。


「聞きたいことが山ほどある顔をしてるな」


「そりゃ、まあ」


「だろうな」


 烏丸は机の上の書類を脇へ寄せ、少しだけ前かがみになった。


「まず、一番大事なことから言う。君が普通の職場に配属されることはない」


 俺は何も言えなかった。


 言葉の意味は単純なのに、頭に落ちてくるまでに少し時間がかかった。


「ここが、君の配属先だ」


 烏丸は指先で、机上の組織印が押された書類を軽く叩いた。


「異類対策課」


「……異類って、何です」


「県庁の内部用語だよ」


 烏丸はあっさり言った。


「世間一般で言えば、幽霊だの妖怪だの怪異だの、場合によっては神様の類まで含む。呼び名は色々あるが、うちではまとめて異類と呼ぶ。業務上、そのほうが都合がいい」


 その口ぶりがあまりにも事務的で、俺は逆に言葉を失った。


 幽霊だの妖怪だのを、県庁の課長が、まるで道路占用許可の説明みたいに話している。


「……冗談、ですよね」


「残念ながら、俺は冗談があまりうまくない」


 烏丸は少し肩をすくめた。


「それに、君には見えてるはずだ。今さら『そんなものはいません』とは言えない」


 胸の奥が、ひやりとした。


 この人は知っている。


 俺が何を見てきたか、その輪郭くらいは、もう知っている。


「君は異類が見える。それだけじゃない」


 烏丸の視線が、まっすぐ俺の目に向く。


「面接で話したな。何かが、つながって見えると」


 喉が乾いた。


 あの面接室を思い出す。ほかの面接官が経歴や志望動機を聞くなかで、この男だけが、まるで雑談みたいな調子で尋ねたのだ。


 君には何が見える。


 何と何が、どうつながっているように見える。


 気味悪がるでもなく、面白がるでもなく、ただ必要な報告を受けるように。


「……線です」


 自分の声が、思ったより低く出た。


「細い線が見えます。そいつらから、どこかへ伸びてる。物に。場所に。」


「そうか」


 烏丸はうなずいた。驚きも感心もない。確認が一つ済んだ、という顔だった。


「その線は、俺には見えない。見えるのは君だけだ」


「課長も、見えるんですか」


「異類そのものはな。だが、君の言う線は見えない。だから君が必要だった」


 地下の部屋の静けさが、そこでふっと重くなった気がした。


 必要だった。


 その言葉に、歓迎とも利用ともつかない響きが混じっていた。


「どうして俺なんです」


「君にしか見えないものがあるからだよ」


「それで県庁に採用するんですか、普通は!」


「普通じゃないから、ここがある」


 烏丸はそこで初めて、わずかに笑った。


 人を食ったような笑い方だったが、馬鹿にしている感じではない。むしろ、もうずっと前に「普通」で説明のつかないものを仕事にする覚悟を済ませた人間の顔に見えた。


「異類は、放っておくとただそこにいるだけのものも多い。けど、そうじゃないのもいる。忘れられたまま、どこにも行けず、古い場所や物に引き留められているやつらだ。俺たちはそいつらの話を聞いて、因縁を調べて、しかるべき形で対処する」


「対処?」


「救う、と言い換えてもいい」


 烏丸はそう言って、椅子から立ち上がった。


「まあ、その話は車でしよう」


「車?」


「現場に行く」


「は?」


 俺も反射的に立ち上がる。


「いや、ちょっと待ってください。俺、今日が初日なんですけど」


「知ってる」


「まだ何も分かってないんですけど」


「現場を見るのが早い」


「説明っていうもんがあるでしょう」


「今した」


「足りてないでしょう、どう考えても」


 思わず強めに言うと、烏丸は机の脇からくたびれたコートを取った。こちらの抗議など、春先の小雨くらいにしか感じていない顔だった。


「大丈夫。最初はみんなそんなもんだ」


「みんな?」


「正確には、君の前任だけだが」


「前任?」


「それもあとで話す」


 さらりと言われて、余計に背筋が冷えた。


 烏丸は机の引き出しから車の鍵を取り出すと、そのまま扉のほうへ向かう。俺が動かないでいると、振り返って言った。


「近藤」


「……はい」


「ようこそ、異類対策課へ」


 低い声だった。


 からかいも飾りもない、妙に静かな言い方だった。


「君がここに来たのは、きっと偶然じゃない」


 その一言だけが、地下の湿った空気のなかで、やけにくっきりと聞こえた。


 扉が開く。


 廊下の冷たい空気が、部屋の中へ流れ込んでくる。


 俺は少しだけ迷ってから、机の上に置かれた封筒を見た。表には俺の名前があり、その下に、印字された配属先があった。


 暁田県庁 異類対策課。


 見慣れないその文字列が、冗談でも見間違いでもないことを、白い紙の質感だけが無情に証明している。


 逃げようと思えば逃げられたのかもしれない。


 けれど、そうしなかったのは、ここへ来る前から薄々分かっていたからだ。自分が一度も普通の側に立てなかったことも、見えてしまうものから完全には逃げられなかったことも。


 廊下の先、古い配管の影で、さっきの作業着の男がまだ立っている。ぼんやりと、何かを待つみたいに。


 その男から伸びる細い線が、かすかに揺れていた。


 烏丸には、本当にあれが見えているのだろうか。


 線のことは見えないと言った。だが、男そのものは見えているらしい。その違いが、これから先の俺たちの仕事をどう変えるのか、そのときの俺にはまだ分からなかった。


「置いていくぞ」


 ぶっきらぼうに呼ばれて、俺は顔を上げた。


 烏丸はもう廊下に出ている。コートの襟を立て、まるで昼飯にでも行くみたいな気軽さでこちらを見ていた。


 俺は小さく息を吐く。


 県庁に就職したはずだった。


 少なくとも、今朝家を出たときの俺はそう思っていた。


 なのに気がつけば、地下二階の、世間にはたぶん存在すら知られていない部署に配属され、面接官だった得体の知れない課長に現場へ連れ出されようとしている。


 俺は湿った地下の廊下へ足を踏み出した。


 地下二階の廊下は、歩くたびに靴音が少し遅れて返ってきた。


 湿気を含んだコンクリートの匂いと、古い書類の紙の匂いが混ざっている。県庁の建物のなかにいるはずなのに、地上の行政機関というより、どこか別の時間の底を歩いているような気分だった。


 烏丸は振り返りもせず、一定の歩幅で先を行く。


「現場って、何をしに行くんです」


「見学だ」


「見学で済む感じじゃなかったですけど」


「最初はだいたい見学だよ。慣れたら、そのうち本格的に働いてもらう」


「いや、だから俺今日が初日なんですけど。普通研修とかあるんじゃないですか?」


「そんなものはない。習うより慣れろ」


 平然と言われて、言い返す気力が一瞬で萎えた。


 この人はたぶん、人の反応をいちいち気にしない。悪気がないぶん厄介だった。無遠慮というより、相手の戸惑いを承知のうえで、必要なことだけを先へ進める種類の人間だ。


 廊下の角を曲がる。


 さっき見た作業着姿の男が、まだそこにいた。


 配管の影に半身を埋めるように立って、ぼんやりと前を見ている。男から伸びる細い線は、古びた赤い消火器へつながっていた。表面の塗装がところどころ剥げ、昭和の名残みたいな書体で「消火器」と書かれている。


 俺が視線を止めたことに気づいたのか、烏丸が足を止めた。


「いるな」


「……見えてるんですか」


「見えてるよ。五十代くらいの男。作業服。顔色は悪いが、まあ異類ならあんなもんだ」


 俺は思わず男と烏丸を見比べた。


 異類そのものは、本当に見えているらしい。


 ただし、俺に見えているあの細い線までは分からない。


「何か気になるのか」


 烏丸に聞かれ、俺は少しだけ迷ったが、今はうまく説明できる気がしなかった。


「……あとで話します」


「そうか」


 烏丸はそれ以上追及せず、消火器へ一瞥をくれただけで歩き出した。だがその横顔には、見過ごしているわけではないという静かな留保があった。


 地下から上がる小さなエレベーターの前で、烏丸がボタンを押す。


「君、コーヒーは飲めるか」


「飲めますけど」


「今日の仕事が終わったらおごってやるよ。けっこう疲弊するときもある仕事だ」


「そんなに大変な仕事なんですか」


「安心しろ。死ぬような仕事は滅多にない」


「滅多に?」


「滅多にだ」


 扉が開く。


 俺たちは乗り込み、今度は地上一階まで上がった。狭い箱の中で、地下の湿気が少しずつ薄れていく。


 県庁に就職したつもりが、気づけば幽霊や怪異の部署に放り込まれている。


 現実感が薄い。


 けれど、それと同じくらい、この展開に妙な既視感があった。


 普通の場所には入れず、少しずれたところへ回される。ほかの人間と同じ列に並んだはずなのに、気づけば違う出口へ案内されている。


 その感覚に覚えがあるのは、たぶん、あの日の面接のせいだった。


 県庁に来ることになった、最初のあの日。


 面接の日も、空は似たような色をしていた。


 季節は二月の終わりだったはずだ。雪は歩道の端に灰色の塊になって残り、風はまだ刃物みたいに冷たかった。朝早く出たせいで街は静かで、駅前のロータリーを回るバスの音だけが湿った空気のなかに鈍く響いていた。


 俺は県庁へ向かう途中、駅前のコンビニで安いカイロを買って、ポケットに二つ押し込んだ。


 中途採用の面接だった。


 正直、人に胸を張れる人生を送ってきたわけじゃない。職を転々としたとまでは言わないが、履歴書に胸を張れるような資格や経歴があるかと言われれば、ない。事務を少し、営業を少し、倉庫管理を少し。どこへ行っても致命的に駄目ではないが、かといって替えのきかない人間にもなれなかった。


 それでも県庁を受けようと思ったのは、安定とか世間体とか、そういう月並みな理由が半分。もう半分は、少し疲れていたからだ。


 見えてしまうものを無視しながら、見えないふりを続けて、普通の側に寄せて生きることに。


 仕事先で、誰もいない倉庫の隅に立っている女を見たことがある。閉店した店舗のバックヤードで、もう使われていないレジを前に、ずっと釣り銭皿を見つめている店員を見たこともある。そんなものが見えても、いちいち口に出すわけにはいかない。説明したところで通じないし、通じたとしてもろくなことにならない。


 俺はそれをよく知っていた。


 だから、見えても見ない。気づいても関わらない。そう決めてきた。


 それなのに、あの日の朝に限って、厄介なものに引っかかった。


 県庁へ向かう途中、小さな神社がある。


 駅前の大通りから一本入っただけの、古い住宅街の角に、石段だけが妙に立派な神社だ。鳥居の朱はところどころ剥げ、境内の雪は踏まれた跡も少ない。地元の人間でも、初詣くらいでしか立ち寄らないような場所だった。


 その前を通りかかったとき、俺は足を止めた。


 石段の下に、女がいた。


 年は三十前後に見える。紺のコートを着て、髪をひとつに結んでいる。見た目だけなら、朝の通勤途中のどこにでもいる女だった。だが、その輪郭は少しだけ曖昧で、冬の空気に溶けるように薄い。


 ああ、いるな、と俺は思った。


 別に珍しくない。


 そのまま通り過ぎるつもりだった。面接の日に余計なことへ気を取られたくなかったし、まして県庁へ向かう途中で怪異に関わるなんて、縁起でもない。


 だが、女は動かなかった。


 石段の前に立ち尽くしたまま、ただ、拝殿のほうを見上げている。


 その女から、一本の線が伸びていた。


 半透明の、頼りない線。


 それは境内に結ばれた御神木でも、古い石灯籠でもなく、石段の脇に設けられた小さな授与所の横へ向かっていた。そこに積まれた古い返納箱。その中から少しはみ出している、色褪せたお守りの束へ。


 俺は眉をひそめた。


 人にはつながっていない。


 それはいつものことだ。


 ただ、このとき妙だったのは、その女の異類があまりにも人間らしい顔をしていたことだった。目の下には寝不足みたいな影があり、口元はかすかにこわばっている。幽霊だの妖怪だのというより、極端に疲れてすり減った生身の人間が、そこに取り残されているみたいだった。


 そして、その線の先がお守りだった。


 返納箱の縁に引っかかるようにして見えていたのは、白地に薄桃色の刺繍が入った、小さな安産守りのようだった。袋の角がほつれ、紐の結び目も緩んでいる。誰かがきちんと返したというより、慌てて押し込んだか、手放しきれずに置いていったみたいな収まり方だった。


 女はそれを見ている。


 いや、正確には、そのお守りを通して、何か別のものを見ているようだった。


 関わるな。


 そう思った。


 面接に遅れるわけにはいかない。スーツ姿で神社の前に立ち尽くしていたら、傍から見ても相当怪しい。俺は視線を切り、足を前へ出した。


 そのときだった。


「それ、捨てないで」


 すぐ後ろで、女の声がした。


 思わず立ち止まる。


 振り向くと、女はさっきと同じ位置にいた。表情も変わっていない。ただ、視線だけが俺の足元を見ていた。


 何のことだと思って自分の手を見る。


 手には何もない。


 けれど足元には、いつのまにか小さなお守りが落ちていた。白地に薄桃色の刺繍。さっき返納箱の縁に見えていたものと同じだ。


 ぞっとした。


 落ちた、というより、いつのまにか俺の進路に転がり出ていた、と言うほうが近い。風に飛ばされたにしても不自然だった。


 しゃがんで拾い上げると、布は思ったより冷たかった。


 その瞬間、女の足元から伸びる線が、ぴんと強く張った。


 まるで、そこにしか生き残る場所がないと訴えるみたいに。


「……何なんだよ」


 思わず小さく呟く。


 当然、通りすがりの誰にも聞こえない声だ。女も返事はしなかった。ただ、見ている。疲れ切った目で、お守りだけを。


 近くを通り過ぎた中学生が二人、俺のことを少しだけ不思議そうに見た。神社の前で古いお守りを握って立ち尽くしているスーツの男なんて、どう見てもまともではない。


 俺は舌打ちしたい気分をこらえ、返納箱へ歩み寄った。


 放り込めばいい。


 そう思った。これが女の執着の先だとしても、俺の知ったことじゃない。元の場所に戻して終わりだ。そうすれば、少なくとも面接前にこれ以上付きまとわれることはないだろう。


 箱の口へ手を伸ばす。


「違う」


 背後で、女の声がした。


 さっきより少し強い声音だった。


 俺は動きを止めた。


「……違う?」


「そこじゃ、ない」


 振り返る。


 女はまだ石段の前に立っている。薄い輪郭。冷たい朝の空気のなかで、ひとりだけ別の季節に閉じ込められているみたいに見えた。


 そこじゃない。


 返納箱ではないというのか。


 だが、お守りに線はつながっている。線の先はいつも、何かしらの手がかりではあっても、そのまま答えだとは限らない。そういうことは経験上なんとなく分かっていた。示されるのは中心であって、解決そのものじゃない。


 問題は、今それを考える暇が俺にないことだった。


 時計を見る。面接まで、もう余裕は少ない。


 俺はしばらく迷ってから、結局、そのお守りをコートのポケットに突っ込んだ。


「あとで、だ」


 誰に言うでもなく呟く。


 女は何も答えなかった。ただ、その線だけが、俺のポケットの膨らみに合わせてすうっと向きを変えた。


 その瞬間、はっきりした。


 あの線は、やはり人間につながっているわけじゃない。


 あくまでお守りへつながっていて、俺はただ、それを持っただけだ。


 生きている人間に直接結ばれない、というのは昔から変わらない。その女がどれだけ人間らしく見えても、あれは人ではなく、何か別の形で現れている怪異なのだろう。


 生霊、という言葉が頭をよぎった。


 生きている誰かの感情や未練が、怪異として剥がれ落ちたもの。そういうものを、子どものころに祖母が昔話みたいに口にしていたことがある。本気で信じていたわけではないが、目の前の女を見ていると、そういう曖昧な分類のほうがしっくりきた。


 俺はそれ以上考えるのをやめて、県庁へ急いだ。


 面接会場は、本庁舎の三階だった。


 会議室の前には同じようにスーツ姿の受験者が何人か座っていて、みんな手元の書類に目を落としていた。暖房が効いているはずなのに、指先だけが冷たい。ポケットのお守りは薄くて軽いはずなのに、なぜかそこだけずしりと重かった。


 受付を済ませて椅子に座る。


 面接の順番を待つあいだ、廊下の窓から見える空は白かった。雪雲が低く垂れ込め、日本海側らしい重たい光が、庁舎の外壁を平板に照らしている。


 俺は深く息を吐いた。


 落ち着け。


 余計なことを考えるな。


 面接を受けて、帰りに神社へ寄る。それでいい。


 そう自分に言い聞かせていると、会議室の扉が開き、先の受験者が頭を下げて出てきた。少し青い顔をしていた。続いて名前を呼ばれ、俺は立ち上がる。


 会議室の中は、すこし眩しいくらいに明るかった。


 長机がコの字に並べられ、その向こうに面接官が四人座っている。中央に人事らしい年配の男、その両隣に女性が一人ずつ。いちばん端に、少しだけ場違いな男がいた。


 烏丸だ。


 このとき初めて名前を知ったわけではない。名札も置かれていたはずだ。ただ、そのときの俺は名前より、彼だけが県庁の人間らしい顔をしていないことのほうが気になっていた。


 ネクタイはゆるく、椅子にもたれた姿勢はどこか気怠げだ。なのに目だけが、妙に静かで、濁っていない。人の内側を覗き込むのに慣れている目だった。


 定型の質問が始まる。


 経歴。志望動機。これまでの職務経験。どれも想定の範囲内で、俺もそれなりに答えた。少なくとも、取り繕うことくらいはできる。社会人を何年かやっていれば、そういう受け答えは身につく。


 だが、三つ目か四つ目の質問のあとで、空気が変わった。


 端に座っていた烏丸が、手元の書類から顔を上げたのだ。


「近藤さん」


「はい」


「あなた、昔から人には見えないものが見えることがありますか」


 心臓が、一拍だけ遅れた。


 人事の男が少し眉を動かした。ほかの面接官も一瞬だけ視線を交わしたが、誰も止めない。事前に想定された質問ではないはずなのに、この男だけはその逸脱を当然のように口にした。


「……質問の意味が、よく」


「曖昧で構わない。あるか、ないかで答えてください」


 俺は口を閉ざした。


 普通なら、笑ってごまかすところだ。そんなもの見えませんよ、と。子どもじゃあるまいし、と。


 だが烏丸の目は、からかいとも試しとも違った。まるで、もう答えの半分を知っていて、確認だけを求めているような視線だった。


「あります」


 気づけば、そう答えていた。


 会議室が静まる。


 空調の音がやけに大きく聞こえた。


「どんなふうに」


 烏丸が続ける。


「人の形をして見えることもあります。そうじゃないときもある」


「それは怖いですか」


「昔は」


「今は」


「慣れました」


「慣れた結果、どうしています」


 俺は少しだけ息を止めてから言った。


「見ないふりをしてます」


「でも、見える?」


「見えます」


「なるほど」


 烏丸は頷いた。その頷き方があまりにも自然で、俺は逆にぞっとした。


 この人は、信じている。


 信じるというより、最初からその前提で物を聞いている。


「もう一つ」


 烏丸の視線が、俺の上着のポケットに落ちた。


「あなた、今、何か持っていますね」


 背中に冷たいものが走った。


 ポケットの中には、朝に拾ったお守りがある。


 会議室の暖房で少し温まっているはずなのに、そこだけひどく冷たい気がした。


 断定ではなく、探る声だった。


 俺は一瞬だけ言葉に詰まる。


「どうしてそう思うんです」


「あなたの右肩の後ろに、女が立っています」


 その瞬間、全身の毛が逆立った。


「安心してください。ほかの人には見えていません」


 会議室の空気が凍る。


 正確には、ほかの面接官たちは何も見えていないのだろう。ただ、烏丸が唐突にそんなことを言い出したせいで、場の緊張だけが不自然に張り詰めた。


 俺は反射的に振り向きかけて、やめた。


 振り向かなくても分かった。


 あの神社の前にいた女だ。


 ここまで来ている。


「その女、あなたの顔より先に、ずっとポケットのあたりを見ている」


 烏丸は静かに言った。


「違いますか」


 俺はゆっくりと息を吐いた。


「……見えてるんですか」


「女のほうは見えている」


 烏丸はそこで言葉を切った。


「だから聞いています。あなたは何を持っているんですか?」


 この人は分かっていない。


 少なくとも、俺に見えている細い線までは見えていない。ただ、女の視線と俺の不自然な反応から、何か関わりがあると読んでいるだけだ。


 そのことが、かえって現実味を持って迫ってきた。


 俺はもう隠しても仕方がないと思った。


 ポケットからお守りを取り出し、机の上に置く。白地に薄桃色の刺繍。くたびれた布の表面に、面接室の白い光が頼りなく反射する。


 ほかの面接官たちは完全に置いていかれていたが、烏丸だけはそのお守りを見て、わずかに目を細めた。


「安産守りか」


「たぶん」


「拾ったんですか」


「……はい」


「今朝?」


「はい、神社の前で」


「返そうとした?」


「返納箱には戻そうとしました」


「それで、なぜやめたんです?」


「声がしたからです」


「その女から?」


「はい」


 烏丸は机上のお守りを手に取らない。ただ、視線だけを置いたまま言った。


「何と」


「捨てないで、と。あと……そこじゃない、と」


 烏丸は黙って頷いた。


 何か考えている顔だったが、分かったふりはしない。その沈黙が、むしろ信用できた。


「近藤さん」


「はい」


「これは質問です。あなたには、その女もしくはそのお守りに対して、何かが見えていますか」


 俺は息を呑んだ。


 聞き方が、正確だったからだ。


 見えている、と言ったわけではない。ただ、俺のほうに何か追加で見えているのではないか、と問うている。


「……見えてます」


 会議室の空気が、さらに深く沈んだ気がした。


「どんなふうに」


「細い線みたいなものが」


 口に出すのは、これが初めてだったかもしれない。


 少なくとも、面と向かって真面目に聞かれたことはなかった。


「その女から、お守りに伸びてます。人にはつながってない。物とか、場所とか、そういうものにつながることが多いです」


 烏丸の目が、そこで初めてはっきりと動いた。


 驚きだった。


 それも、取り繕って隠せる程度の薄いものじゃない。長く何かを見てきた人間が、自分の知らなかった地図を渡されたときの驚きだった。


「……線」


 小さく反芻する声。


「君には、そういうものまで見えるのか」


「あなたには見えないんですか」


 思わずそう聞き返してから、面接中に何を言っているんだと自分で思った。


 だが烏丸は咎めず、ただ首を横に振った。


「見えない。そこの女は見える。だが、今君が言ったようなものは初めて聞いた」


 それを聞いて、俺は逆に少しだけ肩の力が抜けた。


 やはりそうだったのだ。


 この人は俺と同じではない。けれど、まったく見えない側でもない。その半端なずれ方が、今は妙に救いだった。


「なるほど」


 彼は椅子から少しだけ身を乗り出し、お守りを見たまま続けた。


「俺には線は見えない。だから、今の話をそのまま鵜呑みにするしかないが、少なくとも、その女がこれに強く執着しているのは確かだ」


 面接にはまるで不似合いな会話だった。


 けれどその言葉は、やけにまっとうに聞こえた。分からないものを分からないと言ったうえで、見えている事実だけで判断しようとしているからだ。


「あなた、そのお守りをどうするつもりでした」


「帰りに神社へ戻るつもりでした」


「それで片がつくと?」


「・・・分かりません」


「正直でいい」


 烏丸はそう言ってから、会議室の隅にあった白い封筒を一枚持ってきた。


「これに入れて持っていてください」


「面接中に、ですか」


「面接中にも、そのあともだ。今ここで捨てたり、置いて帰ったりしないこと」


「どうしてです」


「君の話が本当なら、これはその女にとってただの布切れじゃない。雑に扱えば、余計こじれる」


 俺は言われるまま、お守りを封筒に入れた。


 そのあいだも、右肩の後ろの女の気配は消えない。視線だけが、封筒へ向いている。


「面接の続きですが」


 烏丸は何事もなかったように席へ戻った。


「あなたは、見えてしまうものを無視しながら働くことに、限界を感じていますか」


 その質問だけが、ほかのすべてよりも真っ直ぐだった。


 俺はしばらく黙っていた。


 面接の正解じゃないと思った。たぶん、こんな答えはどこの職場でも歓迎されない。けれど、この場でだけは、下手な建前のほうが見透かされる気がした。


「感じてます」


 そう言うと、自分の声が少し掠れた。


「見えない人たちの中で、見えないふりを続けるの、正直しんどいです」


 烏丸は何も言わずに聞いていた。


「でも、見えるからってどうしていいかは分からない。助けるとか、そういう立派な話じゃなくて・・・ただ、放っておけないときがあるだけです」


「十分です」


 烏丸は静かに言った。


「少なくとも、君は見たものを最初から踏みにじる人間じゃない」


 その言葉が、面接の評価なのか、別の何かなのか、そのときの俺には分からなかった。


 分からなかったが、奇妙に胸に残った。


 面接が終わったあと、廊下に出ると足元が少し浮ついていた。


 うまくいったとも失敗したとも言えない。県庁の面接で、幽霊の話とお守りの扱いについて真顔で問われるなんて、想定の範囲外にもほどがある。


 会議室の扉が閉まる。


 俺はその場でひとつ息を吐いた。


「近藤さん」


 後ろから声をかけられ、振り向く。


 烏丸だった。


 さっきまで面接官席にいた男が、廊下に立っている。面接のときよりも少しだけ人間らしい顔に見えたが、それでもどこかこちら側と地続きではない気配があった。


「少し時間ありますか」


「・・・何ですか」


「そのお守りの件で」


 俺は思わず封筒の入ったポケットを押さえた。


 女はまだいた。


 今度は廊下の窓際に立ち、外の白い空を背にして、やはり封筒の膨らみを見ている。ほかの職員が横を通っても、誰一人気づかない。


「ここじゃ話しにくい。階段の踊り場でいいですか」


 断る理由が思いつかなかった。


 というより、俺自身、このまま帰っていい話ではないと感じていたのだと思う。面接の場であんなことを言われて、何も聞かずに立ち去れるほど、神経が太くなかった。


 俺は小さく頷き、烏丸のあとをついていった。


 非常階段の踊り場は静かだった。曇りガラス越しの光が白く、コンクリートの壁に薄く染みている。下の階から、遠く誰かの足音だけが響いてきた。


 烏丸は手すりにもたれ、俺を見た。


「まず先に話しておきたいんだが」


「はい」


「さっきの面接で、俺は君が見ているものを全部分かっていたわけじゃない」


 俺は少しだけ目を上げた。


「女の姿は見えていた。君がポケットを気にしているのも見えた。だから、何か持ってるんじゃないかと当てにいっただけだ」


「当てにいったって」


「半分は勘だよ」


 あっさり言われて、気が抜けた。


 だが、その軽さのあとで続いた言葉は真面目だった。


「それと、君が話した線のことは本当に初耳だ」


 俺は黙った。


 烏丸は曇りガラス越しの白い光の中で、さっきよりも少しだけ鋭い目をしていた。


「もう一度、教えてもらえるかな」


「何をです」


「君には、何が見えているのか」


 階段の踊り場の静けさのなかで、俺は自分の呼吸だけを少し長く聞いた。


 ここで言えば、引き返せなくなる気がした。だがもう、面接室で半分は口にしてしまっている。


「幽霊が見えます」


「それは知ってる」


「それだけじゃなくて・・・そいつらから、何かへ伸びる線が見えることがあります」


「何か、というのは」


「物とか、場所とか。思い出の品みたいなものもある。石とか、車とか、茶碗とか、そういう、ちゃんとそこにあるものです」


「人じゃなく?」


「人にはつながりません。生きてる人間に、直接つながってるのは見たことがないです」


 烏丸はそこで初めて、はっきりと息を止めた。


 考えている。


 知らなかった情報を、自分の中のどこかへ組み込もうとしている顔だった。


「その女は」


「お守りにつながってます」


「本人そのものじゃなく、怪異として現れている何かが、お守りに引かれている」


「たぶん」


「この女性は生霊に近いのか?」


「俺もそう思いました」


 烏丸は小さく頷いた。


「なるほどな・・・」


 その独り言は、分かった、ではなく、ようやく入口が見えた、という響きだった。


「君の書類がこっちに回ってきた時点で、事前の身辺調査で何か事情があったはずだ。ただ、線のことまでは俺も想定してなかった」


 そこまで言ってから、烏丸はまっすぐ俺を見た。


「近藤さん。そのお守り、捨てないように」


「捨てませんよ、もう」


「なくさないこと。雑に扱わないこと。できれば今夜、枕元に置かないほうがいい」


「不吉なこと言いますね」


「不吉というより経験則だ」


「本当に県庁の人なんですか、あなた」


「一応ね」


 烏丸は肩をすくめた。


「もし採用の連絡が来たら、また会おう。その時は正式に説明する。来なかったら・・・」


「来なかったら?」


「そのときは、お守りだけ受け取りに行く」


 冗談みたいな台詞だったが、声はまったく冗談ではなかった。


 俺は非常階段の踊り場に立ち尽くしたまま、その男を見ていた。面接官とも、公務員とも、怪異の専門家ともつかない。けれど少なくとも、自分がこれまで一人で抱えてきたものを、最初から存在しないことにはしない人間だった。


 それだけで、十分に厄介だった。


 烏丸は踵を返し、階段を上がっていく。


 その背中を見送りながら、俺はようやく、踊り場の窓際に女が立っていることに気づいた。


 神社の前と同じ顔。


 疲れた目。


 けれどさっきより、ほんの少しだけ表情がやわらいで見えた。


 足元から伸びる線は、変わらず俺のポケットの封筒へ向いている。


 俺は小さく息を吐いて、コートの上からお守りを押さえた。


「・・・面倒なのに引っかかったな」


 女は答えない。


 ただ、それでも、さっきより少しだけその場に立つ形が安定したように見えた。


 その日、採用通知が来る前から、俺の人生はたぶんもう地下二階へ片足を突っ込んでいたのだと思う。


 県庁の面接を受けに来ただけのはずだったのに、帰るころには、見えてしまうものを「見えている」と言い切る男と、捨てられない古いお守りと、疲れきった生霊じみた異類を抱えていた。


 まともじゃない。


 だが、そのまともじゃなさの輪郭だけが、不思議と現実味を持っていた。


 エレベーターが一階に着き、扉が開く音で、俺は現在へ引き戻された。


 県庁ロビーの白い光。


 行き交う職員たちの足音。


 面接の日と同じ建物の中にいるのに、もうだいぶ遠い場所まで来てしまった気がする。


 烏丸はそのまま庁舎裏の通用口へ向かって歩いていく。


「今、思い出してた顔をしていたな」


「顔で分かるんですか」


「だいたい」


「便利ですね」


「そうでもない」


 通用口を抜けると、外の空気は思ったより冷たかった。雲は相変わらず低く、駐車場の端には冬の汚れた雪が少しだけ残っている。公用車らしい白い軽ワゴンが並ぶなか、烏丸はいちばん端の一台の鍵を開けた。


「あの日のお守り、今日は持ってるか」


 胸がわずかに強ばる。


 俺は無意識に、内ポケットへ手をやった。


 地下二階へ案内される直前、家を出る前の癖で財布と一緒に入れた封筒が、まだそこにある。採用通知を受け取ってからも、結局処分できなかったのだ。


「・・・あります」


「そうか」


 烏丸はそれだけ言って、運転席に乗り込んだ。


「なら話が早い。今後の現場に、その件も少し関わるかもしれない」


「少しって」


「少しだ」


 助手席に乗り込みながら、俺は嫌な予感しかしなかった。


 面接の日に拾ったお守り。


 それにつながる生霊じみた女。


 採用通知と地下二階。


 その全部が、別々の話じゃなく、同じ流れの中にあるのだとしたら。


 俺はシートベルトを締めながら、曇ったフロントガラスの向こうの鉛色の空を見た。


 暁田の春は、まだ冬の底にいた。


 公用車のドアを閉めると、外の風の音がひとつ遠くなった。


 白い軽ワゴンの車内は、県庁の地下よりはいくらかましだったが、それでも新車の清潔さとはほど遠い。ダッシュボードの隅に薄い埃がたまり、助手席の足元には誰かが落としたらしいレシートの切れ端が挟まっている。内装の灰色は日に焼けて少し黄ばんでいて、長く役所の車として使われてきた時間が、そのまま染みついていた。


 烏丸はキーを回し、エンジンをかけた。冷えた機械音が一度震えてから、低く安定する。


 フロントガラスの向こうに、鉛色の雲が広がっている。四月の空なのに、春より先に冬の疲れが残っているような色だった。


 俺はシートベルトを締めながら、胸の内ポケットを無意識に押さえた。白い封筒の輪郭が、スーツ越しにまだそこにある。面接の日に拾ったお守り。あの生霊じみた女の気配は、車に乗り込む前からはっきりとは見えていなかったが、消えたわけではないと、どこかで分かっていた。


「そんなに固くなるな」


 烏丸が前を向いたまま言った。


「初出勤でいきなり現場へ連行されるのは、まあ、想定外だろうな」


「自覚はあるんですね」


「あるよ。だが人手が足りない」


 あまりにも率直で、俺は一瞬だけ笑いそうになった。


 笑うような状況でもないのに、こういう調子で言われると、怒る気力のほうが削がれていく。


 車は県庁の駐車場をゆっくり出て、庁舎裏の細い通路から表通りへ出た。昼前の車道は混んでいるほどではないが、それなりに車が流れている。春先の湿った空気が路面を薄く光らせ、信号待ちの列の上に曇天の白さが均一にのしかかっていた。


 しばらくは、ワイパーの動かないフロントガラス越しに、街の色だけが流れていった。コンビニ、ドラッグストア、潰れたパチンコ屋、壁面だけ新しくした昔ながらの食堂。暁田の街は、どこも新しくなりきれない。古いものの上に新しいものを載せ、その新しさもまたじきにくすんで、全体としてひとつの鈍い色に落ち着いていく。


「現場って、どこです」


 ようやく口を開くと、烏丸はハンドルを切りながら答えた。


「市の外れだ。昔の路線バスの停留所」


「昔の、というと」


「今も一応、停留所ではある。ただ、本数が極端に少ない。利用者もほとんどいない」


「そんなところに異類が?」


「いる」


 短い返事だった。


 断言する調子に迷いがない。見た、と言っているのと同じ声だ。


「誰の報告なんです?」


「半分は俺。半分は交通政策課から流れてきた話だ」


「交通政策課?」


「路線再編の資料整理をしていた職員が、古い停留所の写真に何度も同じ婆さんが写り込んでると騒いだ。もちろん、普通の写真に写るわけじゃない。そいつがちょっと感応のある人間だったんだろうな」


「ちょっと感応のある人間って、そんなにいるんですか」


「そんなにはいない。だが、まったくいないわけでもない。世の中には、見えても口にしない人間が、案外いる」


 それは妙に腑に落ちた。


 俺だけが特別おかしいのだと思っていたが、見え方の差はあっても、まるで無縁の人間ばかりでもないらしい。


 信号で止まる。歩道を自転車の高校生が二人、肩をすぼめるようにして走っていった。風は弱いが、まだ寒い。そういう季節の半端さが町のあちこちに残っていた。


「ひとつ聞いていいですか」


「なんだ」


「異類対策課って、結局何をする課なんです?」


 烏丸は赤信号の先を見たまま、少しだけ考えるように間を置いた。


「県庁の内部用語として、怪異全般を異類と呼ぶ話はしたな」


「はい」


「世間で言えば、幽霊、妖怪、土地神、よく分からないもの、そのへんをまとめた雑な呼び方だ。公文書に『幽霊』と書くわけにもいかないからな」


「それはまあ、そうでしょうけど」


「俺たちの仕事は、退治じゃない」


 烏丸の声が少し低くなった。


「まず観測する。何がいるのか、どこにいるのか、何に引かれているのかを調べる。話が通じるなら聞き取りもする。必要なら過去の記録を洗う。土地の履歴、家の名義、廃線、閉鎖、祭祀の変遷、そういうものを拾って、異類がそこに残っている理由を突き止める」


「理由が分かったら?」


「害をなしているならやめさせる。苦しんでるなら理由を探して手助けをする」


「どうやって?」


「話が通じるなら交渉や聞き取りをする、だが話が通じないやつも多い。でも、これからは君がいる」


 信号が青に変わり、車が静かに前へ出る。


「君にしか見えないものが、その理由を指しているのなら、解決の糸口に近づける。そうやって暁田に存在する異類たちと共存を促し、時には救う」


「救う?」


「いわゆる成仏ってやつだな、心残りを払拭させる。それをうちは介錯と呼んでいる」


 その言葉だけは、地下の部屋で聞いたどんな説明よりも、はっきり耳に残った。


 介錯。


 切って捨てるための言葉ではない。もっと古くて、もっと人の手つきに近い響きがある。


「なんで県庁職員がそんなことを?」


「暁田県に住んでいるのは、人だけじゃない。虫、魚、野生動物、幽霊や妖怪、神様だってそうだ。県庁職員ってのは、その土地に住む者のために働くもんだろう」


 妙に納得感のある理由だった、胸にすっと落ちるとはまさにこのことだろう。


 烏丸が続ける。


「異類の中には怨みが強いのもいる。話の通じないのもいる。だが大抵は、ただ残っているだけだ。自分が何に引っかかっているのかうまく言えないまま、時間の外に取り残されてる」


「時代の迷子、みたいな」


 ぽろりと口をついて出た。


 烏丸がちらりとこちらを見た。


「悪くない言い方だな」


「思いついただけです」


「たいてい、いい言葉は思いつきで出る」


 それきり、車内はしばらく静かになった。


 街中を抜けるにつれて、景色の密度が変わっていく。低い建物がまばらになり、空が少し広がる。道端にはまだ雪解けの名残が黒ずんで残り、その向こうに田んぼがひろがっていた。遠くに見える山はまだ薄く雪をかぶっていて、春というより、長い冬がようやく息を継いだばかりの顔をしていた。


 道路脇の用水路を水が流れている。色のない水音だけが、窓を閉めた車の中にまで想像できた。


「お守りの件も、介錯の対象になるんですか」


 前を見たまま尋ねると、烏丸は少し首を傾けた。


「なるかどうかは、まだ分からん。あれは今日の案件そのものじゃない。ただ、おそらく君が抱えたまま放っておく類のものでもない」


「つまり」


「いずれ扱う」


 いずれ。


 その言い方に、嫌な確定があった。


 俺はため息を飲み込んで、窓の外を見る。田んぼの向こうに小さな集落が見えた。黒い屋根。背の低い家。屋根雪を落とすための金具が、まだ冬の道具として外されないまま残っている。郵便局の赤いマークだけが、風景の中でぽつんと鮮やかだった。


「課長」


「何だ」


「さっき地下にいた、作業着の男」


「あの男か、あれがどうした?」


 俺は少し迷ってから言った。


「線が繋がっていた先は古い消火器でした」


 烏丸は少しだけ眉を動かした。


「なるほどな。消防設備関係の記録から当たれそうだ」


「それだけで?」


「それだけで十分だよ」


 淡々とした声だった。


「君は気づいた場所を教える。俺は、それを現実の記録へ落とす。全部ひとりで分かる必要はない」


 全部ひとりで分かる必要はない。


 その一言が、思っていたより深く胸に落ちた。


 今までずっと、見えてしまうものは、自分ひとりでやり過ごすしかないと思っていた。気づいても説明できない。説明しても通じない。だから見ないふりをするしかない。そうやって生きてきた。


 けれど、この男は違う。見えない部分を見えないと言ったうえで、その先を現実の側から引き受けようとしている。


 妙な組み合わせだと思った。


 役所の課長と、自分にしか見えない線。噛み合うはずのないものが、なぜか歯車のように噛み合っている。


 車はやがて広い県道を離れ、山あいへ向かう二車線の道に入った。道の両側には杉が立ち、ところどころ集落の入り口を示す古びた看板が立っている。風景から店が消え、人よりも空き家のほうが目につくようになる。


 曇り空の下で、雪解け後の土だけが濃い色をしていた。


「その婆さん、いつからいるんです」


「少なくとも去年の冬にはいた。俺が最初に見たのは一月だ」


「ずっと?」


「ああ。いつ行っても、だいたい同じ時間に立ってる」


「バスを待ってるんですか?」


「たぶんな」


「乗るんじゃなくて?」


「乗りはしない、ただ降りてくる客の顔を覗き込んでるだけだ」


 想像するだけですこし気味が悪い。


「話はできるんですか」


「試した。だが、ほとんど通じない」


 ハンドルを持つ手が、わずかに動く。


「『まだ来ねえ』『今日は遅ぇな』と、その程度だ。こちらの問いかけに返ってくる時もあるが、会話というほどではない」


 道路脇に、バス停の小さな標識が見えた。だがそれは通り過ぎる途中の、別の停留所だ。青い看板の塗装が剥げ、時刻表の紙は雨でよれ、透明カバーの内側に虫の死骸が貼りついている。


 人が減った土地のバス停は、どこも少しずつ捨てられかけて見える。


「その異類から、君の言う線ってやつが出てれば、なにかわかるかもしれん」


 烏丸が言った。


「停留所そのものか、標識か、何か残された物か。そこが分かれば早い」


「分からなかったら?」


「地道にやる。地道にやるのは役所の得意分野だ」


 そう言って、珍しくほんの少しだけ口元を緩めた。


 俺は窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。


 そのとき、不意にバックミラーの向こうに白いものが映った気がした。


 反射的に視線を上げる。


 後部座席に、誰かがいる。


 紺のコート。ひとつに結ばれた髪。面接の日に神社の前で見た女だ。輪郭は相変わらず薄いが、確かにいる。座席の角に浅く腰かけるようにして、まっすぐ俺の胸元を見ていた。


 心臓がひとつ強く打った。


「どうした」


 烏丸が即座に気づく。


「・・・後ろ」


 俺がそう言うと、烏丸はバックミラーを一瞥して、ああ、とだけ言った。


「ああ、乗ってるみたいだな」


「普通に言わないでください」


「ほかにどうしろっていうんだ」


 もっともらしいようで、全然もっともらしくない理屈だった。


 女は何も言わない。ただ、封筒の入った内ポケットだけを見つめている。あれに引かれているのだということが、その視線だけで分かる。


「暴れたりはしない」


 烏丸が前を向いたまま言う。


「今のところ、な」


「最後の一言がいらないんですよ」


「安心させてもしょうがないだろう」


「安心したいんです、こっちは」


「無理だな」


 無理だな、で片づけられて、俺は額を押さえたくなった。


 だが、こうして車内に異類が同乗していても、烏丸がまるで珍しくもなさそうに運転を続けているせいで、こちらまで感覚が麻痺してくる。おかしいのに、少しずつそれが「普通」になりつつある。


 やがて道はさらに細くなり、川沿いの旧道へ入った。ガードレールの向こうを濁った雪解け水が流れ、その先に低い土手と田んぼが続いている。


「ここらへんだ」


 烏丸が速度を落とす。


 前方の左側に、古びたバス停が見えた。


 小さな待合小屋がある。透明だったはずの側面パネルは白く曇り、ところどころひびが入っている。鉄骨の塗装は錆び、屋根の端には去年の落ち葉が溜まったままだ。青い停留所標識には地名が書かれているが、文字は半分ほど日に焼けて褪せていた。


 その前に、ひとりの老婆が立っていた。


 遠目には本当に、そこらの年寄りに見えた。


 紺色の防寒コートに、えんじ色の毛糸帽、足元は長靴。片手には、買い物用らしい古いナイロンの手提げ袋を提げている。背中は少し曲がっているが、まっすぐ道路の先を見ていた。雪の消え残る路肩に立ち、まるで本当に、次に来る便を待っているみたいに。


 あまりにも自然にそこにいるせいで、生きている人と勘違いしそうになるが、

 よく見ると輪郭だけが、曇り空の光に薄く溶けている。


「見えるか」


 烏丸が小さく聞く。


「見えます」


「他には」


 俺は息を止めた。


 老婆から、一本の細い線が伸びている。


 半透明で、かすかに白い。その線は、老婆の手提げ袋でも、帽子でもなく、停留所の標識の根元を回り込んで、待合小屋の中の時刻表へつながっていた。


 透明カバーの内側に挟まれた紙。雨に濡れて何度も張り替えられたせいで、端が波打っている。今は使われていない古い便名が、下のほうにうっすら残っているのがここからでも見えた。


「時刻表です」


「現行のやつか?」


「……いや、上から貼り直されてるけど、下に古い紙が残ってます。そっちに伸びているようです。」


 烏丸は小さく頷いた。


「なるほど」


 車を少し離れた空き地に停める。エンジンが切れると、外の静けさがいきなり近づいた。川の音。風にこすれる枯れ草の音。遠くを走る大型車の鈍い唸り。人の声はない。


 後部座席の女は、いつのまにか見えなくなっていた。消えたのではなく、視界の外へ退いたのだろう。封筒を胸に抱えたまま、俺はドアを開けた。


 冷たい空気が頬に触れる。


 春というより、雪国の冬の続きみたいな空気だった。湿り気があり、骨の近くまで静かに冷えてくる。


「慌てて近づくなよ」


 烏丸が声を落として言う。


「普通の人間に声をかける時より、少し遠慮して入れ。驚かせると、同じことしか言わなくなる」


「分かりました」


「あと、君が見えたものは逐一教えてくれ」


「はい」


 俺たちはバス停へ歩いた。アスファルトはところどころひび割れ、路肩には砂利と去年の枯葉が吹き寄せられている。川風が吹くたび、待合小屋の屋根がかすかにきしんだ。


 老婆は俺たちが近づいても振り向かなかった。


 道路の先だけを見ている。白んだ空の下をまっすぐ伸びる道。その先に何かが来ると、まだ信じているように。


「こんにちは」


 まず烏丸が声をかけた。


 老婆の肩が、ほんの少しだけ揺れた。


「今日は寒いですね」


 返事はない。


 けれど、聞こえていないわけでもなさそうだった。白く濁った横顔が、わずかにこちらを向く。


「バス、待ってるんですか」


 烏丸が続ける。


 老婆はしばらく黙ってから、乾いた声で言った。


「まだ来ねえ」


 想像していたより、ずっと生きた人間のような声だった。


 かすれてはいるが、たしかに年寄りの女の声だ。県北のほうの訛りが少し混じっている。


「そっか、何時のやつかな?」


 烏丸の問いに、老婆は首をかしげる。


「昼さ来る」


「誰が乗ってくるんです?」


「来るはずだ」


 噛み合っているようで、噛み合っていない。言葉の意味はあるのに、会話としては閉じている。記憶の薄い層だけが何度も上に浮いてくるような感じだった。


 老婆の視線は俺たちを通り抜けて、道路の先へ戻る。


「遅ぇな……、雪で遅れだが」


 もう四月なのに、彼女の中ではまだ雪の日が続いているらしい。


 俺は待合小屋の中を見た。木製のベンチは塗装が剥げ、座面の端が黒く腐っている。ガラスの代わりの透明パネルには、昔の地域イベントのポスターが日焼けして貼りついたままだ。時刻表のカバーはビスが一本外れ、右下だけ浮いていた。


 線はそこへつながっている。


 俺は少し身を屈め、浮いたカバーの隙間から紙の層を覗き込んだ。表面には現行の簡素な時刻表。朝一便、昼一本、夕方一本。だがその下に、色の違う古い紙が何枚か重なっているのが見える。より多くの便名。もっと細かい時刻。今はもうない停車地。


「課長」


「何だ」


「昔はもっと本数があったみたいです」


 烏丸は頷き、老婆の横へ半歩だけ近づいた。


「誰を待ってるんですか」


 老婆は黙った。


 目尻に深い皺が寄っている。肌は薄く、骨ばった手が買い物袋の持ち手をきつく握っていた。その袋の中身は見えない。だが、妙に膨らみが変形していないところを見ると、何かが入っているわけではなく、持っているという形だけが残っているのかもしれない。


「息子さんか?」


 烏丸が言う。


 老婆は首を振らない。ただ、何か少し違うという影が顔をよぎる。


「娘さん?」


 反応はない。


「……孫か」


 その瞬間だけ、老婆の目が揺れた。


 ほんの小さな変化だった。だが、確かに揺れた。


「来るはずだ」


 さっきと同じ言葉なのに、今度は少しだけ芯があった。


「昼さ」


「どこから来る」


「向こうから」


 そう言って、老婆は道路の先を顎で示した。山を回り込んで市街地へ出るほうだ。学校も病院も買い物も、たいていそちらにある。


 烏丸はそれ以上は踏み込まなかった。今ここで無理に問い詰めても、壊れたレコードみたいに同じ言葉に戻るだけだと分かっているのだろう。


 俺は待合小屋の中に視線を残したまま、時刻表の下に重なった紙をもう一度見た。透明カバーの曇り越しでも、かろうじて読み取れる地名がある。今の路線図にはない、途中で廃止された集落名。そこに、細い線の先端がそっと触れている。


 時刻表そのものというより、その時刻表が示していた「来るはずだった時間」へ執着しているようにも見えた。


「課長、この人、今の時刻表見てないです」


「分かるのか」


「たぶん。見てるのは、前のほうです。もっと昔の便」


 烏丸は待合小屋の中へ入り、時刻表のカバーをそっと指で押した。浮いていた右下がわずかに沈む。


「なるほど。停留所そのものじゃなく、昔の便の記憶か」


 そのつぶやきは半分独り言で、半分は俺への確認だった。


 老婆はそれには反応しない。ただ、風に揺れる枯れ草の音の中で、道の先だけを見ている。


「今日は、来ると思いますか?」


 なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。


 ふと、そう聞いてみたくなったのだ。


 老婆はゆっくりこちらを向いた。顔は薄く霞んでいるのに、目だけが妙にはっきり見えた。


「来る。約束した」


 その一言に、川沿いの空気がひどく静かになった気がした。


 約束。


 俺の胸のあたりで、内ポケットの封筒がわずかに重くなったように感じた。後部座席にいた女の異類のことが、ふいに頭をよぎる。あれもまた、約束にも似た何かへ引かれていたのかもしれない。


 烏丸もその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。


「いつの約束だ」


 老人に尋ねるような穏やかさで問う。


 だが老婆は答えない。


 道の先に視線を戻し、また最初の場所へ帰る。


「まだ来ねえな」


 声は、さっきより少しだけ弱かった。


 そのとき、遠くでエンジン音がした。


 大型のトラックが県道からこちらへ折れてくる音だ。やがて白い配送車が角を曲がって現れ、スピードを落とすこともなく停留所の前を通り過ぎていく。風だけが巻き込み、老婆のコートの裾を揺らした。


 老婆は一歩だけ前へ出かけて、出ないまま止まった。


 違う。


 その背中が、そう言っていた。


 違う車だと分かっているのに、それでも体だけが一瞬、待つほうへ傾いたのだ。


 俺は喉の奥が少し苦くなるのを感じた。


 この人はずっと、こうしているのだろうか。来るはずのないものに体を向け、そのたびに違うと知って、また立ち直って、次を待つ。時間だけが進んで、自分だけが進めないまま。


「ここまでだな」


 烏丸が小さく言った。


「え?」


「今、声をかけ続けても、これ以上なにか情報は取れない」


 たしかにそうだった。老婆の言葉はもう閉じかけている。記憶の薄皮だけが残り、その下へは手が届かない。


「じゃあ、どうするんです?」


「まず、名前を探す」


 烏丸は待合小屋から外へ出て、停留所標識の地名を確認した。地名は古い集落名だった。市町村合併で住所の表記が変わったはずの、今ではあまり使われない呼び方だ。


「この路線の廃止履歴と、周辺の住民台帳、それから福祉バスへの切り替え時期を当たる。昔、ここを利用していた高齢世帯の中に、孫の通学や帰省に強く結びつく家があるかもしれん」


「そんなので分かるんですか?」


「分からないことも多い。だが、分かることもある」


 烏丸はそこで俺を見た。


「君は何を見たか覚えておけ。線の先、婆さんの言葉、立ち位置、持ち物。どれも記録になる」


 記録になる。


 不思議な言い方だった。普通なら、こういう目に見えない話は証拠にも記録にもならない。けれどこの課では、見えたものが見えたという事実そのものが、調査の起点になるのだ。


 俺はもう一度老婆を見た。


 風が吹くたび、輪郭が薄くなる。消えそうで、けれど消えない。待合小屋の曇ったパネルに、その姿が淡く映っている。そこにいるのに、誰にも見送られない人の影みたいだった。


「課長」


「何だ」


「もし身元が分かったとして」


「うん」


「その先は?」


 烏丸は少しだけ間を置いた。


「確かめる。待っていたものが何だったのか、なぜここに残ったのか、その約束がもう終わっているのか、それとも終わっていないのか」


「終わっていなかったら?」


「終わらせる」


 その声は静かで、当たり前のことを言うみたいだった。


 だが、その当たり前が、俺にはまだ少し遠い。


 異類を見つけて、事情を調べて、終わらせる。言葉にすれば簡単だが、その間にはたぶん、人間のほうの生活や後悔や忘却が、いくつも横たわっている。


 老婆はまた、道路の先を見ていた。


 昼のバスなど、もう来ないのかもしれない。来たとしても、彼女が待っている便ではないのかもしれない。それでも彼女は待っている。約束した、と言ったその一言だけで、ここに残っている。


 川向こうの空が、少しだけ明るくなった。雲の切れ目というほどではないが、重たい白の向こうに薄い光がある。けれど地上の色は変わらない。枯れ草も、汚れた雪も、曇った時刻表のカバーも、みな同じ鈍い色のままだった。


「今日はここまでだ」


 烏丸が言った。


「え、帰るんですか」


「現場を見た。線の先も分かった。これ以上は書類仕事だ」


「急に役所っぽくなりましたね」


「最初から役所だよ」


 そう返してから、烏丸は老婆へ向き直った。


「また来ます」


 それは俺に聞かせるための台詞でも、形式的な挨拶でもなく、ほんとうに約束を返すみたいな言い方だった。


 老婆は答えない。


 ただ、少しだけ顎を上げて、遠い道を見たまま立っている。


 俺たちは停留所を離れた。背中に老婆の視線は感じない。それでも、あの場所に置いてきた気配は、車へ戻るまでずっと背後にあった。


 助手席に乗り込み、ドアを閉める。


 風の音がまた遠くなる。


 烏丸はエンジンをかける前に、小さなメモ帳を取り出して何かを書きつけた。停留所名、時刻、言葉。そんなところだろう。字は思ったより整っていた。


「課長」


「うん?」


「さっきの、約束したっていうのは」


「ああ」


「孫が、本当に約束してたんでしょうか」


 烏丸はメモ帳を閉じ、少しだけ考える顔をした。


「していたかもしれないし、していないかもしれない」


「どっちです」


「分からん。だが、婆さんの中では確かにあった」


 エンジンが低く唸る。


「人間はな、約束そのものより、約束を待っていた時間に縛られることがある」


 その言葉が、妙に胸に残った。


 待っていた時間に縛られる。


 来なかったものより、そのときの自分のほうが、その場に残ってしまう。そういうことなのかもしれなかった。


 車はゆっくりと停留所を離れた。バックミラーの中で、老婆の姿が小さくなっていく。曇った待合小屋と一緒に、風景の一部みたいに遠ざかっていく。


 けれど完全に消える直前、俺にはもう一つだけ見えた。


 待合小屋の時刻表へ伸びた細い線のそばに、さらに細い、ほとんど見落としそうな揺らぎがある。線というほど明瞭ではない。まだ形にもならない何かだ。古い時刻表の下、貼り重ねられた紙の隙間から、別の場所へ向かおうとしているような、ごく弱い名残。


「課長」


「何だ」


「たぶん、線がもう一つあります」


 烏丸の目が、すっと鋭くなった。


「どこだ」


「まだはっきりしません。でも、時刻表だけじゃない。何か、そこから先に……別の場所か、別の物か」


「見えた時でいい。焦るな」


 そう言いながらも、烏丸の声には手応えを掴んだ時の静かな張りがあった。


 俺は後部座席を振り返った。


 今度は誰もいない。


 けれど胸の内ポケットだけが、相変わらずひそやかに重い。お守りの異類も、この婆さんも、たぶんどこかでつながっているわけではない。ただ、自分がこれから向かう仕事の輪郭を、それぞれ別の形で示しているのだと思った。


 見えるだけでは足りない。見えた先を、現実の記録や人の記憶と結び直さなければならない。


 その面倒さと、その面倒さの中にしか救えないものがあるということを、俺はまだうまく飲み込めないまま、川沿いの道を戻っていく景色を見ていた。


 暁田の春は遅い。


 雪が解けても、すぐには色づかない。土も川も空も、しばらくは黙ったままだ。けれど、その沈黙の下でだけ、ゆっくり動くものがある。


 忘れられないまま残るもの。


 待ち続けてしまうもの。


 時間から置いていかれても、なおそこに立っているもの。


 県庁の地下二階で自分が何に配属されたのか、その答えを、俺はあの停留所に立つ老婆の背中から少しだけ教えられた気がした。


 俺たちは山あいの道を引き返し、市街地のほうへハンドルを切った。


 次に向かうのは、役所の中の、記録と台帳と古い地図の山だ。


 けれど、さっき見た老婆の「まだ来ねえ」という声は、エンジン音の下にしばらく消えなかった。


 県庁へ戻るころには、空が朝よりもいっそう暗くなっていた。


 外はもう夕方の気配を帯びている。暁田の春先はそういうところがある。日が短いというより、空のほうが先に疲れてしまって、景色の上に早々と薄い影を落としてくるのだ。


 公用車が庁舎裏の駐車場に滑り込む。エンジンが止まると、車内を満たしていた振動だけがふっと消えて、かわりにどこか遠くの車道の音と、建物の室外機の鈍いうなりが耳に戻ってきた。


 俺はシートベルトを外しながら、内ポケットをそっと押さえる。白い封筒の感触が、まだ胸の裏に張りついている。面接の日に拾った、あの古いお守りだ。停留所にいたおばあさんの異類とは関係のないはずなのに、今日はどうにも「待つ」という感覚だけが、胸の中で同じ重さを持って沈んでいた。


「ぼうっとするな」


 先にドアを開けた烏丸が言った。


「初日で頭を使いすぎたら、ろくなまとめ方をしない」


「まとめ方って?」


「人は、分からないものを分かった話にしたがる」


 それだけ言って、烏丸は先に歩き出した。


 地下二階へ戻る途中、地上の廊下では職員たちがごく普通に行き交っていた。書類を抱えた若い職員。携帯電話を耳に当てたまま足早に曲がっていく女。コピー機の前で紙詰まりに困っている男。誰も、自分たちの足元にある地下の一室で、古い停留所に立つ死人の身元を調べようとしている人間がいるとは思っていないだろう。


 エレベーターで地下へ下りる。扉が開くと、湿った冷気と古い紙の匂いが迎えてきた。地下二階は、県庁の中というより、県庁が長年うまく言葉にできなかったものをしまっておく場所みたいだった。


 異類対策課の部屋へ戻ると、烏丸はコートを椅子の背に引っかけ、机の上に資料を広げた。


「まず整理する」


「はい」


「停留所。老婆の異類。線の先は古い時刻表。言葉は『まだ来ねえ』『来るはずだ』『約束した』。ここまではいいな」


「はい」


「で、ここから先は調査だ」


 烏丸はそう言って、机の端にあった古い地図ケースを引き寄せた。中から取り出したのは、だいぶ前の市内地図と、さらに古い住宅地図だった。紙は黄ばんでいて、折り目のところが少し擦り切れている。


 俺は向かいの椅子に腰を下ろし、停留所で見たものをメモに書き出した。待合小屋の曇ったパネル、浮いた時刻表のカバー、買い物袋、紺のコート、えんじの毛糸帽、風が吹いたとき一歩だけ前へ出かけた足。孫か、と烏丸が尋ねた瞬間だけ揺れた目。


 書きながら、俺はさっきの停留所を思い出していた。


 春になりきれない川沿いの風。バス停の錆。来るはずのものが、もう来ない風景。

 それなのにおばあさんだけが、そこで時間の続きを待っている。


「明日は、近隣住民に話を聞く」


 地図を見ながら烏丸が言った。


「今日は暗くなる。聞き込みは明日の朝だ」


「今から役場の記録を先に見るんですか」


「見る。住民票だけじゃ足りない。死亡届も当たる」


 そこで俺は顔を上げた。


「死亡届…」


「存命だと仮定して考えるな、ということだ」


 烏丸は平たい声で言う。


「異類は本人がもういないから異類なんだ。もちろん生霊のような例外はあるが、あの婆さんは土地に残っている感じが強い。まずは亡くなっている線で当たる」


 その言い方に、俺は少しだけ息を止めた。


 停留所に立つおばあさんが、もう死んでいるかもしれない。頭では当然ありえると分かっていたはずなのに、改めて言葉にされると、さっき見た背中が急に遠いものになる。


 烏丸は内線を取った。市民課と戸籍住民担当に近い部署へ、旧停留所沿線の高齢女性死亡届の照会をかける。内部照会として通す声は静かで、よどみがない。


「旧優和線、石多停留所周辺。過去十年で死亡した高齢女性。できれば同居家族構成の推移も。……ええ、現地対応案件です」


 次に交通政策課へ連絡し、古い時刻表と廃止前の路線改編資料、それから住民説明会の議事録を回してもらうよう頼んだ。


「そんなに簡単に出るんですか?」


「簡単じゃない。だが、急ぐ時の筋はある」


「課長って、思ってたよりちゃんと役所の人ですね」


「失礼だな」


「褒めてます」


「褒め言葉としては微妙だ」


 そう言いながらも、烏丸は少しだけ口元を緩めた。


 待っている間、俺は机に広げられた住宅地図を眺めた。停留所の近くには家が少ない。川沿いに数軒、少し奥に入ったところにまとまった集落。そのいくつかには赤字で「空家」と書き込まれていた。今はもう人が住んでいないのだろう。


「停留所から見えた家、覚えてるか」


「何軒かは」


 俺は記憶を手繰った。道向かいの空き家。黒い瓦屋根。郵便受けの赤い家。坂を少し上がった先の、手すりのある玄関。そういう断片を口にすると、烏丸は地図の上へ淡々と印をつけていく。


「このへんなら、聞き込みの範囲もそう広くない」


「近所の人が覚えてるもんですかね?」


「田舎の停留所と年寄りは、意外とみんな見てたりするもんだ」


 それはたぶん本当だった。都会の駅前ならともかく、山あいの停留所で毎日のように同じ年寄りが立っていれば、誰かの視界には必ず入る。見慣れてしまって気にも留めなくなることはあっても、いなくなれば分かる程度には、そこにいる。


 やがて、課内の古いプリンターが唸りを上げた。交通政策課から送られてきた古い路線図と時刻表データの写しらしい。烏丸が紙を取りに行き、机に並べていく。


 俺はその一枚を見て、息を止めた。


 古い時刻表には、今では存在しない昼便がはっきり載っていた。市街地から出て、いくつもの小集落を回り、問題の停留所に十二時台に着く便だ。帰省や通院、買い物の生活時間にぴったり重なる。


「これだな」


 烏丸が紙の一点を指で押さえる。


「君が見た線の先は、たぶんこの便だ」


 俺は黙って頷いた。


 ただの時刻表ではない。昼の便そのものに、おばあさんの時間が結びついている。そう思うと、あの「来るはずだ」という言葉の輪郭が少しだけ濃くなった。


 その後、住民系の照会も返ってきた。今度の紙は、もっと無機質だった。旧停留所周辺の対象世帯一覧。死亡者の有無。家族構成の概略。施設入所の記録。どれも短い文字列で、人ひとりの生活が机の上に平らに畳まれている。


 烏丸はそこから、いくつかの候補を消していった。


「一人暮らしの老女、違う。施設入所だけで死亡記録なし、違う。夫婦のみ、これも違う」


「何が基準なんです?」


「君の見た感じと、停留所との距離と、家族構成だ。あの婆さんには『待つ相手』がいた。なら独居より、同居世帯のほうが筋が通る」


 指先がある一行で止まった。


 死亡した高齢女性。娘夫婦と同居歴あり。孫の同居歴あり。住所は、停留所から徒歩圏内。


 紙の上の字はそれだけなのに、そこだけ妙に重く見えた。


「これか」


 烏丸が小さく言う。


 俺もその一行を見つめる。


 名字には覚えがない。だが、停留所に立っていたおばあさんの背中と、その家族構成だけは、妙にしっくり来た。


「娘夫婦と同居……」


「死亡時期は?」


「二年前」


 二年前。そのあいだも、停留所に残り続けていたのだろうか。


「娘さんたちは?」


「同住所継続。世帯主は婿。娘は配偶者。孫はすでに転出」


「どこへ?」


「都内だな」


 そこで烏丸は、別紙の転出先履歴を確認した。大学進学で一度県外へ出て、その後、就職で都内へ。住所は何度か移っている。落ち着いているようで落ち着いていない。若い人間の生活だ。


「孫が大学進学で家を出たのが、まず一つの節目か」


「見送り、ですかね?」


「可能性はある」


 烏丸はそう言ってから、交通政策課の議事録をめくった。


 路線改編前の地域説明会。意見交換。便数維持の要望。文字面はお役所の文体そのものだが、ところどころ生のメモが挟まっている。そこに、手書きで短い一文があった。


 『昼の便は残してほしい。学生の帰りや迎えに困る』


 さらに別のメモ。


 『孫が帰ってくる時、ここで待つのが楽しみだった』


 俺はその字面を見た瞬間、喉の奥が少し詰まった。


 議事録に残すにはあまりに私的で、けれどその私的さこそが、その人の生活そのものだったのだろう。


「これ、本人の発言ですか?」


「地区の意見として書き留められたものだろうな。名は伏せられてるが、年齢と地区は一致する」


 烏丸は、そこでようやく椅子に深く腰を下ろした。


「近いな」


「ええ、かなり」


「だが、まだ確定じゃない」


 そう言われても、俺の中ではもうかなりその人に重なっていた。娘夫婦と暮らし、孫を大学進学で見送り、帰省のたびに停留所で迎えていたおばあさん。バス停がただの交通施設ではなく、家族を見送って待ち続けた場所になっている。


「近所の人に聞けば、分かりますかね」


「分かるだろう」


「明日ですよね」


「いや」


 烏丸は時計を見て、立ち上がった。


「今から一軒だけ行く」


「え、今から?」


「暗くなる前に、顔を出せる家がある。道向かいの家だ。昔から地区の世話役をやってた婆さんがまだ元気なはずだ」


 俺たちは再び外へ出た。


 夕方の空気は、昼よりもさらに冷たかった。県庁を離れてもう一度川沿いの集落へ向かう車中で、空はどんどん鉛色を深めていく。山の端にはまだ雪が残り、畑の泥だけが濡れて重い色をしていた。


 停留所の近くまで戻ると、車はさらに細い道へ入った。家々の屋根は低く、どれも冬の積雪に耐えるためのつくりをしている。夕飯前の時間なのに、人影はあまりない。洗濯物だけが、冷たい風に乾ききらないまま揺れていた。


 訪ねたのは、停留所の斜向かいにある古い家だった。木の引き戸、すり減った玄関石、窓の内側にかけられたレースのカーテン。烏丸が名乗ると、ほどなくして腰の曲がった老女が出てきた。


 話を聞くと、やはりその人は停留所の向かいの家のおばあさんをよく知っていた。


「ああ、佐竹さんだべ」


 そう言って、老女はあっさりと名字を口にした。


「娘さん夫婦ど一緒に住んでらった。孫さ、たいそう目ぇかげでの」


 方言が強いが、意味は十分分かった。


 目にかけていた。かわいがっていた、ということだ。


「その孫さんは、大学で町さ出はってな。出る日も、帰ってくる日も、あの停留所まで出でらった。雪の日もだ」


 老女は俺たちを囲炉裏のない居間へ上げてくれ、ぬるくなりかけたお茶を出しながら話を続けた。


「ばあさん、あそこで待つの好きだったんだ。買い物の袋さ下げでな。帰ってきたら、あれも食わへる、これも持たせるって。孫さ会うたび、こっちまで聞がされで」


 俺は、停留所で見た買い物袋を思い出した。


 空ではなかった。あれは形だけじゃなく、習慣ごと残っていたのかもしれない。


「亡くなったのは二年前ですか?」


 烏丸が静かに尋ねると、老女の顔が少し曇った。


「そうだ。急に悪ぐなってな。もともと足腰は弱ってらったけど、最後はあっという間だった」


「お孫さんは?」


 老女は小さく首を振った。


「間に合わねがった」


 その一言に、部屋の空気が少しだけ沈んだ。


「都心さ勤めでて、休まれね会社だったらしい。娘さん、電話ば何度もしてだどもな。危ねってなっても、すぐには動げねがったみでだ」


 俺は膝の上の手を見た。


 間に合わなかった。


 それだけの事実が、停留所に立つおばあさんの背中を、さらに冷たくする。


「おばあさんは、最後まで何て言ってたか分かりますか?」


 烏丸が聞く。


 老女は少し目を伏せ、それから言った。


「孫が帰ってきたら、いっぱい甘やかしてやらねばって。疲れでらべがら、腹いっぱい食わせで、寝がせでやらねばって。そんなことばっかり言ってらった」


 俺は息を止めた。


 停留所で待っていたのは、会いたいからだけじゃない。叱りたいからでも、責めたいからでもない。ただ、帰ってきた孫を労いたかったのだ。


 その気持ちだけが、死んだあとも止まれない。


「お孫さんは今も都内ですか?」


「そう聞いでる。盆も正月も、前ほどは帰ってこね」


 老女はそう言ってから、少しだけ気まずそうに笑った。


「まあ、若ぇ人は忙しんだべ。こっちのもんは、待つぐれぇしかできねしな」


 待つぐらいしかできない。


 その言葉が、停留所の風景と重なって胸に残った。


 家を辞するころには、外はほとんど夕方の色になっていた。空はさらに低く、川の流れだけが鈍く銀色を帯びている。停留所のほうへ目をやると、待合小屋はもう薄暗くなっていて、その前におばあさんの異類がまだ立っているのが見えた。


 昼と同じ姿勢で、道の先を見ている。


 買い物袋を提げて。


 俺は車へ戻る前に、思わず足を止めた。


 おばあさんはこちらを見ない。ただ、来るはずの時間のほうだけを見ている。今はもう、夕方なのに。それでもあの人の中では、まだ昼の便が来る前なのだろう。


「行くぞ」


 烏丸に呼ばれて、俺はようやく車へ戻った。


 県庁に戻る道の途中、車内はしばらく静かだった。ワイパーは動いていないのに、フロントガラスの向こうの空だけが、今にも雪に変わりそうな色をしている。


「……課長」


「何だ」


「お孫さん、相当きついですね」


「だろうな」


「帰れなかったこと、今も引きずってると思いますか?」


 烏丸はすぐには答えなかった。しばらく前を見たまま走ってから、低く言った。


「引きずってなかったら、たぶん残らない」


「残る?」


「婆さんの異類だけじゃない。家族の側にも、会わなかった時間は残る」


 その言い方は、慰めではなかった。ただ事実としてそう言っているだけなのに、かえって重かった。


 地下二階へ戻り、俺たちは聞き取りの内容を記録に起こした。老女の話。家族構成。大学進学の見送り。帰省のたびの出迎え。危篤に間に合わなかったこと。死の間際まで「甘やかしてやりたい」と漏らしていたこと。


 紙に書くと、それはあまりにも簡単な文章になった。


 けれど、その一文一文の向こうに、停留所へ立つおばあさんの時間がある。昼の便に合わせて身支度をし、袋を持ち、風の強い日は少し帽子を深くかぶって、孫が降りてくるほうを待つ。その何年分もの積み重なりが、紙の上では数行にしかならない。


 烏丸は市民課からさらに孫の転出先と勤務先情報の補足を取り、関連部署へ確認をかけた。違法ではない範囲の、公務としての照会。そこから浮かび上がったのは、都心の小さな広告系企業だった。勤務時間は長く、離職率が高いことで知られている。表立って問題になっているわけではないが、少なくとも「急な帰省が容易な職場」ではなさそうだった。


「ブラック気味、か」


 烏丸が印刷された会社概要を見ながら言う。


「気味じゃなく、かなりじゃないですか」


「そこは今は本題じゃない」


「でも関係ありますよね」


「ある。だから会う」


 烏丸は机の上の電話を見た。


「今夜は遅い。明日の午前に連絡する。対面で話を聞く」


 俺は頷いた。


 ここまで来て、ようやく手がかりは一本の線になりはじめていた。


 おばあさんはすでに死んでいる。娘夫婦と同居し、孫を大学進学で見送り、帰省のたびに停留所で迎えていた。孫は都心で消耗するように働き、危篤にも立ち会えなかった。おばあさんは最期まで、帰ってきたらたくさん甘やかしてやりたいと口にしていた。


 そして亡くなったあとも、バス停で待ち続けている。


 それが分かってもなお、停留所のおばあさんの異類は、まだほどけない。


「課長」


「何だ?」


「明日、孫に会って、それで全部話すんですか?」


 烏丸は少しだけ考えてから答えた。


「全部は話さない」


「どこまで?」


「話せるところまでだ。だが、逃がさない」


「逃がさない?」


「婆さんが何を待っているのか、その孫本人に自分の言葉で見てもらう必要がある。見えるかどうかは別にしてな」


 地下二階の部屋は、外が暗くなっても何も変わらない。窓がないから、夜は音でしか分からない。けれど、今の俺には分かった。地上のどこかで一日が終わり、誰かが家に帰り、停留所に人がいなくなる時間になっても、あのおばあさんだけはまだ待っているのだ。


 紙の上に並んだ調査結果の向こうで、古い時刻表へつながる細い線が、いまも風の中で揺れている気がした。


 その線をほどくには、たぶん、記録だけでは足りない。


 待っていた人の言葉と、待たせてしまった人の言葉が、もう一度同じ場所へ戻る必要がある。


 俺はメモ帳を閉じ、胸の内ポケットの上からそっと手を当てた。中のお守りは何も言わない。書庫の影に立つ女の異類も、今はただ静かにこちらを見ているだけだ。


 地下二階には、待つものばかりが集まってくるのかもしれなかった。


 忘れられず、返されず、迎えに来てもらえず、それでもなお、その場所から動けないものたちが。


「帰るか」


 烏丸が資料をまとめながら言った。


「明日は長くなる」


「お孫さんに会うからですか?」


「ああ」


 彼はクリアファイルの端を揃え、最後に一枚、停留所の古い時刻表のコピーをいちばん上へ重ねた。


「次は、待ってる側じゃなく、帰れなかった側の話を聞く」


 おばあさんの身元は分かった。待ち続ける理由も、紙の上ではほとんど見えた。けれど本当にほどくべき結び目は、まだその先にある。


 都心で働く孫。


 危篤に間に合わなかった時間。


 帰れなかった罪悪感。


 そして、帰ってきたら甘やかしてやりたいと願ったまま死んだ祖母。


 地下二階の冷えた空気の中で、俺は明日会うことになるその孫の顔も知らないまま、停留所の風景だけを何度も思い浮かべていた。


 曇った待合小屋。


 昼の便。


 買い物袋。


 来るはずだ、と言う声。


 あの場所で待っていた時間が、まだ終わっていない。


 翌日の朝、暁田の空は前日よりもいくらか明るかった。


 晴れたわけではない。雲は相変わらず薄い鉛色で、陽はその向こうで白く滲んでいるだけだった。ただ、昨日のように空全体が沈み込んでくる感じはなく、雪解け水を含んだ空気の匂いの中に、ほんの少しだけ春の気配が混じっていた。


 それでも地下二階へ降りると、季節の気配はすぐに失せる。


 異類対策課の部屋は、今日も窓のない薄明るさの中にあった。机の上には昨日まとめた資料がそのまま重ねてあり、いちばん上には川沿いの停留所の古い時刻表のコピーが載っている。十二時台の便名。今はもう存在しない、昼の帰省便みたいな数字。


 烏丸は出勤してすぐ、その紙を一度見てから、電話を取った。


 孫にあたる人物への連絡だった。


 昨日のうちに取り寄せた勤務先情報と携帯番号。都内の広告制作会社。肩書きは名ばかりの企画職。勤務実態は定かではないが、記録に残る転居の多さと、聞き込みで出た「危篤にも間に合わなかった」という話だけで、だいたいの輪郭は見えていた。


 電話は二度鳴らして切れた。三度目で留守番電話になり、烏丸はそこで短く名乗って切った。


「出ませんか?」


「出ないな」


「仕事中とか?」


「あるいは、知らない番号に出る余裕がない」


 言い方は静かだったが、その静けさの中に、相手の暮らしの荒れ方をある程度察している感じがあった。


 十分ほどして、折り返しがかかってきた。


 烏丸はスピーカーにはしなかったが、地下二階の静かな部屋では、受話器越しの若い男の声がかすかに漏れて聞こえた。低く、少し掠れている。警戒しているというより、慢性的に疲れている声だった。


 烏丸は名乗り、要件を濁しすぎない程度に伝える。亡くなった祖母のこと。旧優和線沿いの停留所のこと。確認したい話があること。


 受話器の向こうで、男はすぐには答えなかった。


 黙っているわけではない。呼吸の音だけが小さく遠くでしていて、何を言えばいいのか、どこまで聞かれているのか、その線引きを探しているようだった。


 やがて、男が短く言った。


「……仕事があるんで、長くは」


 その一言だけで、俺にはその人の顔が少し見える気がした。


 すぐに断れない。けれど立ち止まる余裕もない。電話口ですら休んでいる気がしない。そういう声だった。


 烏丸は「五分でいい」と言った。


 その五分が、結局二十分ほどになった。


 詳細までは聞こえない。けれど、祖母の名前が出たときの沈黙の長さと、停留所の話になったときの呼吸の乱れだけは、受話器越しでも分かった。


 最後に、烏丸は今日の夕方、暁田駅前で会えないかと告げた。相手は一度は難色を示したらしい。都内から当日で戻るのは無理があるし、そもそも有給を取れるような職場ではないのだろう。


 それでも烏丸は押した。


「一時間でいい。あなたの祖母のことで、今ここで聞かなければならない話です」


 押しつけがましい声音ではなかった。だが、断って後悔するのはそちらだと分からせる種類の静かな強さがあった。


 電話が終わったあと、烏丸は受話器を置き、少しだけ首を回した。


「来るそうだ」


「本当に?」


「午後六時半。駅前の喫茶店」


 俺は思わず息を吐いた。


 会うことになる。危篤に間に合わなかった孫と。都心で消耗しながら働いている、その当人と。


「どんな感じでした?」


 烏丸は机の上の時刻表を見ながら言った。


「祖母の名前を出した瞬間に、声が半音落ちた」


 半音落ちた、という言い方が妙に正確で、俺は何も言えなかった。


 感情は、泣くとか怒るとか、分かりやすい形で出るとは限らない。声の高さが少し沈む。息を継ぐ間が長くなる。そういう微かな崩れ方のほうが、むしろ本当のところに近いのかもしれなかった。


 *


 翌日、夕方まで、俺たちは昨日の聞き取り内容を改めて整理した。


 おばあさんの名前。死亡日。同居家族。停留所までの距離。昼便の時刻。近所の老女が語った「買い物袋を提げて迎えに出ていた」という話。死の間際まで、「孫が帰ってきたらたくさん甘やかしてやりたい」と言っていたこと。


 紙にすると、どれも短い。


 短いのに、どの一文も重かった。


 たとえば「買い物袋」。その四文字だけで、俺にはもう、おばあさんが何をしていたのか何となく見える。漬物でも、饅頭でも、惣菜でも、帰ってきた孫の手に持たせたくて買っておく。あるいは帰り道に一緒に寄ろうと思っていたのかもしれない。そういう生活の細部が、停留所で待つという行為の中に全部溶けている。


 昼を過ぎるころ、書庫の陰に、あの紺のコートの女がまた立っていた。


 面接の日に神社で出会った、生霊じみた異類だ。


 相変わらず、俺の内ポケットの封筒を見ている。けれど昨日までと違って、今日は少しだけこちらの会話にも耳を澄ませているように見えた。待つ話。帰れなかった話。手渡せなかったもの。彼女が何に引かれているのか、まだはっきりとは分からないが、少なくとも、この課に集まってくるものたちには似た匂いがある。


「その女、また来てるのか?」


 資料を綴じながら烏丸が聞いた。


「来てます」


「表情は?」


「昨日より穏やかです」


「そうか」


「それだけですか?」


「それだけだ」


 烏丸は本当にそれだけしか言わなかった。


 だが、こういうやりとりにも少しずつ慣れてきた自分がいる。見えるものを見えると言い、見えない人間がそれを事実の一部として受け取る。その流れが、昨日より滑らかになっていた。


 *


 午後六時を回るころには、地上はもう夕方というより夜の入り口だった。


 暁田駅前は県庁周辺より少しだけ人が多い。仕事帰りの会社員、学生、塾帰りの中学生、駅前スーパーの袋を提げた年配の夫婦。どの顔も、雪国の春先らしく少し硬い。寒さに肩をすぼめる癖が、まだ体から抜けていないのだろう。


 待ち合わせ場所の喫茶店は、駅前のロータリーを少し外れたところにあった。古い店だった。木のドア、磨かれた真鍮の取っ手、曇りガラス越しの暖色の灯り。チェーン店ではない、昔からそこにある店特有の、少し時間の流れが遅い感じがする。


 中へ入ると、コーヒーと古い木材の匂いがした。壁には色褪せたジャズのポスター。カウンターの向こうでは、初老の店主が白いカップを静かに拭いている。暖房は効いているが、店内の空気は必要以上に乾いておらず、外の寒さからいきなり切り離される感じがしなかった。


 俺と烏丸は奥の四人席に座った。


 窓際ではなく、少し奥まった席だ。人目を避けるというほどではないが、長話になっても邪魔になりにくい位置だった。


「お孫さん、来ますかね?」


 メニューも見ずに水のグラスへ手を伸ばしながら言うと、烏丸は「来る」とだけ返した。


 その断言の仕方が妙だった。予感というより、あの電話口の声の落ち方を聞いて、もう逃げ切れないことを分かっている人間の言い方だった。


 十分ほどして、店のドアが開いた。


 入ってきた男を見た瞬間、俺は少しだけ息を止めた。


 二十代後半くらいだろう。背は高いが、姿勢が悪い。黒いコートの下に紺のスーツ。シャツの襟元には、長時間座りっぱなしでついたような浅い皺がある。髪は整えているはずなのに少し伸び、目の下には濃い影が落ちていた。顔立ちは悪くないが、整って見えないのは、たぶん疲れが骨の近くにまで染みているからだ。


 その男が、店内を見回してこちらに気づいた。


 一瞬だけ足が止まる。


 その迷い方が、祖母の話をしに来た人間というより、長く触れていなかった傷口の前に立ってしまった人間のそれだった。


 烏丸が軽く手を上げる。男は短く頭を下げ、こちらへ歩いてきた。


「……斎藤です」


 椅子の横で立ち止まり、名乗る声も低かった。


 紙の上で見た名字と一致する。おばあさんの孫。都内で働き、危篤に間に合わなかった人間。


 烏丸が名乗り、俺も続けて名乗った。斎藤はそれを聞いて、小さく会釈しただけで座った。コートを脱ぐ余裕もなさそうだったが、さすがに店内でそのままでは居心地が悪いのか、少し遅れて膝の上に畳んだ。


 メニューを差し出されても、「何でも」としか言わなかったので、烏丸がコーヒーを三つ頼んだ。


 しばらく、誰も本題を切り出さなかった。


 店内には小さな音でピアノが流れている。食器の触れる音。奥の席で誰かが笑う声。外を回るバスの低い音。


 その中で、斎藤だけが少し場違いなくらい疲れきって見えた。


 俺はふと、停留所に立っていたおばあさんの異類を思い出した。あの背中は、待っている人の形をしていた。今目の前にいる男は、帰れなかった人の形をしているように見えた。


「急にお呼びしてすみません」


 最初に口を開いたのは烏丸だった。


「ただ、あなたのお祖母さんのことで、確認したいことがあります」


 斎藤は水のグラスに触れたまま、目を伏せた。


「……祖母の?」


「はい。旧優和線の石多停留所についてです」


 その停留所名が出た瞬間、斎藤の指先がわずかに止まった。


 本当に微かな動きだった。けれど、その小さな硬直だけで、あの場所がこの人の中にまだ生きていることが分かる。


「どうして、そこを?」


「公務としての調査です」


 烏丸は嘘ではない言い方をした。余計な説明を省いているだけだ。


「あなたのお祖母さんが生前、その停留所を日常的に使っていたこと。その場所が、ご家族の生活の中で特別な意味を持っていたこと。そこまでは確認しています」


 斎藤はしばらく黙っていた。


「近隣への聞き取りと記録で確認させていただきました。」


「役所って、そんなところまで調べるんですね」


「ええ、必要があれば」


「……そうですか」


 コーヒーが運ばれてくる。湯気の向こうで、斎藤は自分のカップに手をつけない。


 俺はその横顔を見ていた。鼻筋や口元に、どこか停留所のおばあさんと似た線がある。血のつながりというより、同じ家の空気で育った顔だ。あのおばあさんが、この人を見送って迎え続けたのだと、その輪郭だけで分かる気がした。


「お祖母さんは、あなたを大学進学のときに、その停留所で見送った」


 烏丸が静かに言う。


「帰省のたびに、そこで迎えていた」


 斎藤の喉が、ひとつ上下した。


「そうですね」


「その習慣は、いつまで続いていましたか?」


 返事はすぐには来なかった。


 店内の音だけがやけに遠く聞こえる。


「……大学のころは、ほぼ毎回です」


 やがて斎藤が言った。


「最初は月一くらいで帰ってたんで。ばあちゃん、昼のバスの時間をちゃんと覚えてて、いつもあそこで待ってて。俺、降りたらまず、袋持たされるんですよ」


 口元が少しだけ動く。


 笑いではないが、思い出の形をした動きだった。


「饅頭とか、漬物とか、あと惣菜。そんなのばっかでした。食べるか、持ってけって」


 俺は停留所で見た買い物袋を思い出した。


 空ではなかったのだ。あれは、手渡すための袋だった。待つための袋ではなく、迎えたあとに渡すための袋。


「就職してからは?」


 烏丸の問いに、斎藤の表情が少し沈んだ。


「最初の一年くらいは、帰れたんです。盆とか正月とか、あとたまに連休で。でも……」


「でも?」


「だんだん、帰れなくなりました」


 その声には、言い訳を先回りして押し殺すような硬さがあった。


「会社が、まあ、忙しくて。忙しいっていうか、休めなくて。人がどんどん辞めるから、自分の仕事以外も回ってくるし。帰るって言っても、その前日に案件が飛んできたりして、無理になって」


 斎藤はそこで一度、コーヒーカップに触れた。熱さを確かめるみたいに指を置いて、すぐ離す。


「最初はちゃんと、ばあちゃんにも連絡してたんです。今回帰れない、ごめんって。そしたら、いいよ、仕事だべって笑うから……余計に」


「余計に?」


「そのうち、言いづらくなって」


 声がさらに低くなる。


「母には連絡しても、ばあちゃん本人にはしないことが増えました。帰れないって言ったら、あの人、平気な顔するんです。でもたぶん、停留所には出るから」


 その一言に、俺は胸の奥が少し痛んだ。


 帰れないと知っていても、待ってしまう人がいる。知っているからこそ、言わないほうがましだと思ってしまう人もいる。


「お祖母さんが亡くなったときのことを、聞いてもいいですか?」


 その質問に、斎藤はすぐには答えなかった。


 店の窓ガラスの外を、駅前のバスがゆっくり回っていく。行き先表示の灯りだけが、夕方の薄暗さの中で浮かんで見えた。


「……母から電話が来たのは、夜中の二時でした」


 斎藤がようやく言った。


「もう危ないって。朝まで持たないかもしれないって」


 言葉の運びが平坦すぎて、かえってそのときの混乱が透けて見える。


「俺、そのとき会社にいたんです。徹夜で資料作ってて。上司に言ったら、朝まで待ってくれって。今抜けられると困るって」


 俺は思わず、斎藤の顔を見た。


 彼は怒っているふうではなかった。たぶん、そのときは怒る余裕すらなかったのだろう。命令として飲み込んで、体を動かして、朝まで耐えるしかなかった。


「朝になって、最初の新幹線でも、間に合わなかったです」


 それだけ言って、斎藤は唇を噛んだ。


 そこで初めて、表情が少し崩れた。


「着いたときには、もう……」


 言葉が途切れる。


 烏丸も、俺も、急かさなかった。


 しばらくして、斎藤が小さく息を吸う。


「ばあちゃん、最後まで、俺のこと言ってたらしいです」


 視線はテーブルの木目に落ちたままだった。


「帰ってきたら、疲れてるだろうから、うまいもん食わせて、寝かせてやらねばって。そんなこと、母に聞かされて……でも俺、そのとき、間に合わなくて」


 俺の頭の中に、停留所で待つおばあさんの姿が浮かぶ。


 怒りではなく、恨みでもなく、ただ「帰ってきたら甘やかしてやりたい」という気持ちだけが残っている。だから余計に、ほどけないのだ。


「俺、葬式でもちゃんと泣けなかったんです」


 斎藤が言う。


「二日しか休めなくて、会社の携帯鳴りっぱなしで。骨上げの途中でも連絡来て、東京戻ったらそのまままた徹夜で」


 小さく笑う。


 今度のそれは完全に自嘲だった。


「だから、ずっと後回しにしてたんだと思います。帰れなかったことも、ばあちゃんに会えなかったことも。忙しいから仕方ないって言いながら」


「仕方なかったと思いますか?」


 烏丸が静かに聞いた。


 斎藤はゆっくり首を振った。


「……思わないです」


「でも、そう思わないと働けなかった」


「たぶん」


 その「たぶん」は、肯定と同じだった。


 俺は何も言えなかった。


 目の前の男は、生きている。ここにいて、コーヒーの湯気を浴びて、疲れた顔で座っている。けれど何か大事な時間だけが、まだあの夜中の二時で止まっているようにも見えた。


「停留所には、最後にいつ行きましたか?」


 烏丸が聞く。


「……ばあちゃんの四十九日のときに、母たちと車で通っただけです。停まれなかった。

 あそこ見たら、なんだかばあちゃんが待ってる気がして」


 その言葉で、俺は思わず顔を上げた。


 待ってる気がして。


 見えるわけではないのに、そう感じていたのだ。


「馬鹿みたいですよね」


 斎藤が笑おうとしたが、うまくいかなかった。


「死んだ人が待ってるわけないのに」


「そうとは限りません」


 俺が思わず口を開きかけたのを、烏丸のほうが先に言った。


 斎藤が顔を上げる。


 初めて、警戒でも疲労でもない種類の視線が烏丸へ向いた。


「……どういう意味ですか?」


 烏丸はすぐには答えなかった。


 言葉を選んでいる。あるいは、ここでどこまで開示するか測っている。


「あなたのお祖母さんが、あの停留所を特別な場所として持ち続けていたことは、確認できています」


 やがて、そう言った。


「そして、あなた自身も、そこにおばあさんがいることを感じていた」


「それは……思い出があるからで」


「それだけなら、今日ここへ来るのにも、もう少し平気な顔ができたはずだ」


 斎藤は何も言わなかった。


 反論したいのに、その材料が自分の中にない顔だった。


「斎藤さん」


 烏丸の声は低いが、責める響きはなかった。


「あなたのお祖母さんは、まだあなたを待っている」


 店内の空気が、その一瞬だけ少し遠のいた気がした。


 俺は息を止めた。斎藤の手が、テーブルの上でぴくりと揺れる。


「……何、言ってるんですか?」


 かすれた声だった。


「ふざけてるなら……」


「ふざけていません」


 烏丸は言い切った。


「詳しい話をここですべてするつもりはありません。ただ、あなたのお祖母さんのことは、単なる思い出では片づかない」


 斎藤はしばらく、何も言わなかった。


 店の奥で食器が触れ合う音がした。窓の外を誰かが足早に通り過ぎる。そういう日常の音だけがやけに鮮明で、この席だけが少し別の場所にずれているみたいだった。


「俺、疲れてるんです」


 やがて、斎藤がぽつりと言った。


「たぶん、今もまともじゃない。寝てないし、最近、何かおかしいなって自分でも思ってて……だから、そういうこと言われると」


 そこで言葉が切れた。


 俺はその横顔を見ていて、ふと、面接の日に神社で見た女の異類を思い出した。人間に似ているのに、人間ではないほど疲れた顔。擦り切れたまま時間だけが延びている顔。


 斎藤の顔にも、似た影があった。彼自身が異類だとか、そういう話ではない。けれど、生きている人間が極端に追い詰められると、現世にいるはずなのにどこか半歩外れた顔つきになることがあるのだと、何となく分かった。


「ちゃんと休めていますか?」


 伊織としてではなく、ただ目の前の人間に聞くように、俺は言った。


 斎藤は少し驚いたように俺を見た。


「……あまり、休めてないです」


「眠れてますか?」


「たまに、気絶したみたいに寝ます」


 その答え方が、冗談でも誇張でもないのがすぐ分かった。


「会社、辞めたいと思ったこと、ありますか?」


 斎藤はそこで初めて、笑うでもなく、泣くでもなく、ただ困ったような顔をした。


「そんなの毎日ですよ」


「辞められない?」


「辞めたら、自分が何してたのか分からなくなる気がして」


 その言葉は、驚くほど率直だった。


「ばあちゃんのことも、帰れなかったことも、全部そのまま置いてきたから。今の仕事までなくなったら、本当に何も残らないっていうか……」


 俺はそれを聞きながら、停留所のおばあさんだけじゃなく、この人もまた何かに待たされているのだと思った。帰る場所に帰れないまま、仕事という名前の遅延の中に閉じ込められている。


「斎藤さん」


 烏丸が改めて呼ぶ。


「明日、時間を作れますか?」


「明日?」


「はい。昼前からでいい」


「無理です」


 答えは早かった。だが、その早さは本心からの拒絶というより、反射に近かった。


「それは、無理だと思ってるだけです」


 烏丸は穏やかに言った。


「本当に無理なら、今日ここへ来ていない」


「でも会社が」


「会社はあなたのお祖母さんを待ってはくれない」


 斎藤の肩がわずかに揺れた。


 きつい言い方だった。けれど必要な言葉でもあったのだろう。烏丸は目を逸らさない。


「あなたは一度、帰れなかった」


 その声は責めてはいなかった。


「なら、今度は帰るべきです」


 斎藤は口を開きかけて、閉じた。


 窓の外の暗さが少し濃くなる。店内の灯りが、カップの縁をやわらかく照らしていた。


「……何があるんですか、明日」


 長い沈黙のあと、斎藤が聞いた。


「あなたのお祖母さんが待っていた場所へ行きます」


「停留所に?」


「ええ」


「俺が?」


「あなたが」


 斎藤は顔を伏せ、片手で目元を押さえた。


 泣いてはいない。ただ、何かがそこまでせり上がっているのを、手のひらで押し戻そうとしているように見えた。


「俺、あそこに行ったら……」


「何です?」


「たぶん、立ってられないです」


 その告白は、ようやくこぼれた本音の形をしていた。


 危篤に間に合わなかったことより、葬式で泣けなかったことより、もっと直接的な本音。あの場所に立てば、自分が何を失って、何から逃げていたか、全部見えてしまう。だから行けなかった。


「立てなくてもいい」


 烏丸は言った。


「来ることが先です」


「……そんな簡単に」


「簡単じゃない。だから今、あなたに頼んでいる」


 斎藤の手が、ゆっくり目元から下りる。目は赤くなっていない。ただ、その代わりに、何年も張りっぱなしだった糸が少しだけ緩んだような顔をしていた。


「母には」


 小さく言う。


「母には、今日帰ってきてることをまだ言ってません。俺、帰れてないことも、しんどいことも、全部平気なふりしてたんで」


「それは、このあと伝えればいい」


 烏丸が淡々と答える。


「だが、まずはあなた自身が帰ると決めることです」


 斎藤は黙ったまま、コーヒーに手を伸ばした。もうぬるくなっているだろう。それを一口飲んで、少し顔をしかめる。


「俺……」


 その声は、さっきまでより少しだけ子どもの響きに近かった。


「ばあちゃんに、謝れてないんです」


 俺は何も言わなかった。


 烏丸も、すぐには何も言わない。


「ごめんって、一回も言えてない。帰れなかったことも、電話しなかったことも。最後、間に合わなかったことも」


 斎藤の視線はテーブルの上に落ちている。


「なのに、今さら帰って、何て言えばいいかも分からない」


「本当のことを言えばいい」


 烏丸が静かに言った。


「謝れなかった。帰れなかった。しんどかった。全部、そのままでいい」


 斎藤はそこで初めて、少しだけ顔をしかめた。


 泣きそうなのを堪える顔ではなく、長く固まっていた場所へ血が戻り始めたときの痛みに近い顔だった。


「……分かりました」


 ようやく出たその言葉は、まだ細い。だが、はっきりしていた。


「明日、行きます」


 その瞬間、俺はなぜか、地下二階の書庫の影に立つ紺のコートの女の気配を思い出した。待っているものは、待たされている側が一歩動いただけで、少しだけ形を変えるのかもしれない。


 店を出るころには、駅前はすっかり夜だった。


 ロータリーの街灯が白く路面を照らし、バスの行き先表示だけがいくつも小さな灯りになって流れていく。斎藤はコートの襟を立て、店先で一度だけ深く息を吐いた。


「今日は、どこに?」


 俺が聞くより先に、烏丸が言った。


「実家へ戻りますか?」


 斎藤は少し迷ってから頷いた。


「母に、帰ったって言わないと」


「それがいい」


「会社には……?」


 そこまで言って、斎藤は苦く笑った。


「もう、いいかなって気もしてます」


 烏丸は何も言わなかった。けれど、その沈黙は肯定に近かった。


 駅前の風は冷たい。だが、昼の川沿いの風よりはまだ、人の体温に近い気がした。


 斎藤が別れ際、ふと俺を見た。


「近藤さん」


「はい」


「祖母、ほんとに…その、待ってるんですか?」


 俺は一瞬だけ言葉に詰まった。


 見える、と簡単に言ってしまうのは違う気がしたからだ。ここで必要なのは、怪談めいた確信ではなく、この人が明日、自分の足で行けるだけの言葉だった。


「待ってた時間は、まだあそこに残ってます」


 そう答えた。


 斎藤は少しだけ目を伏せ、それから小さく頷いた。


 その頷き方には、信じたというより、もう信じるしかないところまで来てしまった人間の静かな諦めがあった。


 斎藤が夜の駅前を去っていく。


 背中は細く、少し前かがみで、それでも来たときよりはわずかに地面を踏んでいるように見えた。


「明日、あの人来ますかね?」


 店の前で俺が聞くと、烏丸は夜空を見上げた。


「来る」


「また断言ですね」


「声が変わった」


 それだけ言って、烏丸は歩き出した。


 駅前のロータリーを回るバスの灯りが、濡れた路面の上に細く伸びる。その光を見ながら、俺は停留所に立つおばあさんの異類を思い浮かべていた。


 来るはずだ。


 約束した。


 その約束の片側が、ようやくこちらへ向き直り始めた。


 明日、帰れなかった孫が、待ち続けていた祖母の前へ行く。


 まだ介錯は始まっていない。けれど、長く凍っていた時間が、そこでやっと少し動き出すのだと、俺には分かった。


 翌朝、暁田の空はやけに高く見えた。


 晴れているわけではない。雲は薄く広がったままで、陽はその向こうに白く滲んでいるだけだ。それでも前日までのような、空そのものが重たく肩にのしかかってくる感じはなかった。夜のあいだに少しだけ風向きが変わったのか、朝の空気には雪解け水の匂いに混じって、まだ弱い土の匂いがしていた。


 地下二階へ降りる前、俺は県庁の正面玄関のガラスに映った自分の顔をちらりと見た。疲れている。だが、昨日よりは目がはっきりしていた。たぶん今日は、待っていた側の話だけではなく、帰る側の時間も動くのだと、どこかで分かっていたからだろう。


 異類対策課に入ると、烏丸はもう机についていた。


 昨日の資料がきちんと一つのクリアファイルにまとめ直され、その上に停留所の古い時刻表のコピーが重ねてある。昼の便。今はもう存在しない、けれど誰かの生活の真ん中にあった時間。


「早いですね」


 俺が言うと、烏丸は顔も上げずに答えた。


「君が遅い」


「まだ始業前でしょう」


「今日に限っては始業前から業務が始まってる」


 その言い方が妙に引っかかって、俺は机に近づいた。


「何かあったんですか?」


「斎藤さんから朝六時に連絡が来た」


 烏丸がようやく顔を上げる。いつも通り、感情の振れ幅は大きく見せない顔だったが、目の奥だけは少し醒めていた。


「実家に帰ったそうだ。母親とも話した。会社には電話で辞意を伝えたらしい」


 俺は一瞬、言葉を失った。


「辞めたんですか?」


「ああ」


「本当に?」


「本当に」


 そう言って、烏丸は机の上の携帯電話を指で軽く叩いた。


「夜のうちに決めたんだろう。今朝の声は、昨日よりはっきりしていた」


 昨日の斎藤の顔を思い出す。目の下の濃い隈。テーブルの木目ばかり見ていた視線。帰れなかったことを、ようやく言葉にした声。


 あの人が、一晩で全部立て直したわけではないだろう。そんなものはありえない。ただ、止まっていた時間のどこかに、ようやく手をかけたのだと思った。


「今日は予定通りですか?」


「予定通りだ。斎藤さんは午後の便で、あの停留所に向かう」


「バスで?」


「バスで」


 烏丸は時刻表のコピーをこちらへ滑らせた。


「代替路線になってから便は少ないが、一応まだ走ってる。昔の昼便とは少し時間が違う。だが、本人が『バスで帰る』と言った」


 その一言が、胸に残った。


 車でもなく、誰かに送ってもらうのでもなく、バスで帰る。あのおばあさんが待ち、迎え、見送り続けた手段で、自分の足で戻るということだ。


「お母さんたちは?」


「事情は大まかに伝えた。詳しいことまでは話していないが、今日、停留所へ行くことも了承している」


「止められなかったんですね」


「止める理由がない」


 烏丸は淡々と言った。


「むしろ、ずっとそこへ行けずにいたなら、今日行くべきだ」


 俺は頷き、机の端に置いたコートへ手を伸ばした。


 *


 昼前の駅前は、まだ夜の気配を少し引きずっていた。


 晴れないままの空の下、ロータリーを回るバスの白い車体だけが、曇った景色の中で少し明るく見える。学生の数は少ない。平日の昼前だから当然だが、それでもベンチには何人か座っていて、年配の女が買い物袋を足元に置き、背広姿の男がスマートフォンを握ったまま難しい顔をしていた。


 俺と烏丸は、一本遅い車で現地へ先回りすることにしていた。


 斎藤はひとりで駅前からその路線バスに乗る。俺たちは停留所で待つ。正確には、おばあさんが待ち続けているその場所で、斎藤が戻ってくるのを見届ける。


 車内で、俺は何度も内ポケットを押さえた。白い封筒の中のお守りは相変わらず静かだった。面接の日に拾ったあの異類の件は、今日の主役ではない。けれど、待っていたものがようやく帰ってくるという話の気配に引かれているのか、朝から書庫の影に見えた紺のコートの女は、いつもより少しだけ輪郭が薄かった。


「緊張してるな」


 運転席で烏丸が言う。


「してますよ」


「君が介錯するのは、もう少し先だ」


「分かってます。でも、今日のことだって……」


「ああ、大事だ」


 烏丸はそう言い切った。


「異類は残っている理由を解決してやるだけではいなくならない。理由の先に、人の側の動きが要る」


 車は市街地を離れ、昨日と同じ山あいの道へ入っていく。雪解けの畑。黒い土。川沿いの白っぽい流れ。遠くにまだ雪を残した山。昨日見た風景とほとんど同じなのに、今日はその奥にもう一つ、待ち合わせの時間があるぶんだけ、景色が少し張りつめて見えた。


 停留所へ着くころには、風が昨日より少し弱くなっていた。


 待合小屋の曇ったパネル。錆びた支柱。浮きかけた時刻表の透明カバー。すべて昨日のままだ。けれど、その前に立つおばあさんの異類だけは、昨日より輪郭が濃いように見えた。


 紺の防寒コート。えんじの毛糸帽。手にはいつもの買い物袋。


 道路の先を見ている。


 まっすぐに。疑いもなく。まるで今日こそ本当に来ると知っているみたいに。


「いますね」


 俺が小さく言うと、烏丸は頷いた。


「ああ。見えてる」


 異類そのものは、烏丸にも見えている。だが、俺にはさらにその足元から伸びる細い線が見えた。


 古い時刻表へ向かう線。


 そして今日は、そこから先へ、ごくかすかにもう一本、揺らぐような細い光が伸びている。


 それはまだ完全な線ではなかった。時刻表の下に残る古い便名から、道の向こう――バスがやってくる方角へ、ほとんど見間違いそうなほど淡く延びようとしている。


「課長」


「何だ」


「線が動いてます」


 烏丸の目が少しだけ鋭くなる。


「どこへ?」


「時刻表から、道の先へ。まだ細いけど……来る方角です」


「そうか」


 烏丸はそれ以上は言わなかった。だが、その一言だけで十分だった。待っていた時間が、ようやく“待たれる相手”のほうへ伸びようとしている。


 俺たちは停留所から少し離れた位置に立った。

 人の気配を残しつつ、けれど邪魔をしない距離。


 風が、枯れ草を鳴らす。


 川の水音が遠くで鈍く響く。


 空は白いままなのに、景色だけが少しずつ色を帯びて見えた。春というより、凍っていたものが音もなく緩み始める直前の色だった。


「来るのは何分後ですか?」


「あと十分ほど」


 烏丸が腕時計を見る。


「そのあいだに、婆さんの様子をよく見ておけ」


 俺はおばあさんから目を離さなかった。


 昨日までの彼女は、時間そのものに置き去りにされた感じが強かった。何度も同じ言葉だけを繰り返し、今が昼なのか夕方なのかも分からないまま、昔の便を待ち続けていた。


 けれど今日は違う。


 繰り返しの中に、わずかな「今」が混ざっている。


 買い物袋を持つ手が少しだけ強くなり、道路の先を見つめる首筋に、昨日よりかすかな生気がある。異類なのに、生気というのも変な話だが、そう言うしかない。


「今日のおばあさん、少しはっきりしてますね」


「待つ側にも分かるんだろう」


「何がです?」


「帰ってくる気配が」


 その答えは、説明になっているようでなっていなかった。けれど、分からないでもなかった。


 人は、待っている相手の足音を、姿が見える前から聞き分けることがある。異類になってなお、その癖だけが残るのかもしれない。


 やがて、遠くでエンジン音がした。


 県道の向こうから、低いディーゼル音が近づいてくる。古い路線バス独特の、少し唸るような音だ。俺は思わず息を止めた。


 おばあさんの異類の背中が、ほんのわずかに伸びる。


 曲がっていた肩が少しだけ起き上がる。買い物袋を持つ手に、力が入る。


「来る」


 俺は口の中でそう呟いた。


 バスが角を曲がって、こちらへ現れる。白地に青いラインの入った車体。都会の新しい車両みたいに洗練はされていないが、長くこの地域を走ってきた顔をしている。


 おばあさんは一歩だけ前へ出た。


 昨日、配送車が通ったときに出かけて止まった、その動きとは違った。迷いがない。車体の形を見ているのではない。そこに乗っているはずの誰かを、もう先に感じているような足取りだった。


 バスが停留所の前でブレーキをかける。空気が抜けるような音。扉が開く。


 その瞬間、俺には見えた。


 おばあさんから時刻表へ伸びていた線が、きゅっと強く張る。そして古い便名の文字のあたりから、もう一本の淡い線が、今まさに開いた扉の内側へ向かってつながった。


「課長」


「ああ、分かってる」


 バスから、数人が降りる。


 年配の男。買い物袋を持った女。最後に、黒いコートを着た斎藤が降りた。


 昨日の喫茶店で見たときより、少しだけ顔色が悪い。たぶんほとんど眠っていないのだろう。だが、目だけは昨日よりまっすぐだった。肩には小さめのボストンバッグ。手にはスマートフォンを握っていない。仕事の延長線ではなく、自分の足でここへ来た人間の顔をしていた。


 斎藤が地面に足をつける。


 その瞬間、おばあさんの異類の輪郭が、はっきりと濃くなった。


 今まで風景と半分混ざっていた輪郭が、急に人間ひとりぶんの重さを取り戻す。コートの皺。帽子の毛羽立ち。頬の皺。買い物袋の持ち手を握る節くれだった指。


 そして、顔がゆっくりとやわらいだ。


 待っていた人の顔になったのだ。


 駅で偶然会っただけの誰かに向ける顔ではない。何度も何度も見送り、迎え、会うたびに「また痩せた」「寒かったべ」「腹減ってねが」と言ってきた相手だけに向ける、あの柔らかい顔。


 俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。


「……見えてるんですかね?」


 斎藤には異類は見えていないはずだ。なのに、彼はバスを降りたあと、その場で一歩も動かなかった。まっすぐ待合小屋の前を見ている。正確には、おばあさんが立っている場所を。


「見えてはいない」


 烏丸が小さく答える。


「だが、分かってる」


 バスの扉が閉まり、車体は再び走り出す。ディーゼル音が遠ざかる。停留所には、俺たちと、斎藤と、おばあさんの異類だけが残った。


 風が吹く。


 買い物袋が少し揺れる。


 斎藤はボストンバッグを地面に置いた。その手つきが、昨日よりずっとゆっくりだった。急いでいない。逃げてもいない。ただ、ここで自分が言うべきことへ向かっている。


 おばあさんは、今にも歩み寄りそうに見えた。


 だが動かない。停留所の前から一歩も出ない。ただ、そこに立って、斎藤を見る。待ち続けていた場所から動かないまま、帰ってきた相手を迎えている。


 斎藤がひとつ息を吸う。


 吐く。


 もう一度吸って、それから、声を出した。


「……ばあちゃん」


 その呼び方だけで、おばあさんの輪郭がさらにやわらかくなった。


 俺には見えた。線が、古い時刻表から斎藤のほうへ、少しずつ、しかし確かに伸び直していく。


 人にはつながらないはずの線だ。だが正確には、人そのものへ結ばれるのではなく、“その人が今ここへ帰ってきた事実”へ向かってほどけていくのだと、初めて分かった気がした。


 斎藤は唇を引き結び、何度か言葉を探した。


 うまく話そうとしているのではない。ただ、ずっと後回しにしてきた言葉が、一度に喉へ押し寄せて、順番が分からなくなっているのだろう。


 それでも、彼は逃げなかった。


 停留所の前で、風を受けながら、まっすぐその場所に立っていた。


「……ずっと、来れなくて、ごめん」


 最初の謝罪は、昨日の喫茶店よりもずっと静かだった。


 大げさでもなく、芝居がかってもいない。だからこそ、その重さがあった。


「帰れなかった。電話も、ちゃんとしなくなって。間に合わなくて……最後も」


 言葉が一度切れる。


 斎藤は目を閉じ、少しだけ首を伏せた。


「ごめん」


 おばあさんは何も言わない。


 ただ、その顔には責める色がなかった。待っていた時間が長すぎたせいかもしれないし、もともと責めるために残っていたわけではないのかもしれない。


 斎藤は拳を握りしめるようにしてから、もう一度顔を上げた。


 その目は赤くなっていない。けれど、泣いていないとも言えなかった。泣く前にずっと働かされてきた人間の、ようやく水分が戻り始めた目だった。


「俺、会社、辞めたよ」


 風が少し止む。


 停留所の周りの音が、その一瞬だけ薄くなった気がした。


「東京、戻らない」


 斎藤はそう言ってから、少しだけ笑った。笑顔ではない。自分でもまだ信じきれていないことを口にしたときの、頼りない歪みだ。


「何も決まってないけど……でも、地元でやり直す」


 その言葉に、おばあさんの持つ買い物袋がふっと軽く揺れた。


 風ではない、と俺には分かった。おばあさん自身の気配が、そこへ通ったのだ。


 斎藤は一度、大きく息を吸った。


 そして、今度ははっきりと、その場所へ向かって言った。


「ただいま」


 それだけで、停留所の空気が変わった。


 古い時刻表に絡みついていた線が、音もなくほどけ始める。一本の張りつめた糸が切れるのではなく、長いあいだ固く結ばれていたものが、ようやく指先で解かれるみたいに、少しずつ、少しずつ。


 斎藤は続けた。


「心配かけてごめんね」


 その声は、昨日喫茶店で聞いたどんな告白よりも、まっすぐだった。


「地元でやり直すよ」


 俺は思わず息を呑んだ。


 おばあさんの異類が、そこでようやく一歩だけ前へ出たからだ。


 昨日まで、時間に縫い止められたように停留所の前から動けなかった人が、今はちゃんと斎藤のほうへ向かって歩こうとしている。歩幅は小さい。けれど、その一歩だけで十分だった。


 皺だらけの頬。少し下がった目尻。泣きそうで、でも泣いていない、慈愛そのものみたいな顔。


 ああ、この人は本当に、ただ甘やかしてやりたかっただけなのだと、その笑みを見た瞬間に分かった。


 責めるためでも、恨むためでも、謝らせるためでもなく。帰ってきた孫に、腹いっぱい食べさせて、疲れを取らせて、また少し丸くなった背中で「ちゃんと寝れ」と言ってやりたかった。その気持ちだけが、死んだあとも止まりきれずに残ったのだ。


「課長」


 俺はかすれた声で呼んだ。


「ああ」


「線が、ほどけていきます」


「ちゃんと、見てろ」


 烏丸の声も、いつもより少し低かった。


 線はもう、時刻表の文字のあたりに執着していない。昼の便そのものに結ばれていたはずのものが、いまは斎藤の言葉へ、帰ってきたという事実へ、そしてたぶん、これから地元でやり直すという決意へ向かって、静かに移り変わっている。


 おばあさんがもう一歩、いや、半歩だけ進む。


 斎藤には見えていない。それでも彼は、何かがそこへ来たことを感じたのか、目を見開いて前を見たまま動けずにいた。


 風が吹く。


 帽子の毛糸が揺れる。


 買い物袋の持ち手を握っていた指が、ゆっくり緩む。


 俺には見えた。袋の形が、ほんの少しだけ変わった。中にはたぶん何も入っていなかったはずなのに、その一瞬だけ、饅頭か何か、柔らかい包みがそこにあるように見えたのだ。思い出の重さが、最後にひとつだけ形を取ったのかもしれない。


 斎藤が、急に両手で顔を覆った。


 声は出していない。けれど肩だけが、ひどく小さく震え始める。


 おばあさんはその前で立ち止まり、ただ見ていた。


 見て、それから、ゆっくりと頷いた。


 何度も何度も停留所で迎えてきた相手に向ける、いつもの頷きみたいに。


 その瞬間、最後に残っていた細い線が、音もなくほどけた。


 空気が少しだけやわらぐ。


 曇った空の下なのに、おばあさんの輪郭のまわりだけ、ごく淡い光が滲む。まぶしいわけではない。雪明かりに似た、白く静かな光だった。


 俺はその光の中で、おばあさんが笑うのを見た。


 大きな笑顔ではない。口元がゆるみ、目尻が下がり、長く待っていた人がようやく「もう大丈夫だ」と思えたときにだけ浮かぶ、小さくて深い笑みだった。


「……ばあちゃん」


 斎藤が、顔を覆ったまま、かすれた声で呼ぶ。


 見えていないはずなのに、その呼び方だけで、そこにいると分かっているのが伝わる。


 おばあさんは答えない。


 ただ、その笑みのまま、少しずつ、少しずつ輪郭を薄くしていく。


 帽子の色が曇り空に溶ける。コートの輪郭が待合小屋の白いパネルに滲む。買い物袋だけが最後まで手元に残り、それもやがて、春先の淡い光の中へ消えていった。


 消える、というより、ようやく景色の中へ帰っていくような薄れ方だった。


 斎藤はその場に立ち尽くし、しばらく動けなかった。


 俺も、すぐには何も言えなかった。


 川の音が戻ってくる。遠くでカラスが一声鳴いた。風がまた枯れ草を揺らす。停留所はいつもの停留所に戻ったはずなのに、そこだけ少しだけ温度が違って感じられた。


「……終わったんですか」


 斎藤が顔を上げずに言った。


 泣き顔を見られたくないのか、声だけがこちらへ届く。


 烏丸が一歩だけ前へ出た。


「一区切りはついた」


 その答え方は、嘘がなかった。


 完全に終わった、とうそぶかない代わりに、今ここで確かに一つの結び目がほどけたことだけは認めている。


 斎藤はゆっくりと両手を下ろした。目元は赤く、鼻にかかった息が少し不安定だ。それでも昨日の喫茶店で見た顔より、ずっと生きた人間の顔に戻っていた。


「俺……今、変でしたよね」


「変ではない」


 烏丸が言う。


「帰ってきただけだ」


 斎藤はそれを聞いて、また少しだけ泣きそうな顔をした。


 俺は停留所の時刻表へ目をやった。古い便名へ向かっていた線は、もうどこにもない。透明カバーの下にあるのは、ただの古い紙だ。けれど、そこに染みついていた時間だけは、たしかに今、役目を終えたのだと思えた。


「近藤さん」


 斎藤がぽつりと俺を呼んだ。


「はい」


「……さっき、何かいましたか?」


 俺は少しだけ迷った。


 全部をそのまま言葉にするのは違う気がした。けれど、ここで何もなかったように返すのもまた違う。


「待ってた人は、斎藤さんを、ちゃんと迎えられたと思います」


 そう言うと、斎藤は目を伏せたまま小さく頷いた。


 風がまた吹く。


 待合小屋の曇ったパネルが、かすかに鳴る。


 斎藤は地面に置いていたボストンバッグを拾い上げた。その動きはまだぎこちない。


「母のところ、行きます」


 自分に言い聞かせるみたいにそう言う。


「それがいい」


 烏丸が答える。


「腹も減るころだ」


 その言葉が妙に日常的で、斎藤は一瞬だけ呆けたような顔をして、それからほんのわずかに笑った。


 たぶん、おばあさんが生きていたら最初に言ったのも、似たようなことだったのだろう。寒かったべ、腹減ったべ、早く帰るぞ、と。


 斎藤が停留所を離れていく。


 背中はまだ軽くはない。これから母と話すことも、仕事を辞めたあとのことも、地元でどうやり直すかも、何一つ簡単ではないだろう。けれど少なくとも、あの夜中のまま止まっていた時間は、今日ここで少し先へ進んだ。


 俺はその後ろ姿を見送りながら、内ポケットの上からそっと手を当てた。


 白い封筒の中のお守りは静かだった。面接の日に神社で出会ったあの女の異類も、今この場には見えていない。けれど、待っていたものが迎えられ、帰れなかったものが帰ってきたこの場所の空気は、たぶんまた別の何かを少しずつ動かすのだろうと思った。


「介錯って、こういう感じなんですね」


 烏丸はしばらく答えなかった。


 ただ、風に揺れる古い時刻表を見てから、低く言った。


「今日はまだ入口だ」


「え?」


「君の本当の仕事は、このあとだ」


 その言葉に、俺はようやく、自分たちの仕事がここで終わりではないのだと気づく。


 今日、おばあさんは笑って薄れていった。けれど、その残り香みたいなものはまだ停留所にある。線がほどけたあとに残る、最後の静けさ。異類を異類たらしめていた時間を、きちんと見届け、解き放つ手つきが、この先に必要なのだ。


 俺はもう一度、何もいなくなった停留所の前を見た。


 白い空。


 錆びた標識。


 曇った待合小屋。


 そして、誰も立っていない場所。


 さっきまでそこにいたおばあさんの気配だけが、春先の風の中に、ほんの少しだけやわらかく残っていた。


 車へ戻るころには、空の白さが少しだけ薄くなっていた。


 晴れたわけではない。相変わらず雲は低いし、山の輪郭もどこかぼやけている。けれど、停留所の前にあったあの張りつめた気配がほどけたせいか、同じ川風でも行きより少しだけやわらかく感じた。


 助手席に乗り込み、ドアを閉める。


 車内に満ちるのは、古い公用車特有の、少し乾いたビニールの匂いと、薄く残ったタバコでもないのにタバコみたいな古い布の匂いだった。烏丸がエンジンをかける。低い振動が戻ってくる。


 俺はシートベルトを締めながら、胸の内ポケットに手をやった。


 白い封筒はそこにある。中の古いお守りも変わらず静かだ。停留所のおばあさんの件が一区切りついた今、逆にそちらの存在が少しだけくっきりした気がした。待っているものは一つじゃない。この地下二階の仕事は、きっとこれからも、そういう残り方をしたものを拾い上げていくのだろう。


「顔が違うな」


 ハンドルを切りながら烏丸が言った。


「そうですか」


「来るときよりは、少しだけ職員の顔だ」


「嫌ですね、それ」


「褒めてる」


「褒め言葉に聞こえないんですよ」


 烏丸は返事の代わりに小さく息だけで笑った。


 車は停留所を離れ、川沿いの道をゆっくり引き返す。枯れ草の色、黒い土、水を含んだ田んぼ。昨日と同じ道なのに、風景が少しだけ奥まで見える気がした。人がいなくなったからではなく、残っていた時間がようやく前へ流れたからだろう。


 しばらくして、烏丸が道の脇の小さな自動販売機の前で車を止めた。


 農機具小屋と古びた雑貨店のあいだに、赤い自販機が一台だけ立っている。雪国の風に長く晒されたせいで、側面の色は少しくすみ、商品見本のいくつかは日焼けしていた。


「降りろ」


「何ですか?」


「コーヒーだ。こないだ言っただろ」


 そう言って烏丸はすでに財布を取り出している。


 俺も助手席を降りた。外の空気はまだ冷たい。だが、さっき停留所で立っていたときの冷たさとは違って、ちゃんと季節の中にある冷たさだった。


 烏丸は迷いなく缶コーヒーを二本買った。ブラックと微糖。俺にはどちらか選ばせる気もないらしい。微糖をこちらへ放って寄越す。


「ありがとうございます」


「落とすなよ。役所の経費じゃない」


「そこなんですね」


「そういうのは大事だろう?」


 缶はまだ温かかった。


 手のひらにじんわり熱が染みてくる。その温度だけで、妙に気が緩みそうになる。自販機の脇の狭いコンクリートの縁に並んで立ち、俺たちはしばらく何も言わずに缶のプルタブを開けた。


 小さく金属の鳴る音。甘くて焦げた匂い。


 一口飲むと、熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうど体の内側に落ちる温度だった。味は安い。安いが、こういう場所で飲む缶コーヒーは、たぶん味だけでは決まらない。


「……終わったんですかね」


 缶を持ったまま、俺はぽつりと言った。


 烏丸はすぐには答えなかった。白い息が、春先の空気に溶ける。


「終わった、でいい部分と」


 一度、コーヒーを飲む。


「これから始まる部分がある」


「斎藤さんのことですか」


「ああ」


 烏丸は前方の何もない田んぼのほうを見たまま続けた。


「婆さんは待つ役目を終えた。だが、孫のほうはこれからだ。仕事を辞めて、地元に戻って、母親と向き合って、自分が止めていた時間の続きを生きることになる」


「きついですね」


「当然だ」


 即答だった。


「だが、あれをやらずにいたら、もっと長くきつかっただろう」


 俺は頷いた。


 たしかにそうだった。昨日までの斎藤は、生きているのにどこか半分止まっていた。祖母が死んだ夜の先へ、体だけが引きずられていたような顔をしていた。今日、停留所で「ただいま」と言ったことで、全部が解決したわけじゃない。けれど少なくとも、自分の足で止まっていた場所へ戻ったのだ。


「課長」


「ん?」


「俺がさっきやったこと、何て書くんです」


 烏丸が少しだけ目を細めた。


「報告書に、か?」


「はい」


「帰ったら教えてやる」


 それだけ言って、缶コーヒーを飲み干した。


 空き缶を投入口へ入れる乾いた音が、小さく響く。俺も少し遅れて缶を捨てた。手の中から熱が消えると、風の冷たさがまた戻ってくる。


 車へ戻る直前、何となく周囲を見回した。神社で見た紺のコートの女の異類は、ここにはいない。けれど、その不在が少しだけ穏やかに感じられた。何かが進むのを見届けて、少し距離を取ったような、不思議な不在だった。


 *


 地下二階の異類対策課へ戻ると、時間はもう夕方から夜へ移りかけていた。


 窓のない部屋だから、外の色は見えない。けれど県庁全体の気配が少し静かになっていて、廊下を歩く足音の数も減っていた。日中のざわめきが引いたぶん、地下の古い匂いがいっそう濃く感じられる。


 烏丸は机に座るなり、クリアファイルから今日の資料を全部出した。


 停留所の地図。古い時刻表。聞き取りのメモ。斎藤との面談内容。家族構成。死亡届の照会結果。役所の紙は、出来事をいつも平らに並べる。けれど、その平らな紙の一枚一枚の向こうに、待ち続けた時間や、帰れなかった夜がたしかにあるのだと、今の俺にはもう分かっていた。


「君も座れ」


 そう言われて、向かいの椅子に腰を下ろす。


 烏丸はメモ帳を開き、ボールペンを取り出した。普段のだらしない雰囲気に似合わず、字を書くときの手つきだけは妙に整っている。


「まず事実関係を時系列で確認する」


「はい」


「見落としがあると、次から同じことを再現できない」


「再現って……」


「前例ってのは大事なんだ。役所だからな」


 そう言ってから、烏丸はごく淡々と読み上げ始めた。


 旧優和線石多停留所における異類の滞留を確認。現地観測により、当該異類は高齢女性の姿を取っていたこと。聞き取りおよび死亡届照会により、身元を特定。故人は娘夫婦および孫と同居歴があり、大学進学時の見送り、帰省時の出迎えに当該停留所を用いていたこと。危篤時、孫は都心勤務のため立ち会えず、死の間際まで故人が孫を気遣う発言をしていたこと――。


 紙の上にすると、やはり短い。


 だが、その短さの中に、どこまで書けば足りて、どこから先を書かないほうがいいのか、その境目を探るような真剣さがあった。


「ここから先だな」


 烏丸がペン先を止めた。


「君の見たものを、そのまま言え」


「そのまま、ですか」


「順番に、現場で見えた順に言うんだ」


 俺は一度息を吸い、停留所で起こったことを思い出した。


「おばあさんから、古い時刻表へつながる糸が見えてました。現地再訪時、斎藤さんがバスで到着した瞬間、その糸が強く張りました。それから、時刻表の文字のあたりから、バスの扉の内側へ向かって、もう一本、淡い線が伸びました」


 烏丸は黙って聞き、必要なところだけ短く書き留める。


「続けて」


「斎藤さんが『ただいま』『心配かけてごめんね』『地元でやり直すよ』って言ったあと、おばあさんの輪郭が濃くなって、表情が変わりました。笑ってました。責める感じじゃなくて……」


「そのままでいい」


「はい。で、糸がほどけ始めたんです。時刻表に固定されてた感じがなくなって、最後に、待合小屋の時刻表の裏にだけ小さく残りました」


「小さく残った、というのは」


「結び目というか、最後の名残みたいな感じです」


「それを」


「俺が、触るつもりで手を伸ばしたら、反応しました。実際に紙に触れたわけじゃないです。でも、見えてる糸の残りが、手の動きに合わせて形を変えた」


「君は何をしたつもりだった」


 その質問に、俺は少し考えた。


 ただ引っ張ったわけじゃない。壊したわけでもない。もっと違う感覚だった。


「……ここに留まらなくてよくなったって、結び目を解いてやるつもりでした」


 言いながら、自分でも妙な表現だと思った。だが、それ以外に言いようがない。


 烏丸はその言葉をしばらく反芻するように黙ってから、静かに頷いた。


「なるほど」


「分かるんですか」


「全部は分からん。だが、名前はつけられる」


 そこで烏丸は、報告書の余白へ何かを書き込んだ。


 介錯。


 俺はその二文字を見て、少しだけ背筋が伸びた。


「……それ、前からある言葉なんですか」


「もともと、うちの課で使っていた言葉ではある」


 烏丸はペン先でその文字を軽く叩いた。


「ただし、今日見た現象を、今後きちんとそれに位置づける必要がある。異類の因縁を解明し、本人の納得と遺された側の言葉を経て、最後にお前が縁を解き放つ。この一連を、実務として整理する」


「実務って」


「仕事にするってことだよ」


 その言い方はひどく県庁らしくて、なのに不思議と冷たくなかった。


 整理して、言葉を与えて、次に同じようなものが現れたとき、誰かが迷わず手を伸ばせるようにする。それはたぶん、役所のやるべきことでもあるのだろう。


「じゃあ、俺は……」


「介錯の担当者だな」


 烏丸がさらりと言う。


「今日の件で、それはもう決まった」


 決まった、という言葉に、思わず苦笑しそうになった。本人の心の準備より先に、仕事だけはもう始まっている。


 報告書は思ったより長くなった。


 烏丸が書いた骨子に、俺が見えたものを補足し、聞き取りや照会の事実を整えていく。公文書にする以上、あまり情緒的な言葉は使えない。けれど、ただ冷たいだけの文面にもしたくなかった。


 故人は死の間際まで孫を気遣っていたこと。停留所は当該家族における見送り・出迎えの象徴的空間であったこと。孫本人の帰郷と謝罪、地元での再出発の表明により、異類の滞留状態に明確な変化が認められたこと。


 そういう書き方になった。


 もっと他に言いようはある気もしたが、今はこれが一番正確だった。


 書類をまとめ終えるころには、廊下の音はさらに少なくなっていた。


 地下二階の静けさは、夜になると少しだけ深くなる。遠くの配管の音、古い蛍光灯の小さな唸り、紙をめくる音。それだけで部屋が成り立っているような、沈んだ静けさだ。


 烏丸は最後に報告書の末尾を見直し、署名欄の手前でペンを止めた。


「近藤」


「はい」


「お前の名前も入れる」


「俺の?」


「ああ、担当者としてな」


 そう言って、用紙をこちらへ回す。


 そこには、課長・烏丸護の下に、担当という文字の横が空白の用紙。


 たったそれだけのことなのに、なぜか妙に現実感があった。


 地下二階へ連れてこられた朝には、まだ自分がここに属する人間だという実感は薄かった。けれど今、この一枚の報告書に自分の名前が入っている。


 見えてしまうだけだったものが、初めて誰かの役に立つ形になったのだと思うと、胸の奥が少しだけ重く、少しだけ静かになった。


「署名しろ、とは言わないんですか」


「今日はまだいい」


 烏丸は書類を引き戻しながら言った。


「逃げるなら今夜が最後だ」


「嫌なこと言いますね」


「親切だろ」


 俺は思わず笑った。


 大きな笑いではない。けれど、停留所を出てから初めて、肩の力が少し抜けるような笑いだった。


 そのときだった。


 机の端に、もう一枚の封筒が置かれているのが目に入った。


 県庁の名前入りの、白い、やけにきれいな封筒。朝ここへ来たときには気づかなかったのか、それとも最初からそこにあったのに、俺に見る余裕がなかったのか。


 烏丸が俺の視線に気づく。


「ああ、それか」


「何ですか?これ」


「まだ読んでなかったのか?」


「……まさか」


「そのまさかだよ」


 烏丸は封筒を指先でこちらへ押しやった。


 嫌な予感と、分かりきった予感が同時に胸の中で混ざる。


 俺は封筒を手に取った。紙は硬く、県庁の正式な文書らしい張りがある。中の書類を引き出すと、そこには見慣れた定型の文面が並んでいた。


 辞令。


 氏名 近藤伊織。


 配属先 暁田県庁 異類対策課。


 活字は無愛想なくらい整っていて、余計な感情の入り込む余地なんてどこにもない。ただ事務的に、決定事項としてそこに印字されている。


 俺はその一行をしばらく見つめていた。


 朝、地下二階で見たときより、今のほうがずっと重い。


 もう冗談ではないし、間違いでもない。古びた停留所に立つ異類を見て、帰れなかった孫の告白を聞いて、自分にしか見えない糸をほどいたあとで見るその文字は、たぶん入庁式のどんな祝辞よりも現実的だった。


「……断れますかね?」


 思わず呟くと、烏丸が間髪入れずに言った。


「断れない」


「ですよね」


「もう現場も見たし、報告書にも君の名前が入っている」


「既成事実が早すぎません?」


「役所は手続きが遅い代わりに、一度進むと話が固まるのは早いんだ」


 俺は辞令書から目を上げ、地下二階の部屋を見回した。


 積まれた書類。古い書庫。少し冷めたコーヒーの匂い。窓のない蛍光灯の白さ。地上の誰も知らないかもしれない、小さな課。


 ろくでもない場所だと思った。


 思ったが、同時に、今日この場所がなければ、おばあさんはまだ停留所に立っていただろうし、斎藤はたぶん帰れないままだった。そう思うと、この地下二階の薄暗さも、ただの厄介事の巣には見えなくなる。


「この課、ずっと二人なんですか」


「今のところは、な」


「今のところ?」


「君が逃げなければ、少なくとも二人だ」


 辞令書を封筒へ戻しながら、俺は小さく息を吐いた。


 地上の県庁とは違う空気。見えるものと見えないもののあいだで成り立つ仕事。説明のつかないものを、説明のつく形へ寄せて、最後にちゃんと別れさせる実務。


 面倒だ。


 面倒だが、たぶん俺はもう、それを見なかったことにはできない。


 停留所で、おばあさんが最後に笑った顔が、まだ目の奥に残っている。あの顔を見てしまった以上、ただ逃げるために見えないふりをするのは、前よりずっと難しいだろう。


 地下二階の蛍光灯が小さく唸る。


 烏丸は報告書をクリアファイルへ収め、机の端に整えて置いた。その仕草はいつも通り淡々としているのに、どこかで今日の一区切りを受け止めているようでもあった。


「帰るか」


 彼が言う。


「ちなみに、今日の残業代は出ないぞ」


「もう少し夢のある言い方ないんですか」


「ないな」


 俺は苦笑しながら立ち上がった。辞令書の封筒を手に取る。胸の内ポケットには、お守りの入った白い封筒がある。手には、正式な配属を告げる別の白い封筒。


 ひどく似た重さだった。


 一つは、まだ解かれていない待ちの名残。もう一つは、これから俺がここで働くという決定。


 地下二階の扉を開けると、廊下はしんとしていた。誰もいないわけではないのだろうが、気配は薄い。県庁の夜が地上で静かに閉じていくあいだ、この地下だけは別の時間で息をしているみたいだった。


 エレベーターへ向かう途中、ふと、配管の影を見た。


 昨日いた作業着姿の男の異類は、今日はもういなかった。いや、見えなかっただけかもしれない。あるいは、俺の意識が今日はそちらまで向かなかっただけか。


 烏丸が隣を歩く。


「何か見たか」


「いえ、今日は何も」


「そうか、それでいい」


 小さなエレベーターに乗り込み、一階へ上がる。


 箱がゆっくり上昇するあいだ、俺は鏡もない壁をぼんやり眺めていた。朝、ここを下りたときと同じ数十秒のはずなのに、今はもう別の場所から戻ってくる気分だった。


 扉が開く。


 地上の空気は地下より少し乾いていて、少し人間の生活に近かった。ロビーはもうほとんど片づきかけていて、受付の灯りも半分落ちている。ガラスの向こうは夜の色で、駐車場の照明だけが白く滲んでいた。


 県庁の玄関を出る前、俺はもう一度だけ辞令書の封筒を見た。


 暁田県庁 異類対策課。


 そこに書かれた文字は、朝よりもずっと馴染まないまま、けれど朝よりもずっと現実だった。


 幽霊だの怪異だの神様だの、世間一般ならそう呼ばれるものを、県庁の内側では異類とひとまとめにする。その部署に、自分は正式に配属されたのだ。


 地上の夜風が頬を撫でる。


 冷たいが、もう嫌な冷たさではない。


「近藤」


 先に歩き出しかけた烏丸が、振り返りもせずに言う。


「明日も来いよ」


「辞令もらったんだから来ますよ」


「そうか」


 それだけ言って、彼は夜の駐車場へ出ていく。


 俺もその背中を追った。


 暁田の夜は静かだ。春はまだ遠く、風には冬の名残がある。けれど、その冷たさの中にも、たしかに前へ進む匂いが少しだけ混じっていた。


 県庁に就職したはずだった。


 なのに俺は、地上のどこにも載っていないような地下二階の部署で、忘れられずに残ったものたちの因縁を解き、最後に別れさせる仕事に就くことになった。


 ろくでもない。


 ろくでもないが、完全に間違っているとも思えない。


 そう思ってしまった時点で、たぶんもう逃げ道はないのだろう。


 胸の内ポケットの封筒が、かすかに存在を主張する。


 まだ、次の話が待っている。


 俺は夜の県庁をあとにしながら、小さく息を吐いた。


 白くなったその息はすぐに消えたが、地下二階から始まった俺の仕事は、たぶんこれから先もしばらく消えない。












 暁田県庁 異類対策課

 異 類 対 応 報 告 書

 文書番号異対報第01号起案日令和○年四月○日

 所  属暁田県庁 異類対策課起案者担当 近藤伊織

 件  名旧優和線 石多停留所異類事案決裁者課長 烏丸護


 1 概要

 交通政策課からの情報共有を受け、旧優和線 石多停留所付近において高齢女性の姿を取る異類の滞留を確認したため、現地観測、庁内記録照会、近隣聞き取り及び関係者接触を実施した。

 調査の結果、当該異類は当該停留所近隣に居住していた故人女性である可能性が高く、同停留所が孫の見送り及び帰省時の出迎えの場として強い意味を有していたことが判明した。

 2 調査経過

(1)現地確認において、当該異類は停留所前に継続滞留し、「まだ来ねえ」「来るはずだ」「約束した」等の発話を反復していた。担当近藤伊織は、当該異類から停留所掲示の旧時刻表付近へ至る縁の線を視認した。

(2)死亡届照会及び住民情報確認により、故人は娘夫婦及び孫と同居歴を有し、既に死亡していることを確認した。

(3)近隣住民聞き取りにより、故人は孫の大学進学時に当該停留所で見送りを行い、その後も帰省のたびに同停留所で迎えていたことを確認した。

(4)関係者接触により、孫本人は都心勤務の過重就労状態にあり、故人危篤時に帰郷が間に合わなかったこと、また故人が死の間際まで「孫が帰ってきたらたくさん甘やかしてあげたい」旨を周囲に話していたことを確認した。

 3 調査結果

 本件異類の滞留要因は、停留所又は旧時刻表への単純な執着ではなく、故人が孫を迎え続けたいという未完了の情動により、当該場所に残留したものと判断される。

 特に、大学進学時の見送り、帰省時の出迎え及び「また帰ってくる」との孫の言葉が、故人にとって生活上の約束として残存し、死後も当該停留所における待機状態を継続させていたと認められる。

 4 対応結果

 孫本人に対し関係事実を確認の上、当該停留所への帰郷対応を依頼した。本人は実際にバスを利用して現地へ赴き、故人に向けて、帰れなかったことへの謝罪、「ただいま」との帰郷意思表示及び地元でやり直す意思を自発的に表明した。

 上記発言後、当該異類の表情及び気配に明確な軟化が認められ、担当近藤伊織が視認していた残留縁は緩解状態へ移行した。これを受け、担当者による介錯を実施した結果、残留縁は消失し、当該異類も現地から消失した。

 5 結論

 本件は、故人が孫を労いたいという未完了の愛情を抱えたまま死去し、その情動が停留所という具体的場所に結びついて異類化した事案である。

 また、本件の解消には、身元特定、生活史の確認、関係者の言葉による納得形成及び担当者による介錯の全過程が必要であった。今後、同種事案においても、因縁の調査、関係者接触及び残留縁の観測記録を一体として実施する必要がある。


 起案担当 近藤伊織

 決裁課長 烏丸護



ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


第一話は、伊織が異類対策課に配属されて、最初の現場を経験するお話でした。

派手な始まりではありませんが、この作品らしい空気感や、これから描きたいものを詰め込んだ一話になっています。


怪異や不思議な存在を描きつつも、怖さだけではなく、少し切なくて、最後に静かな救いが残る話にしていきたいと思っています。

伊織と烏丸の二人が、今後どんな異類たちと出会っていくのか、見守っていただけたら嬉しいです。


ありがとうございました。

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