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バリテン②


「あんた、どこさほっつき歩いて──!」


 夜遅くに帰宅したおらを怒鳴りつけようとした嫁子が、すぐにおらのボロボロのなり(・・)に気がついて息を呑んでいた。


「何があったん?」


「水をくれ」


 テーブルの椅子に座り、深く息を吐いた。


 コップに()がれた水を飲もうと手にするも、震えてままならなかった。


「あんた」


「いいんだ。はは。ははは」


 嫁子が心配するのも無理はない。


 土に(まみ)れてボロボロの服。特にズボンは(もも)から下が無くなっていた。それでいて身体に傷らしきものは全くなく、波が立つほど水の入ったコップをブルブルと震わせながら、引きつらせた笑みを浮かべている亭主がいるのだ。


 きっと何かあったに違いないと考えているだろう。


 おらは片手をあきらめ、両手でしっかりとコップを押さえつけてから、ぐいと一気に水を飲み干してやった。


「トンデモねえ……」


 興奮が、醒めてくれない。


「ねえ、何なのよ、いったい」


「領主様だ」


「え?」


「おらたち、トンデモねえ領主様のもとにおるんだで!」


「どしたん、いきなし。そら領主様はあたしらによくしてくれてるもの。税も低くしてくれて、たまに狩ってきた獲物の肉までおすそ分けしてくれるなんてねえ。最近じゃ、魔力灯っていうんけ? あっちこっちに建ててくれとるよね。まだ(わけ)えのに、できた人だべ」


 侯爵家の領地とは名ばかりの、見捨てられた集落だった。


 あのままだったら、ゆるやかな終わりを迎えていたのは間違いない。


 そこにあの人が来た。


 新興男爵として、侯爵家に替わって新たな領主となった、異例の成り上がり貴族。


 ──シビカ・ネガロ・アクトラーナ。


 およそ貴族っぽい優雅さからは掛け離れた人だった。


 狩りをしている時のほうが生き生きしてた、そんな目撃談がおらのところにも寄せられていた。



「まだ本性を出していないだけ」

「様子を見てるんだろ」

「貴族なんてみんな同じだべ」



 町をつくり、漁村の、農村の住環境を良くしてくれた。


 感謝は勿論している。それでも、どうせと、みんなは身構えるのをやめようとしない。


 長すぎた。


 放置されすぎた。


 魔物の脅威にずっとさらされすぎたのだ。


 助けは来ないもの。そういう、悲観主義みたいな性根がアクトラーナの民には染みついていた。


 おらだってそうだった。

 今夜までは。


 ああ、器量(スケール)どころの話ではなかった。


 あの領主様は、おらみてえなちっぽけな領民すらも見捨てなかった。


 頑丈そうな身体をしていた。

 それでも明らかに危険域に突入していた。


 恐怖で声も出せなかったおらとは全く違う。比べることすらおこがましかった。


 そりゃあ聖女様だって、惚れない筈がない。


 見てくれなんかじゃない。


 本当の、人としての魅力に、聖女様はやられちまったに違いない。


 だって、おらがそうだから。


 言えないのがもどかしい。けど守らなきゃ。領主様と約束したんだから。


 その上で。


「おらに、できることはあるべか」


 力になりたかった。

 生命を救ってくれた、大恩あるあの若き領主様に。


「何言うとんの。あんたが声掛けしたら、みんなついてくべさ。あんた、(べこ)さ育てることと人望だけはここじゃ誰にも負けてねえんだからよぉ」


 嫁子が胸を張って誇らしげに言ってくれた。


 ヨークとサボが故郷を離れた後、一人残され途方に暮れていたおらを励ましてくれた娘だった。


 ただの牛飼いでしかないおらを、好きだと言って(とつ)いでくれた娘だった。


「おめえがそう言うんなら、うん、やってみっぺ!」



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