二十
男は嘉兵衛と名乗った。
日本橋にある老舗の薬種問屋の隠居の身であると明かした嘉兵衛の品の良さに、なるほどと雪は合点する。
借金を肩代わりしてくれたその理由を話すとお茶に誘われた雪が、まったく警戒を解いたわけではないものの、嘉兵衛に言われるがままついてきたのは、その身形が故だった。
「何度か店で見かけたことがあってね。ずっと気になっていたんだ。随分と苦労をしているそうじゃないか」
「いえ……そんなこと」
雪は薬種問屋で、店の者に名前すらも明かしていなかった。
しかし借金を肩代わりしたということは、嘉兵衛がある程度の事情を知っていたことになる。
自身が明かしていない以上、わざわざ調べたということだ。
「神田の祠で見かけたときが、一番胸にきたよ」
「…………」
必死に祈る姿を可哀そうだと思ったとして、借金まで肩代わりするだろうか。
余裕のある者は善意でそこまでできるのかと、腹の底の知れない嘉兵衛から、雪は顔を逸らした。
「必ず返します。もう少しだけ、待っていてください」
「お前さんからお金を取ろうなんて、これっぽちも思っとらん」
では、嘉兵衛の望むものとは……
聞きたいのに、何故か言葉にすることができなかった。
「儂は毎朝散歩をするのだが、そのときに必ずあの祠がある道を通る。薬が欲しくなったら、祠に紐を結んでくれればいい。そうすれば、いつでも無代で薬をあげよう」
「そんなこと、できません」
無代で薬が手に入れる。
警戒する以前に、無代でもらうことには憚りもあり、そんなうまい話があるのかとも警戒する。
「無償ではない。お代は……」
雪の手に、嘉兵衛の手が重なる。
嘉兵衛の意図がわかった瞬間だった。
「こうして一緒にお茶をしてくれるだけでいい。儂が望むのは、お前さんだ」
「……私には、旦那がいるんです」
「出て行ったんだろう?」
嘉兵衛はほとんどの事情を知っているらしい。
惨めだが、雪には貫き通したい想いがあるのだ。
「いつか帰ってきてくれます。だから、あの人を裏切ることはできない」
「…………」
少し驚いた表情の嘉兵衛は、それでも侮るような眼を雪に向けなかった。
(思ったよりも難攻不落、だな……)
「だが、今は一人で子どもを育てている。儂と会うだけで薬がもらえるなら、お前さんにとってもいい話だ。……お前さんが紐を結んでくれるのを、待っているよ」
決めたのは、雪自身。
次に嘉兵衛と会ったときから、すでに引き返せない道を歩み始めていた。




