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まつとし聞かば  作者: 夏野
第三幕 入りにし人の、跡ぞ戀しき
96/202

二十

 男は嘉兵衛と名乗った。


 日本橋にある老舗(しにせ)の薬種問屋の隠居の身であると明かした嘉兵衛の品の良さに、なるほどと雪は合点する。

 借金を肩代わりしてくれたその理由(わけ)を話すとお茶に誘われた雪が、まったく警戒を解いたわけではないものの、嘉兵衛に言われるがままついてきたのは、その身形(みなり)ゆえだった。


「何度か店で見かけたことがあってね。ずっと気になっていたんだ。随分と苦労をしているそうじゃないか」


「いえ……そんなこと」


 雪は薬種問屋で、店の者に名前すらも明かしていなかった。

 しかし借金を肩代わりしたということは、嘉兵衛がある程度の事情を知っていたことになる。

 自身が明かしていない以上、わざわざ調べたということだ。


「神田の祠で見かけたときが、一番胸にきたよ」


「…………」


 必死に祈る姿を可哀そうだと思ったとして、借金まで肩代わりするだろうか。

 余裕のある者は善意でそこまでできるのかと、腹の底の知れない嘉兵衛から、雪は顔を()らした。


「必ず返します。もう少しだけ、待っていてください」


「お(まい)さんからお金を取ろうなんて、これっぽちも思っとらん」


 では、嘉兵衛の望むものとは……


 聞きたいのに、何故か言葉にすることができなかった。


「儂は毎朝散歩をするのだが、そのときに必ずあの祠がある道を通る。薬が欲しくなったら、祠に紐を結んでくれればいい。そうすれば、いつでも無代(ただ)で薬をあげよう」


「そんなこと、できません」


 無代(ただ)で薬が手に入れる。

 警戒する以前に、無代(ただ)でもらうことには(はばか)りもあり、そんなうまい話があるのかとも警戒する。


「無償ではない。お代は……」


 雪の手に、嘉兵衛の手が重なる。

 嘉兵衛の意図がわかった瞬間だった。


「こうして一緒にお茶をしてくれるだけでいい。儂が望むのは、お前さんだ」


「……私には、旦那がいるんです」


「出て行ったんだろう?」


 嘉兵衛はほとんどの事情を知っているらしい。

 (みじ)めだが、雪には貫き通したい想いがあるのだ。


「いつか帰ってきてくれます。だから、あの人を裏切ることはできない」


「…………」


 少し驚いた表情の嘉兵衛は、それでもあなどるような眼を雪に向けなかった。


(思ったよりも難攻不落、だな……)


「だが、今は一人で子どもを育てている。儂と会うだけで薬がもらえるなら、お前さんにとってもいい話だ。……お前さんが紐を結んでくれるのを、待っているよ」


 決めたのは、雪自身。

 次に嘉兵衛と会ったときから、すでに引き返せない道を歩み始めていた。

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