三十九
一月が経ち、雪の日常は、平穏に戻りつつあった。
夜に一人で出歩くことはしなかったが、昼は買い物に出かけたり、内職を請け負っている尾花屋に行ったりと、誰かが付き添わなくても精神的に安定していた。
辰巳も用心棒の仕事をはじめ、家を空ける時間が多くなっていたが、日に一度は必ず、雪が待っている家に帰ることを努め、二人での生活を謳歌していたのだった。
「おかえりなさい、辰巳さん」
辰巳は真っ先に、家の中に立ち込める匂いに反応した。
「今日はけんちん汁か」
匂いにつられ、たどり着いた台所では、雪が胡麻油で野菜を炒めている。
具材から、辰巳は自身の好物を連想させた。
「今日のけんちん汁は、前みたいにお粗末なものじゃありません」
雪は一度、辰巳にけんちん汁を作ったことがあるのだが、季節外れに作ったため、具材が乏しいものになってしまっていた。
それでも美味しいと言ってくれた辰巳の優しさを、雪は改めて思い出す。
「雪の作ったけんちん汁なら、何だっていい」
家に帰って来て、雪が帰りを待っている。
辰巳は二人で過ごすこの時に、充分すぎるほど満足していた。
「今日で仕事が終わりだったんだ。これでしばらくは一緒にいれる」
報酬も良い仕事だったので、しばらくはのんびりしようと辰巳は決めていた。
何より、雪と一緒に過ごしていたい。
「……そう、ですか」
雪は少しだけ、言葉に詰まりそうになった。
「美味い」
味わいながらけんちん汁を食べる辰巳を見て、雪は安堵した。
一度しか作ったことがない料理に自信を持てるわけもなく、ましてや辰巳の好物となれば失敗はできないと、慎重に仕上げていた。
その甲斐あってか、辰巳を喜ばせることができたようである。
毎日ではなくてもこうして辰巳と一緒に食事をして、共に暮らせたら……
雪は密かに、夢をみていた。
だが、夢を思い描けば虚しさが押し寄せるだけで、それでも雪は辰巳との未来を想像せずにはいられない。
泡沫の時は過ぎてゆく。
片づけを終え、一息ついたところで雪は覚悟を決めた。
「辰巳さん。私、明日の朝にここを出ます」
辰巳は何かを言い淀んだ様子で、しかし言葉を紡がなかった。
お互いに、終りが迫っていることをひしひしと感じていた。だからこそ、最後を決定づける言葉を言おうとしては言えなかった。
雪が言わなければ、辰巳が告げていた。
どちらが言ったとしても、二人の結末は変わらない。
しばらくして、優しい声音で雪に言った。
「これで最後、か」
きっとこれが、本当に最後だ。
雪は住んでいた長屋をとうに引き払っていたので、次の住処が決まるまでは紫乃の家に泊まることになっている。
次は尾花屋に近い神田に住もうかと、検討していた。
辰巳はこのまま、雪が何処に住むのかを知ることはない。
もしも町ですれ違ったら声をかけてもいいのだろうかと、雪は考える。
険悪になって別れるわけではないので、無視する方が失礼な気もした。
雪が辰巳の元を去ろうと決意したのは、一人で生活を送れるようになったからである。
しかし内心では、いついつまでも、雪は辰巳の側にいたかった。
(でも、私は汚れてしまった……)
嬲られた汚い身体など、受け入れてくれるわけがない。
雪の身体は辰巳以外を知ってしまった。
やっと、想いは通じ合ったはずなのに……
二人で眠る夜。隣に並んだ布団の距離は、最後も縮まることがなかった。
雪が襲われた一件以来、辰巳は一度も雪を抱いていない。
それどころか、雪の精神が安定してからは触れようともしなかった。
辰巳の温もりに戀焦がれた雪の身体は、疼いて仕方がない。
(これで、最後なのに……)
たった一度でいい。全身を酔わせてくれる、あの温もりが欲しい。
「眠れないのか?」
降り積もった想いは、消えなくて。
雪の心は、辰巳を求めた。
「……お願い。抱きしめて」




