三十八
「あの人と別れるつもりだったの?」
昨晩、紫乃は不在の辰巳に代わって娘の李々と一緒に、雪と寝泊まりしていて朝に至る。
朝餉の刻限になっても辰巳は帰ってきてはおらず、紫乃は雪と緩やかに過ごしている中で尋ねた。
「うん。……もう、会わないつもりだった」
紫乃は、雪から家を引っ越すことは聞いていて、何か手伝えればと雪の家を訪ねたときに辰巳と出くわした。
そのときに辰巳は、雪が引っ越すことを知らなかったという反応をしたので、もしやと思ったわけである。
「ただ遊ばれているだけだって勘違いしてたから……私が一方的に好いているなんて、虚しくて耐えられなかった」
雪は愛に飢えている。
やっと愛してくれる人と想いが同じになっとき、雪に災厄が襲った。
「雪に酷いことをしたら、私がぶん殴ってやるから」
艶やかな笑顔で言う言葉にしては物騒だ。
冗談か本気か、雪はどう返事をしたものか迷って、結局ぎこちなく微笑み返しただけだった。
その後、少しも経たずして辰巳が戻り、紫乃と李々は家を後にした。
辰巳は家に帰ってからというもの一言も話さず、雪に背を向けて座り込む。
何かあったのかと尋ねようとした雪だったが、辰巳は孤独で他人に踏み込ませないような雰囲気を漂わせていた。
せめてお茶でも淹れようと雪が腰を上げたとき、重々しかった辰巳の口が開いた。
「お前が襲われたのは、俺の所為だ」
雪の動きが止まった。
立ち上がりかけた姿勢はそのままで、辰巳を見やる。
重い響きのある声は、単なる呟きではないことを雪は感じ取った。
雪はその場に座り直して、次の言葉を待った。
「俺は信州松代藩の武士の子だった。もっとも、妾腹だったがな」
初めて聞かされる辰巳の出自に、雪は目を見開いた。
どうして今になって、辰巳は出自を明かしたのか。
今まで教えてくれなかったわけではないが、おそらくは語りたくはなかったことなのだろう。
雪を襲った男たちは辰巳の名を口にしていた。
過去と関係があるからこそ、辰巳は告げようと覚悟したのかもしれない。
「苦しいなら、話さないで」
「お前の方が何百倍も苦しんでいるのに、言わずにはいられねぇよ。それに、俺が苦しいのは素性を明かすことじゃなくて、お前がいなくなることだ」
雪が黙って自分の元から去ろうとしていたことが、辰巳には堪えていた。
素性を明かさなかったのも、過去を知った雪が離れてしまうのを恐れたためだ。
辰巳の覚悟に、雪も心して耳を傾けた。
「妾腹の子だった俺は、親父の正妻に疎まれていて殺されかけた。まあ、よくある話だ」
複雑な事情が絡んでいるとはいえ、よくある話とまとめる感覚が雪にはわからなかった。
武士の世界とは、そんなにも殺伐としているのだろうか……
辰巳もまた、暗い影を背負っていた。
「まだ十にもならねぇガキの頃だった。必死に逃げた俺は、流れ流れてある剣客集団に属することになった」
「剣客集団……?」
「聞こえはいいが、要は殺しで金を稼いでいた集団だ」
ぞくりと、雪は身震いした。
辰巳は刀を持っているが、人を斬っている姿など想像もできない。
雪は何度か、辰巳が刀の手入れをしている姿を見たことがあるが、刀に馴染みのない雪からすれば、刀身を見ただけで怖気がした。
あまりにも雪の日常からは、遠い存在だった。
「三年前に足を洗って江戸に住むようになったんだが、お前を襲った男たちは、昔の俺を知っていたらしい。昔の恨みがあるのか、油断していた俺を斬りつけてきやがった」
「あのとき怪我をしていたのは……」
「そういうことだ」
皮肉にも、これが二人の出会いとなったわけである。
「狙われているのは俺だったが、あいつらの矛先はお前にいっちまったんだ……」
雪を貶めることで、辰巳を絶望させる。
それが、雪が襲われた原因だった。
「だから全部、俺の所為なんだ」
雪はそっと立ち上がり、辰巳の側に歩み寄る。
辰巳の過去を知って、雪の鼓動は早鐘を打っていた。
「あいつらは俺が殺した。俺は、こんな償いしかできねぇ……」
「辰巳さん」
雪は辰巳の背中に身体を寄せた。
優しい声音で、辰巳に語りかける。
「あなたの所為じゃない。あなたは何も、悪くない」
今すぐ雪を抱きしめたい。
けれど辰巳は、すんでのところで自身を止めていた。
和泉から、彼が拾ってくれたという雪の簪を受け取っていたのだが、雪に渡すことをしなかった。
人を殺めた己の汚い手で、雪を愛する資格がないことを思い知っていたのだ。
(絶対、許せない……)
大好きな友人が傷つけられた。
叶うならこの手で殺してやりたいと、紫乃は鬱屈とした気分で歩んでいた。
「かかしゃ、あれ何?」
辰巳の家からの帰り道、母に手を引かれて歩く李々は、橋の下を指さしている。
紫乃が見てみれば、驚きのあまりに目を見開く。
並べられた二つの筵と、それを検分している同心や岡っ引きがいる。
筵の下からは、隠しきれない血痕が流れていた。
「こりゃあ、よっぽどの恨みを買ったんだな」
「惨たらしい死体だぜ……」
紫乃たちと同じく、橋の上から様子を見ていた通行人たちが話している。紫乃はその声で、我に返った。
「李々、見ちゃだめ。帰りましょ」
紫乃の心は、曇天の隙間から放つ陽射しのように晴れやかだった。
昨夜の雨は止み、空はもうすぐ晴天へと変わってゆく。
雪の未来がこの空のようになることを願いながら、紫乃は家路に就いた。




