十九
(遅い……)
ひたすら雪の帰りを待つ辰巳は、もしや彼女に何かあったのではないかと、心配すら芽生えるようになってしまった。
明日で切れてしまう縁とはいえ、雪に何かがあれば寝覚めが悪い。
こうなれば探しに行くしかないと、戸口に手をかけようとした刹那、戸口が開かれて、目の前には待っていた人が現れた。
「お」
「……!」
雪は驚くときも静かだと、どこか暢気になれたのは、雪が帰ってきた安堵感からだった。
「ごめんなさい。まさかいるなんて思わなかったから」
「いや……」
辰巳が部屋の中に戻れば、外に行くのではなかったのかと雪は疑問符を浮かべた。
直に日が暮れる。
雪と辰巳が過ごす時間は、あと残り僅かだ。
──あの人と初めて会った日、おとっつあんが帰ってきてくれたと思った。
父が帰ってくるはずがない。
来ない人を待ち続けているなんて、愚かなことだ。
そろそろ踏ん切りをつけて、近いうちに長屋を出ていくつもりだった。
寂しい気持ちのままだった心を最後に満たしてくれたのは、きっと……
「お粗末ですけど、どうぞ」
雪はそう言って、辰巳の前に椀を置いた。
椀からは、香りとともに湯気が立ち上っている。
食欲を刺激するには充分で、好物なら尚更だ。
「作ってくれたのか」
辰巳が好きだと言った、けんちん汁を作ってあげたい。
ひとえにその想いで作り上げたものだ。
「季節外れで具材も少ないですけど……」
一年を通して食べられる味噌汁とは違い、けんちん汁は秋や冬に食べられている料理だ。
しかも、暑いと感じられるようになった初夏の季節に、食べるようなものではない。
それでも、
『真心があれば、冬だろうが夏だろうがいいに決まってるわ』
と、おまちは言ってくれた。
次の冬に、辰巳と会うことはない。
だから今日この日だけの、許された時間に。
辰巳は箸を手に取り、まずは豆腐を摘む。
尾花屋の女中に教わった通りの味にはなったはずだ。
さて、お味は……
「ああ、美味い」
どうかこの日だけは、素直に喜ぶことを許してほしい。
辰巳の満足そうな顔を見て、別れが辛いとも思ってしまうから。
まるで急流のように、時は過ぎてゆく。
雪は最後の手当をしていた。
目を閉じて明日になってしまえば、辰巳はいなくなる。
それを噛み締めながら、しかし何も言えなかった。
最後に何を聞こうか。
最後だから何を聞いても意味はない。
おやすみなさい。さようなら。
たったそれだけの言葉でいい。
薬を塗って、包帯も巻き終えてしまった。
側にいる理由がなくなり腰を上げようとすれば、辰巳が口を開いた。
「きつい。巻き直せ」
「……はい」
他人の感覚など知りようがないが、それほどきつく巻いたつもりはなかった。
だが、辰巳がきついと言うなら巻き直すしかない。
「今度は緩い」
「またきつい」
しかし辰巳は何度も巻き直せと言う。
やっと、辰巳がわざと包帯を巻き直させていることがわかった。
「揶揄ってるんですか?」
困った様子の雪を見て、辰巳は微かに笑った。
「こうでもしねぇと、お前は何も言わないだろ」
話してほしいと、ただ素直に言えないだけである。
「……何を話していいか、わからない」
「興味ない奴に、よくここまで介抱してくれたな」
「興味がないわけじゃないです」
「なら、あるのか?」
そう問う辰巳のまっすぐな視線を、雪は受け入れた。
雪の瞳は、切なげに揺れている。その視界には、触れようと伸ばしてくる辰巳の手が映った。
「私が貴方を助けたのは善意じゃない」
ぴたりと、辰巳の手が止まる。
触れかけた手と手は、届きそうで届かない。
「こんな私でも頼ってくれたことがうれしかったから」
母が家を出て、父と二人になった。
父は家には寄り付かず、ほとんどを飲み歩いていた。
だけど父に金を渡せば、偶にでも父は帰ってきてくれる。
側にいてほしかった。
ただの自己満足で、父のときと同じだった。
「でも、今日は本心から、貴方のために何かをしてあげたいって思った」
だけど貴方は、明日には……
胸が締めつけられるほどに辛い気持ちまでもを、打ち明けようとはしなかった。
だが、考える間もなく雪は一瞬のうちに後ろに押し倒される。背中が痛いと思うよりも前に、息苦しさが襲った。
「……っ!」
しっかりと手首は畳に縫い付けられて、抵抗できない。
塞がれた唇からは、身体が疼いてしまうほどに辰巳の感触が伝わってくる。
抱きしめてもらったことさえ初めてなのに、口の中に侵入して蠢いているものに、どうしてうまく順応できようか。
「今日は俺と寝ろ」
「……私なんか、つまらないです」
辰巳は行為を止めようとはしなかった。
誰の味も知らない身体は、未熟な果実のまま。
悦ばせる自信などない。
首筋に痛みが走る。
痛みが嬉しいなんて、おかしくなってしまったようだ。
あとはもう、言葉はいらない。
互いに、触れてほしいという心に任せるだけで。