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まつとし聞かば  作者: 夏野
第一幕 少女、雪中花の如く
20/202

十九

(遅い……)


 ひたすら雪の帰りを待つ辰巳は、もしや彼女に何かあったのではないかと、心配すら芽生えるようになってしまった。


 明日で切れてしまう縁とはいえ、雪に何かがあれば寝覚めが悪い。

 こうなれば探しに行くしかないと、戸口に手をかけようとした刹那(せつな)、戸口が開かれて、目の前には待っていた人が現れた。


「お」

「……!」


 雪は驚くときも静かだと、どこか暢気(のんき)になれたのは、雪が帰ってきた安堵(あんど)感からだった。


「ごめんなさい。まさかいるなんて思わなかったから」


「いや……」


 辰巳が部屋の中に戻れば、外に行くのではなかったのかと雪は疑問符を浮かべた。


 (じき)に日が暮れる。

 雪と辰巳が過ごす時間は、あと残り(わず)かだ。



──あの人と初めて会った日、おとっつあんが帰ってきてくれたと思った。


 父が帰ってくるはずがない。

 来ない人を待ち続けているなんて、(おろ)かなことだ。


 そろそろ踏ん切りをつけて、近いうちに長屋を出ていくつもりだった。


 寂しい気持ちのままだった心を最後に満たしてくれたのは、きっと……



「お粗末ですけど、どうぞ」


 雪はそう言って、辰巳の前に椀を置いた。

 椀からは、香りとともに湯気が立ち上っている。

 食欲を刺激するには充分で、好物なら尚更(なおさら)だ。


「作ってくれたのか」


 辰巳が好きだと言った、けんちん汁を作ってあげたい。

 ひとえにその想いで作り上げたものだ。


「季節外れで具材も少ないですけど……」


 一年を通して食べられる味噌汁とは違い、けんちん汁は秋や冬に食べられている料理だ。

 しかも、暑いと感じられるようになった初夏の季節に、食べるようなものではない。


 それでも、

『真心があれば、冬だろうが夏だろうがいいに決まってるわ』

 と、おまちは言ってくれた。


 次の冬に、辰巳と会うことはない。

 だから今日この日だけの、許された時間に。


 辰巳は箸を手に取り、まずは豆腐を(つま)む。


 尾花(おばな)屋の女中に教わった通りの味にはなったはずだ。

 さて、お味は……


「ああ、美味い」


 どうかこの日だけは、素直に喜ぶことを許してほしい。

 辰巳の満足そうな顔を見て、別れが辛いとも思ってしまうから。



 まるで急流のように、時は過ぎてゆく。


 雪は最後の手当をしていた。

 目を閉じて明日になってしまえば、辰巳はいなくなる。


 それを噛み締めながら、しかし何も言えなかった。


 最後に何を聞こうか。

 最後だから何を聞いても意味はない。


 おやすみなさい。さようなら。


 たったそれだけの言葉でいい。


 薬を塗って、包帯も巻き終えてしまった。

 そばにいる理由がなくなり腰を上げようとすれば、辰巳が口を開いた。


「きつい。巻き直せ」


「……はい」


 他人の感覚など知りようがないが、それほどきつく巻いたつもりはなかった。

 だが、辰巳がきついと言うなら巻き直すしかない。


「今度は緩い」

「またきつい」


 しかし辰巳は何度も巻き直せと言う。

 やっと、辰巳がわざと包帯を巻き直させていることがわかった。


揶揄(からか)ってるんですか?」


 困った様子の雪を見て、辰巳は微かに笑った。


「こうでもしねぇと、お前は何も言わないだろ」


 話してほしいと、ただ素直に言えないだけである。


「……何を話していいか、わからない」


「興味ない奴に、よくここまで介抱してくれたな」


「興味がないわけじゃないです」


「なら、あるのか?」


 そう問う辰巳のまっすぐな視線を、雪は受け入れた。

 雪の瞳は、切なげに揺れている。その視界には、触れようと伸ばしてくる辰巳の手が映った。


「私が貴方を助けたのは善意じゃない」


 ぴたりと、辰巳の手が止まる。

 触れかけた手と手は、届きそうで届かない。


「こんな私でも頼ってくれたことがうれしかったから」


 母が家を出て、父と二人になった。

 父は家には寄り付かず、ほとんどを飲み歩いていた。

 だけど父に金を渡せば、(たま)にでも父は帰ってきてくれる。


 側にいてほしかった。

 ただの自己満足で、父のときと同じだった。


「でも、今日は本心から、貴方のために何かをしてあげたいって思った」


 だけど貴方は、明日には……

 胸が締めつけられるほどに辛い気持ちまでもを、打ち明けようとはしなかった。

 だが、考える間もなく雪は一瞬のうちに後ろに押し倒される。背中が痛いと思うよりも前に、息苦しさが襲った。


「……っ!」


 しっかりと手首は畳に縫い付けられて、抵抗できない。

 塞がれた唇からは、身体が(うず)いてしまうほどに辰巳の感触が伝わってくる。

 抱きしめてもらったことさえ初めてなのに、口の中に侵入して(うごめ)いているものに、どうしてうまく順応できようか。


「今日は俺と寝ろ」


「……私なんか、つまらないです」


 辰巳は行為を止めようとはしなかった。


 誰の味も知らない身体は、未熟な果実のまま。

 (よろこ)ばせる自信などない。


 首筋に痛みが走る。

 痛みが嬉しいなんて、おかしくなってしまったようだ。


 あとはもう、言葉はいらない。

 互いに、触れてほしいという心に任せるだけで。

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