二十
夏の暑さが本格的になり始めたこの頃、弥勒屋では二人の男が肩を並べて昼餉を食べていた。
「春過ぎて、夏来にけらし……」
「お前、最近そればっかり言ってないか?とっくに春は過ぎてるのによ」
春すぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天の香具山
とは、百人一首にも選ばれた古代の女帝・持統天皇の短歌である。
夏の到来を詠んだ歌で、辰巳の言う通り、夏の盛りに詠むような歌ではない。
「少女の夏を見届けたいだけさ」
彼は尾花屋で用心棒をしていたときに出会った少女を想い、呟いたのである。
そんなことを知る由もない辰巳は、意味がわからなかった。
「……和泉式部にも困ったもんだ」
和泉式部とは揶揄した呼び名だが、彼の本当の名も和泉である。
辰巳の親友であり、同郷でもあった。
「でもまあ、大した怪我じゃなくてよかった。あ、看病してくれた子のお蔭だっけ」
とある少女に匿われていた辰巳は、無事の知らせを和泉に伝えるため、その少女に文を託して弥勒屋に届けさせていた。
文を受け取った和泉は、弥勒屋の女将から、辰巳の好い人が文を届けたのだと聞いていたのである。
「どんな子なの?俺にも会わせてよ」
「誰が会わせるか」
辰巳からは直接、好い人がいるという確信の言葉はなかったものの、問い詰めても否定しないので、そういうことなのだと和泉は思っている。
「あの子、可愛かったわねぇ」
辰巳と和泉の間に割って入ったのは、弥勒屋の女将である。
「へぇ、そりゃあ益々《ますます》見てみたい」
親友は決して首を縦には振らなかった。
尾花屋では、内職で作った品を雪が納めに来ていた。
「いつも助かるよ」
「いえ、おまちさんにはよくしてもらっていて、私の方こそ助かっています」
「私は大したことはしてないよ。それより、あの人とはどうなんだい?」
雪には想う人がいて、その人のために好物のけんちん汁を作ってあげようと、作り方の知らなかった雪が、おまちに作り方を聞きに来たことがあった。
もう会えなくなると思っていた人だったのだが、けんちん汁が功を奏したのか、雪とその人の関係は続いている。
「偶に、会っているんです」
初めて辰巳と体を重ねた日の翌早朝、辰巳は雪の家を出て行く際に『また来る』という言葉を残した。
夢のような言葉にときめいた感覚は、今でも忘れられずにいる。
そして辰巳は言葉通り、それからも何度か訪ねに来てくれたのだ。
「そうかい。お前の顔を見れば、充分に伝わってくるよ」
雪は赤面して俯いた。
戀は、少女を変化させる。
弥勒屋で食事を終えた和泉は辰巳と別れ、一人ふらふらと神田の町を歩いていた。
(仕事見つけないとな……)
尾花屋で用心棒を務めていた彼だったが、そもそも雇われたのは突如として現れた凶悪な盗人のお蔭で、その盗人がお縄についた今はお役御免となり、現在は仕事にありつけていなかった。
口入屋でも行こうと考えていた最中、和泉は視界に知人の姿を捉えた。彼はつかさず、その人の元へと足を進める。
「お雪ちゃん!」
雪も和泉の姿に気づいて、ぺこりと頭を下げた。
「奇遇だね。今帰るとこ?」
「はい。今日は湯島天神に寄ろうと思っています」
尾花屋からの帰り道、雪は気まぐれに湯島天神へお詣りに行こうとしていた。
辰巳の怪我が早く治るようにという願いを聞き届けてくれた、お礼も兼ねて。
「こりゃまた奇遇。俺も行こうと思ってたとこなんだ。折角だし、一緒に行こう」
先ほどまで口入屋に行こうとしていた男が何を言っているのか、まったくの出鱈目である。
和泉は尾花屋で用心棒を務めていたときに何度か雪と会っていて、見かければ会話をする仲になっていた。
雪が花嫁修業をしていると聞いたときには他人のものだと思い込んでいた和泉だったが、本人に聞いてみれば、そうではないと言われ、親交を深めようとすることに躊躇いがなくなっていたのである。
(最近、可愛くなったよな。もとから可愛いけど)
湯島天神で祀られているのは菅公であり、それは今まさに本殿で祈りを捧げる男の知るところでもあった。
菅公は学問の神様として有名であるが、彼が祈るのは別の理由である。
(お雪ちゃんと、上手くいきますように……)
伊吹は想い人である雪との逢い引きが叶ったのだが、当日は気まずいまま別れてしまっていて、その後ろくな会話ができずにいた。
今日こそはきちんと話そうと験を担ぎに湯島天神まで来たわけであるが、祈りを終えた伊吹は、遠方に想い人の姿を見つけた。
さっそく菅公が願いを届けてくれたと気持ちが昂ったのは一瞬で、伊吹はその場から動けなくなってしまった。
伊吹の想い人が、見知らぬ男と歩いていたからである。
湯島天神でお詣りを済ませた雪と和泉は、それぞれの家路に就こうとしていた。
「じゃあ、またね」
「和泉さん、お元気で」
雪と別れた和泉は、少し歩いたところで振り返る。
まだ雪の姿は見える。
次に会えるのはいつだろうか。
約束はしていないが、会えるという確信があった。
(あれって……)
雪の元に向かってくる男がいた。そして二人は親しげに、話をしている。その男を、和泉はよく知っていた。
(なんだ、そうだったのか)
和泉はどこか清々しい気持ちで納得したのだった。
「辰巳さん」
思わぬ出会いに、雪は逸る気持ちを抑えようと努める。
どちらかといえば、辰巳の方が焦っている様子だった。
「家に行ったらいなかったから、探してたんだ」
家で待っているのではなく、わざわざここまで探しに来てくれた辰巳に、雪は微笑んだ。
「一緒に帰りましょう」




