9.犬の顔で、腹には蛇を飼っている。
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はい、思い出しましたねー。致命的なことにそれを受けて拒否することなく、黙認しちゃっていますね。ここもうちょっとうまくかわせると、きっとこんなことにはなっていないはずです。
騎士の誓いは酷く重たく、彼らを騎士たらしめる儀式に数えられるほど神聖なものだ。
一度誓いを言葉にした以上、許した側からも決して覆せるものではない。とはいえ、正式な場でもなく、証人のいない誓いなど簡単に破れるものだし。戯曲にも騎士に裏切られた淑女の悲劇が歌われることもある。まあ、爽快さすら感じる淑女による復讐劇もあるけど。
当然、そんなこと当時の私が知る由もない。…知ったのは、正式に騎士になったローエンから、再三言い含められたからだしね。ささやかな言質でもとられたら、きっと後悔するからなと。
では、大問題です。
果たして幼少期に両親から貴族の家に買われて不遇を味わい、策略と籠絡を心得たローエングリン少年が、例え子どもの戯れでも軽率に誓う真似をする男だろうか。子どもらしくはあったが、酷く大人びた考え方をする彼が。
そこに思い至ってしまった瞬間、ぶわりと背筋に寒気が走って、急激に手足が冷え切っていくのを感じた。その原因は間違いなく恐怖である。
既に潰えたと確信していた脅威が、今まさに鎌首をもたげているのに気づいたせいだ。
『何を目的にした王の殺害』だったのか、全く明らかになっていないからだ。
単に私を助けるためであれば、王を拘束して国民による裁判にて是非を問えば済んだだろう。
騎士団長が王を弑しても、誰も咎めて拘束をしない騎士団と、城まで聞こえた勝鬨の声。
変わりなく私に傅くのを止めないローエングリン。
………あれは、何の為に行われた戦いだったんだろう。
「ちゃんと思い出しただろ?」
「ほんっとうにひとが悪いですね、兄貴……いつから仕組んでたんです」
「お前にそう呼ばれるのも久しぶりだな。…だが後にしろよ、まだ終わってないからな」
返り血を拭ってやれば聞こえた囁くような声は、私にしか聞こえなかったろう。
渇いたようにぶっきらぼうで、一番親しんだ口調だった。今は街か、2人きりでしか聞けない。完璧な騎士のほほえみではなく、仕方ない奴だと呆れたような、私の兄貴分の笑顔である。
怯んだ私を見て、隙を探すように、黄色い目がとろりと歪んでいなければ。
どうしてだ。
彼とはあれから10年ほどのつき合いだ。その間、困ったときに助け合ったり、雑に扱われたり、適度に気遣われたり。病んだ惚れたの関係ない、普通の友人になれたと思っていたんだよ。それを疑ったことなど今日までなかったのに。
だって会った初日にチンピラムーブかまして、エアマンドリンで歯ギターかましてたガキにそんなこと言われたって、信じられるはずがないだろう?でもオッケー!分かってるから!これもまたフラグだ!ここでムキになってローエンの考えを否定したりすると、後日に比較的やばい目に合うのは履修済みだ!
だって私の兄貴分、何事にも意思が明確だし、結構策略家なので敵に対するやり口が酷い。いくら頭に来てもみなごろしとかじゃなく、的確に彼の目的に応じた対処を取れるのが逆に恐ろしいのだ。まあ、ひとを使うのが得意だから、この年で騎士団長なんて立場になっているんだけど。
「さて、準備が要りますね。皆、貴方を助けるべくよく働きました。お声掛けを。……それが何よりの報酬になる」
長いつき合いだ。それがちょっと面貸せよ、をたいへん丁寧に言い換えたものだとはわかるので、そんなのより金とか酒宴の報酬がよくない?とは冗談でも決して言わないことにしている。
多分部下にしろ、城の人間にしろ、かなり装飾した事実で煽動しているのは、蚊帳の外の私にもわかる。王のついでに処刑でもされてはたまらない。それともここで積極的に士気さげる程、空気が読めなかったら、こんなことにはならなかったのかな。
「……そうね。案内をお願い」
片付けをしておくのでお召し替えをと他の騎士に見送られ、ローエンにどこかへエスコートされながら、廊下を歩く。
今後は日常会話でも、真剣に言葉を選ぶ必要が出てきたのが辛い。
もう気楽に話しかけられるのが、やたら育つ薄荷の鉢だけになるのもやばい。
おまけに今日また私のわらベッドに無事戻れるかも微妙である。
主人公シャロンの立場になって10年経っても、決して家に帰る希望は失っていない。
今日は帰還の為にあらゆる手を尽くす。そのスタートを切れるかの正念場だ。厄介な王族をそのままに放逐することは絶対ないだろう。処刑と監禁は確実に避けたい。
一応準備はしてある。これで仕込みは上々、と言えたら格好いいけどね。運があれば助かる程度の他力本願だから、ごみを投げても、確実にごみ箱に入るか分からないのと、同じくらい自信がない。途中で誰かはたき落とす可能性もある訳だしね。
だからさ、私を先導して歩くこの男の胆力って、本当どうなっているんだろうと思うよ。こんな壮大な真似した理由、さっぱりわかんないもん。何で間に合えたのか。ささやかな言質をごり押してここにいるのかも。
「それにしても、ローエン。貴方ね、あの頃の私に誓って大丈夫だったの?ここに至るまでに、私が本当に城から追い出されたら、全部無駄になっていたのに…」
いや本当にこれに尽きる。
ある程度、誰かに仕えたい、この職場で働きたいと思うのって、やりがい、能力、人望、給料、有給…まあ色々あるけど。早々考える話じゃないだろう。
正直私にとって仕事は自分を養うためにするもので、決して進んでやりたい訳じゃない。生涯かけて豪遊できる程度の額が、人からもらった宝くじで当たらないかな、と思うくらいには怠惰な方だ。
リハビリテーションの道を選んだのも、どうせ働くなら多少興味ある分野で、安定して食い扶持を稼げて、たまに人の役に立つこともあるなら、仕事としては十分だと思ったからだ。
だからローエンの行動が本気で理解しがたい。正直、あの当時は私が16歳の成人まで生き残るかすら、いかさま博打よりひどい勝率だったと思うんだけどね。
「………おかしなことを仰る。元より王宮の薔薇ならば、私ごときが摘み取れば死罪をまぬがれません」
「ふっ…ばら…!」
速やかにいらんことだけ拾うんだから、迂闊なことを言わないでほしい。不意打ちは本当にやめて。幼少期を思い出した私の片腹には優しくない。
案外、百合か薔薇かとか単純な例えの多い騎士殿なのである。だから私より女の子にもてないんだぞ。
まあ酒場のゲームですら、恋愛系の御題を気軽にさばけない彼らしい。詩歌の練習を、私も何度か手伝ったけど、あまり向上はみられなかったのは内緒の秘密だ。
一応ドレスに扇子の装備だったので、優雅に隠したつもりだったのだけど。ちょっといつも通りに、と努めすぎたかもしれない。
随分と楽しそうだなお前はと、大変機嫌の悪くなったローエングリン氏に背中に手を添えて引き寄せられる。慣れないヒールの靴だから、案外簡単にバランスを崩してしまった。
傍から見れば、きっと具合を悪くした姫を気遣っているように見えるのだろう。
冗談だとかわす前に、顎に指先がかかる。
「当然それも考えた。……だが野に咲く花なら俺にも摘める。例えお前が拒んでも、隔てるものはないんだからな」
そこに明らかに、先程までは全く含まれていなかった欲がある。
泥濘が溜まったような黄色い目が、這うように私を見ていた。
喉が詰まったように声が出ないのを、愉快そうに笑って喉元を指先が撫でていく。
「お望みがあれば叶えて差し上げましょう。私が騎士として貴方に生涯お仕えするか。……男としてお前を妻に攫うかだ」