閉ざされた水門
異変に気づいたのは、朝の測定が始まって間もなくだった。
下流の水路に立つセレネの耳へ、いつもなら絶えず届く水音が届かない。細い流れが途切れ、石の間に残った水だけが、薄い光を揺らしている。
「上流の数値は?」
立会人の少年が帳面を開いた。
「夜明け前までは、昨日とほぼ同じです。けれど、下流へ届いた量が急に減っています」
セレネは水門の方向を見た。山際に設けられた大水門は、町全体の流れを分ける要だった。雪解けを迎える前の今、そこが閉じれば、上流には水が溜まり、下流では井戸と畑が干上がる。
「誰かが閉めたのですか」
水路番の男が不安そうに尋ねた。
「まず記録を確認します」
セレネは答えた。疑いを口にするのは簡単だ。だが、公開記録を作ると決めた以上、怒りより先に確かめなければならない。
水門番所へ急ぐと、扉は開いていた。中には二人の番人がいたが、どちらも青ざめた顔で水門の操作盤を見つめている。
「昨夜の操作時刻は?」
「記録では、第一鐘の後に閉鎖。今朝、第二鐘の前に開く予定でした」
番人が差し出した帳面には、黒々とした文字で時刻が記されていた。だが、セレネは頁に触れる前から違和感を覚えた。
紙の繊維の奥に、消された文字の残りがある。
指先を置くと、薄い灰色の痕跡が浮かび上がった。第一鐘の後ではない。もっと早い。昨夜の見回りが終わる前に、誰かが水門を閉じている。
「この記録は書き直されています」
番人の一人が息を呑んだ。
「そんなはずはない。俺は今朝、ここに来た時から……」
「あなたが書いた文字ではありません」
セレネは頁の端を示した。新しいインクの下に、別の筆圧が残っている。消された記録は、開閉時刻だけではなかった。立会人の欄も空白にされ、その上から別の署名が重ねられている。
「誰がこれを?」
問いかけに、二人は顔を見合わせた。
その時、外から怒号が響いた。水を求めて集まった住民たちが、門前に押し寄せている。畑へ水を引けない農民と、貯水槽の減少を恐れる町人が、互いを責め始めていた。
セレネは帳面を閉じた。
「ノアはどこですか」
「下流の見回りへ向かったはずです」
「では、こちらは私が引き受けます」
番所を出ると、広場へ続く道に人が集まっていた。商会の荷車も何台か止まっている。その一台の荷台には、封をされた水樽が積まれていた。
「水門を閉じたのは下流の農民だろう!」
「商会が水を囲っているからだ!」
叫び声が重なり、誰も他人の言葉を聞いていない。
セレネは黒板の前へ進み、昨日までの測定記録をすべて外した。代わりに新しい紙を貼る。
「聞いてください!」
声が騒ぎを貫いた。
「本日、上流の水量は基準内でした。しかし水門から下流へ届いた量は、記録と一致していません。現在、水門の操作記録に改ざんの痕跡があります」
「また記録の話か!」
誰かが叫んだ。
「記録で水が戻るのか!」
「戻りません」
セレネは即座に答えた。
「だから、今ある水を誰が、どこへ、どれだけ動かしたのかを明らかにします。責任を決めるのは、その後です」
彼女は紙の中央に大きく書いた。
本日、第一鐘前に水門閉鎖。開放未確認。下流到達量、基準以下。
その下に、時刻を書き込む欄と、目撃者の名前を書く欄を設けた。
「知っている方は、順に話してください。見ていないことを推測で書かないでください。分からないことは、分からないと記します」
最初は誰も動かなかった。やがて、夜明け前に水門近くを通った炭焼き職人が手を挙げた。
「荷車を見た。商会の印があった」
続いて、門の音を聞いたという羊飼いが現れた。水門を閉じる金属音は、第一鐘より前だったという。
証言は少しずつ集まり、紙の上に並んでいった。
そこへ、上流から一人の若者が駆けてきた。
「セレネ!」
息を切らしたノアだった。外套には泥が跳ね、頬には浅い擦り傷がある。
「上流の分岐門も確認した。主水門だけではない。東側の小門が一つ、鎖で固定されていた」
「誰かいましたか」
「姿はない。ただ、足跡と荷車の轍が残っていた。商会の倉庫へ続いている」
群衆の間にざわめきが走る。
ノアはセレネを見たが、判断を求めるような目はしなかった。彼は現場で得た事実だけを差し出している。
「水門を開けられますか」
「操作室を守っている番人がいる。だが、鎖を切る道具が必要だ」
「私が取りに行きます」
「危険だ」
「一人では行きません。水路番を二人、立会人として連れていきます」
ノアは一瞬だけ口を閉じ、それから頷いた。
「分かった。俺はここで人を分ける。上流へ行く者、下流へ行く者、名前を記録しておく」
「お願いします」
二人は別々の方向へ歩き出した。
以前なら、ノアのそばを離れることに不安を覚えただろう。だが今、セレネには黒板と、書き始めた記録と、彼女を待つ人々がいる。ノアにも彼の現場がある。互いを支えることは、互いの行動を奪うことではなかった。
水門へ向かう道の途中、セレネは閉ざされた小門を見つけた。鎖には新しい油が塗られている。誰かが急いで準備したのではない。計画していたのだ。
彼女はその場の時刻を記し、鎖の状態を図にした。
町の水は止められていた。
けれど、記録までは閉ざせない。
セレネは立会人に言った。
「この鎖を切る前に、よく見てください。今日起きたことを、誰か一人の記憶にしないために」
やがて道具が届き、鎖が外れた。重い門扉が軋み、水が暗い水路へ流れ込む。遠くで、町の人々が歓声を上げた。
セレネは濡れた紙を胸に押さえた。混乱はまだ終わっていない。誰が閉じたのかも、なぜ閉じたのかも、これから明らかにしなければならない。
それでも、彼女は知っていた。
水が流れ始めた瞬間を、ここにいる人々が同じ記録として残した。
その事実は、もう誰にも消せない。




