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婚約を解かれた記録官は、消された春を読み直す  作者: 銀細工ナギ


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15/20

閉ざされた水門


 異変に気づいたのは、朝の測定が始まって間もなくだった。


 下流の水路に立つセレネの耳へ、いつもなら絶えず届く水音が届かない。細い流れが途切れ、石の間に残った水だけが、薄い光を揺らしている。


「上流の数値は?」


 立会人の少年が帳面を開いた。


「夜明け前までは、昨日とほぼ同じです。けれど、下流へ届いた量が急に減っています」


 セレネは水門の方向を見た。山際に設けられた大水門は、町全体の流れを分ける要だった。雪解けを迎える前の今、そこが閉じれば、上流には水が溜まり、下流では井戸と畑が干上がる。


「誰かが閉めたのですか」


 水路番の男が不安そうに尋ねた。


「まず記録を確認します」


 セレネは答えた。疑いを口にするのは簡単だ。だが、公開記録を作ると決めた以上、怒りより先に確かめなければならない。


 水門番所へ急ぐと、扉は開いていた。中には二人の番人がいたが、どちらも青ざめた顔で水門の操作盤を見つめている。


「昨夜の操作時刻は?」


「記録では、第一鐘の後に閉鎖。今朝、第二鐘の前に開く予定でした」


 番人が差し出した帳面には、黒々とした文字で時刻が記されていた。だが、セレネは頁に触れる前から違和感を覚えた。


 紙の繊維の奥に、消された文字の残りがある。


 指先を置くと、薄い灰色の痕跡が浮かび上がった。第一鐘の後ではない。もっと早い。昨夜の見回りが終わる前に、誰かが水門を閉じている。


「この記録は書き直されています」


 番人の一人が息を呑んだ。


「そんなはずはない。俺は今朝、ここに来た時から……」


「あなたが書いた文字ではありません」


 セレネは頁の端を示した。新しいインクの下に、別の筆圧が残っている。消された記録は、開閉時刻だけではなかった。立会人の欄も空白にされ、その上から別の署名が重ねられている。


「誰がこれを?」


 問いかけに、二人は顔を見合わせた。


 その時、外から怒号が響いた。水を求めて集まった住民たちが、門前に押し寄せている。畑へ水を引けない農民と、貯水槽の減少を恐れる町人が、互いを責め始めていた。


 セレネは帳面を閉じた。


「ノアはどこですか」


「下流の見回りへ向かったはずです」


「では、こちらは私が引き受けます」


 番所を出ると、広場へ続く道に人が集まっていた。商会の荷車も何台か止まっている。その一台の荷台には、封をされた水樽が積まれていた。


「水門を閉じたのは下流の農民だろう!」


「商会が水を囲っているからだ!」


 叫び声が重なり、誰も他人の言葉を聞いていない。


 セレネは黒板の前へ進み、昨日までの測定記録をすべて外した。代わりに新しい紙を貼る。


「聞いてください!」


 声が騒ぎを貫いた。


「本日、上流の水量は基準内でした。しかし水門から下流へ届いた量は、記録と一致していません。現在、水門の操作記録に改ざんの痕跡があります」


「また記録の話か!」


 誰かが叫んだ。


「記録で水が戻るのか!」


「戻りません」


 セレネは即座に答えた。


「だから、今ある水を誰が、どこへ、どれだけ動かしたのかを明らかにします。責任を決めるのは、その後です」


 彼女は紙の中央に大きく書いた。


 本日、第一鐘前に水門閉鎖。開放未確認。下流到達量、基準以下。


 その下に、時刻を書き込む欄と、目撃者の名前を書く欄を設けた。


「知っている方は、順に話してください。見ていないことを推測で書かないでください。分からないことは、分からないと記します」


 最初は誰も動かなかった。やがて、夜明け前に水門近くを通った炭焼き職人が手を挙げた。


「荷車を見た。商会の印があった」


 続いて、門の音を聞いたという羊飼いが現れた。水門を閉じる金属音は、第一鐘より前だったという。


 証言は少しずつ集まり、紙の上に並んでいった。


 そこへ、上流から一人の若者が駆けてきた。


「セレネ!」


 息を切らしたノアだった。外套には泥が跳ね、頬には浅い擦り傷がある。


「上流の分岐門も確認した。主水門だけではない。東側の小門が一つ、鎖で固定されていた」


「誰かいましたか」


「姿はない。ただ、足跡と荷車の轍が残っていた。商会の倉庫へ続いている」


 群衆の間にざわめきが走る。


 ノアはセレネを見たが、判断を求めるような目はしなかった。彼は現場で得た事実だけを差し出している。


「水門を開けられますか」


「操作室を守っている番人がいる。だが、鎖を切る道具が必要だ」


「私が取りに行きます」


「危険だ」


「一人では行きません。水路番を二人、立会人として連れていきます」


 ノアは一瞬だけ口を閉じ、それから頷いた。


「分かった。俺はここで人を分ける。上流へ行く者、下流へ行く者、名前を記録しておく」


「お願いします」


 二人は別々の方向へ歩き出した。


 以前なら、ノアのそばを離れることに不安を覚えただろう。だが今、セレネには黒板と、書き始めた記録と、彼女を待つ人々がいる。ノアにも彼の現場がある。互いを支えることは、互いの行動を奪うことではなかった。


 水門へ向かう道の途中、セレネは閉ざされた小門を見つけた。鎖には新しい油が塗られている。誰かが急いで準備したのではない。計画していたのだ。


 彼女はその場の時刻を記し、鎖の状態を図にした。


 町の水は止められていた。


 けれど、記録までは閉ざせない。


 セレネは立会人に言った。


「この鎖を切る前に、よく見てください。今日起きたことを、誰か一人の記憶にしないために」


 やがて道具が届き、鎖が外れた。重い門扉が軋み、水が暗い水路へ流れ込む。遠くで、町の人々が歓声を上げた。


 セレネは濡れた紙を胸に押さえた。混乱はまだ終わっていない。誰が閉じたのかも、なぜ閉じたのかも、これから明らかにしなければならない。


 それでも、彼女は知っていた。


 水が流れ始めた瞬間を、ここにいる人々が同じ記録として残した。


 その事実は、もう誰にも消せない。

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