撤回される婚約、戻らない時間
翌朝、セレネが記録院の裏庭へ向かうと、黒板の前に見慣れた馬車が停まっていた。
銀の縁取りが施された扉が開き、エドガーが降りてくる。以前なら、その姿を見ただけで胸の奥が冷えた。婚約を告げられた日の祭壇と、皆の前で一方的に解消を言い渡された瞬間が、雪煙の向こうから戻ってくる。
けれど今、セレネの手にあるのは、彼から贈られた指輪ではなく、測定記録を綴じた帳面だった。
「セレネ」
エドガーは帽子を脱いだ。頬はこけ、以前のような自信は薄れている。
「話をしたい」
「記録の閲覧なら、窓口で申請してください。昨日から規則を変えました」
「君と二人で話したいんだ」
「それは、記録に残す必要のない話ですか」
エドガーは言葉を失った。
ノアが水路の向こうから歩いてきた。彼は二人の間に立つことも、セレネの隣を奪うこともしなかった。ただ少し離れた場所で足を止め、彼女が選ぶのを待った。
「裏庭の東側なら、誰でも通ります」
セレネは言った。
「そこで話しましょう」
エドガーは頷いた。
黒板には、昨日の測定値と立会人の署名が並んでいる。風に揺れる紙の端を押さえながら、セレネは彼を見た。
「何の話ですか」
「婚約解消を撤回したい」
雪の残る庭で、その言葉だけが妙にはっきり響いた。
エドガーは続けた。
「あれは父の指示だった。君の技能を危険だと言い、記録院との関係も、商会にとって都合が悪いと……私は逆らえなかった」
「だから、皆の前で私だけに責任があるように告げたのですね」
「違う。あの時は、そうするしかないと思った」
「今は違うのですか」
「今なら分かる。私は間違っていた。君が何をしているかを見れば、誰が正しかったかは明らかだ。町の人々も君を信頼し始めている。父も、商会も、君を敵に回すべきではなかった」
セレネは黒板へ目を向けた。
昨日まで、ここに書かれた数字を見ようとする人は少なかった。今は、朝早くから水路番と農民が集まり、測定棒を手にしている。記録は誰かの許可を待つものではなくなりつつあった。
「あなたは、私が正しいから戻りたいのですか」
エドガーが眉を寄せる。
「そういう意味ではない」
「では、何を理由に?」
「君を失いたくない」
その言葉に、胸の奥がわずかに痛んだ。かつてなら、それだけで十分だったかもしれない。彼が自分を選ぶなら、何もかも元に戻せると思ったかもしれない。
けれど、戻らない時間がある。
祭壇の前で辱められた時間。誰にも信じてもらえず、母の残した記録箱を抱えて一人で夜を越した時間。ノアとともに崩れかけた水路へ入り、恐怖を抱えたまま決断した時間。そして、町の人々と数字を確かめ、疑いを記録に変えてきた時間。
それらは、婚約を結び直したからといって消えない。
「あなたの後悔は、認めます」
セレネは静かに言った。
「謝罪も受け取ります。あの時、あなたが何を恐れていたのかも、少しは理解できます」
エドガーの顔に、かすかな期待が浮かんだ。
「ならば――」
「でも、婚約は戻しません」
期待が消えるまでに、長い時間はかからなかった。
「なぜだ。私は変わる」
「変わるかどうかは、あなたが決めることです。私があなたの変化を待つ義務はありません」
「君は私を愛していたはずだ」
「ええ。だからこそ、あの時の自分を否定したくありません」
セレネは帳面を抱え直した。
「私は、あなたを愛していた自分も、あなたを信じた自分も、間違いだったとは思っていません。ただ、その気持ちを理由に、今の人生を昔へ戻すつもりはないのです」
エドガーは唇を噛んだ。
「ノアのためか」
「違います」
セレネはすぐに答えた。
「私自身のためです」
ノアが遠くで目を伏せた。彼は何も言わない。その沈黙が、セレネにはありがたかった。彼の存在を理由にしなければ、決められないと思われたくなかった。
「私はもう、誰かに選ばれることで自分の価値を証明しません」
セレネは続けた。
「婚約を結ぶか、解消されるか、撤回されるか。それを他人の判断に預けたままでは、同じ場所へ戻ってしまいます。私は戻りません」
エドガーは長く黙っていた。
やがて、彼は深く頭を下げた。
「分かった。君の決定を受け入れる」
「受け入れるだけではなく、商会で説明してください」
エドガーが顔を上げる。
「水利契約の変更について、あなたが知っていることを。父親に命じられたからではなく、自分の言葉で。これから記録を公開するなら、過去のことも隠さないでください」
「……証言しろというのか」
「証言するかどうかも、あなたが決めることです。ただ、婚約を撤回するより、その方が町にとって意味があります」
エドガーは黒板を見た。そこには、昨日の空白と不一致がそのまま残っている。誰かに都合のよい数字だけではない。誤りも、疑いも、確認中という言葉も、すべて同じ場所に並んでいた。
「君は、本当に変わった」
「変わったのではありません。見えなかったものを見るようになっただけです」
エドガーは小さく笑った。苦い笑いだった。
「それなら、私も見る努力をする」
彼は馬車へ戻っていった。去っていく車輪の跡は、雪解け水にすぐ崩された。
ノアがそばへ来た。
「よかったのか」
「何がですか」
「断って」
「断らない理由がありません」
「そうだな」
ノアはそれ以上、慰めなかった。セレネはそのことに安心した。彼は彼女を壊れたものとして扱わず、決めた人として見ている。
広場の鐘が鳴った。今日の測定が始まる時刻だった。
セレネは黒板の前に立ち、日付を書き込んだ。昨日の記録の下に、新しい欄が増えている。開閉時刻、立会人、到達時刻、備考。まだ空白だらけだが、誰かが埋めるための場所は用意されていた。
「行きましょう、ノア」
「上流からか」
「今日は下流からです。昨日の空白を確かめます」
二人は水路沿いの道へ歩き出した。
背後では、黒板に残された数字が風に揺れていた。過去は消えない。消えないからこそ、確かめ、記し、次の選択へつなげられる。
セレネはもう、戻らない時間を取り戻そうとは思わなかった。
その代わりに、これからの時間を自分の手で選ぶことにした。




