第2話 精霊スーリは手伝い方が派手
夜明け前の家は、音が少ない。
少ないはずなのに、今日はやけに耳が忙しい。
窓の外で風が鳴って、止まって、また鳴る。一定の間隔で。まるで、誰かが呼吸の練習をしているみたいに。
……いや、呼吸の練習をしているのは私か。
私は布団の中で目を開けたまま、天井の梁を数えていた。数えると落ち着く。落ち着くと余計なことを考えにくい。
なのに、数えても数えても、手のひらの感覚だけが消えない。
あの、温かさ。
血の温度じゃない。もっと深いところに触ってくる感じ。
私はそっと手を出して、自分の胸に触れた。
……何も起きない。
「……よし」
よし、じゃない。
いま何を確認して「よし」なんだ。
私は起き上がって、枕元に落ちていた紙束を拾った。紙が少し折れている。インクの跡が濃い。手が強く動いた証拠だ。
【だめなこと】
そこに、私の必死が詰まっている。
・人を治しすぎない
・見られない
・触らない
・助けるなら小さく
・「だけ」を言う
・終わりを決める(絶対)
「終わりを決めるって、どうやって……」
口に出した瞬間、机の上の羽ペンがころん、と転がった。
私の方へ。
え。
……え?
私は固まった。
風? 窓閉まってるよね? 閉まってる。ちゃんと閉まってる。
なのに、羽ペンだけが、まるで「いるよ」と言うみたいに動いた。
「……誰」
声が自分でも驚くほど小さい。怖いと声は縮む。縮んだ声は、余計に自分を追い詰める。
返事はない。
でも空気が、少しだけあったかい。
手のひらの下で感じた温かさに似ている。
——と、そのとき。
廊下から足音。迷いのない足音。
「ミオ。起きてる?」
扉の向こうの声は、きっぱりしていた。
「今日は町に出る。ついてきなさい。家にいる方が目立つ」
私は一瞬、胸がきゅっとなった。
目立つ。
その単語が痛い。
「……はい」
返事をしたら噛まなかった。よし。そこはよし。
◇◇◇
食堂で顔を合わせた姉、レティアは、鎧ではなく動きやすい上着だけを羽織っていた。腰の剣はいつも通り。剣って、服の一部なんだなと毎回思う。
「顔色、悪い」
「寝不足じゃない。たぶん」
「“たぶん”が出るうちは、悪い」
容赦がない。朝のレティアは特に切れ味がいい。
パンをかじって、スープを飲んで、私は深呼吸をする。
ここまで普通。ちゃんと普通。
その普通の流れを、玄関の外の気配がぶち壊した。
人の声。ひそひそ声。視線の数。
家の前って、こんなに賑やかになる場所だっけ。
レティアが先に扉を開けた。
すると、門の近くに数人。近所の人と、訓練場の見習いらしき顔も混ざっている。
「……おはようございます、副団長のご家族」
誰かが妙に丁寧に頭を下げた。丁寧すぎると怖い。
丁寧さは、距離を詰める前振りのことがある。
レティアは笑って、すっと半歩前に出た。
それだけで空気がすっと引き締まる。騎士って、こういう場の仕切り方がうまい。
「おはよう。用があるなら要点だけ。今日は忙しい」
やわらかい言い方なのに、逃げ道がない。
みんな、軽くひるんで視線を逸らした。
その隙に、杖の音が近づいてきた。
「お前さんたち、朝からうるさいよ」
エンナ婆だ。
薬草師。背が低い。声がでかい。存在感もでかい。
「噂は腹にためると腐るって? 腐るのはお前さんたちの品の方だよ」
ひどい。でも助かる。
婆の言葉はいつも、刺さる方向が正しい。
レティアが軽く頭を下げる。
「エンナさん。今日は——」
「今日は町に出るんだろ。知ってるよ。だから言いに来たんだ」
エンナ婆は私を見た。目が鋭い。薬草師の目は、傷と嘘に強い。
「嗅ぎつける連中が動いてる」
私は背筋が冷えた。
嗅ぎつける。動く。
どっちも嫌な単語だ。
そして、嫌な予感は当たる。
門の外に、見慣れない女性が立っていた。派手な装飾はない。けれど清潔で、布の質がいい。髪はまとめられていて、表情は穏やか。なのに目が、よく見えている目だ。
「失礼いたします。救護のことで、お話を伺いたく参りました」
声が丁寧。角がない。角がないのに、こちらの逃げ道を減らしてくるタイプの丁寧さだ。
私は胃がきゅっと縮む。
救護。
教会。
白い天井。
——喉の奥に、過去が引っかかる。
レティアが前に出る。
「うちの妹は、薬草の手当を少々。大げさな話ではない」
「大げさにしたいのではありません」
女性は落ち着いて言った。
「怪我が増えています。治療の手が足りないのです。町として事故を減らしたい。……そのための確認です」
確認。
確認って言葉、嫌いだ。確認はだいたい、囲い込みの入口だから。
「私はエステルと申します。教会の救護係です」
名乗られた瞬間、胸が一段重くなった。
教会の人間。
この世界でも、教会は“守る”顔をして人を動かす。
レティアは表情を変えずに言う。
「必要なら、私が対応する」
「いえ。現場の手当は、現場の方がよくご存じです」
エステルの視線が、ふっと私の手元に落ちた。
その瞬間、指先に小さな光の粒が散った気がした。
ほんの一瞬。瞬きの間。
でも、私は見た。見えてしまった。
……やめて。私の指先、勝手に光るな。
エンナ婆がわざとらしく咳払いをした。
「この子は不器用でね。噂ほど器用じゃないよ」
嘘だ。私は器用じゃないのは本当だけど、噂の方向が問題なのはそこじゃない。
でも、婆の嘘は私を守るための嘘だ。ありがたい。刺さる。
エステルは軽く頷いた。
「不器用でも構いません。もし救護に関わるなら——記録を残してください。あなたを守るためにも」
記録。
守る。
その二つが並ぶの、信用しにくい。
レティアが話を切り上げた。
「わかった。必要があれば連絡する。今日はこれで」
エステルは深く礼をし、去り際に穏やかに言った。
「無理はなさらないでください。善意の人ほど、倒れやすいですから」
私は笑顔を作れなかった。
善意の人ほど、倒れやすい。
それは、私がいちばん知っている。
◇◇◇
町へ向かう道は、いつもより長く感じた。
人の目が怖い。風の音も怖い。自分の手のひらがいちばん怖い。
レティアは私の歩調に合わせてくれる。合わせてくれてるのが分かると、余計に苦しい。守られるのが、怖い。
「ミオ」
姉が言った。
「しばらく、町に出るときは私がつく」
「……それ、命令?」
「段取り」
即答だった。
段取り、って言い方に逃げ道を残してくれている。ありがたい。怖い。
私は小さく頷いた。
そして、気づいた。
風が、やけに調律されすぎている。
落ち葉が、道の端に線みたいに並んでいる。
私の髪の乱れが勝手に調律されて整う。余計なことするな。
「……いるよね」
私は小声で言った。
返事はない。
「いるなら出てきて。お願い。いま」
レティアが眉を寄せる。
「誰に話してる」
「……えっと。自分に」
「自分にお願いするの、上達したね」
姉のツッコミが妙に的確で、私は逃げ場がなくなる。
町の手前、人気の少ない路地に入ったところで、私は足を止めた。
「姉さん、ここで少し待ってて」
「理由は」
「……呼吸の練習」
「真面目に言ってるのかふざけてるのか分からない」
「真面目寄り」
レティアはため息をついたけれど、少し離れて腕を組んだ。視線は外へ。周囲の警戒は怠らない。こういうところ、さすが騎士。
私は路地の壁に背をつけて、息を吸った。
「……出てきて」
今度ははっきり言う。
すると、風がくるりと渦を巻いた。
空気がねじれて、鈴の音がひとつ鳴って、光がふわっと集まる。
そこに、少女みたいな輪郭が浮かんだ。
透明感のある髪。色は、風の色。目はきらきら。
足元が地面についてない。というか、つける気がない。
「やっと呼んだ!」
第一声が、元気すぎる。
「ねえねえ、さっきの止血、すっごく綺麗だった!」
私は即座に頭を抱えた。
「見てたの!? 見ないで! 褒めないで! 広めないで!」
「え、だって助けたんだよ? いいことじゃん!」
善意がまぶしい。まぶしすぎる。目が痛い。
「いいことは増やすべき!」
「増やすな! 私の平穏は増やすと減るの!」
自分で言って意味が分からないのに、なぜか通じた。
少女はぷくっと頬を膨らませる。
「ひどい。助けるの、好きなくせに」
「好きじゃない! いや、好きじゃないわけじゃないけど! 好きって言うと余計に——」
「はいはい。じゃあ、条件を言って」
少女は急にまじめな顔をした。
切り替えが早い。怖い。
私は息を吸って、短く言った。
「手伝ってほしい。でも、派手なのは禁止。勝手にやらない。勝手に光らない。勝手に風を調律しない」
「……最後のは無理」
即答!?
「風、私の仕事だもん」
「仕事を休め!」
「休めないよ。私は風の精霊だよ?」
風の精霊。
つまり、こいつが私の周りの“余計な調律”の犯人。
「名前」
私が言うと、少女は胸を張った。
「スーリ! スーリ・スーリ!」
二回言うタイプ。勢いが二倍。
「スーリ。お願い。私、静かに——」
「静かに助けたい、でしょ?」
「……そう」
私が頷くと、スーリは嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、形を変えよう。隠せないなら、目立ちにくい形にする」
私は喉の奥が冷えた。
「隠せないの?」
「うん。ミオの中、あったかい光がある。風がそこに寄る。寄るの、止められない」
……最悪の情報が、最悪の明るさで投げられた。
「でもね、形は変えられる。ちょっとだけ、調律する」
「『ちょっとだけ調律する』が一番こわいんだよ!」
スーリは肩をすくめた。
「じゃあ、派手じゃない調律。練習しよ」
練習。
その言葉だけは、少し助かる。
練習は、まだ“制御できる未来”がある。
私は小さく頷いた。
「……やる」
◇◇◇
町は朝から賑やかだった。
露店の呼び声、荷車の軋み、焼き菓子の甘い匂い。剣と魔法の世界でも、市場の朝はどこでも同じだ。人が生きてる音がする。
でも今日は、その音が怖い。
目に入る人の数が、全部「見てる」に変換される。
レティアは慣れた様子で買い物を進める。私は荷物持ち。荷物持ちは目立たない。よし。
……よし、のはずなのに。
スーリが私の肩のあたりをふわふわ漂っている。見える人には見えるのか? 見えない人には見えないのか? そのルール、いま知りたい。
「スーリ、見えてる?」
「見える人には見えるよ。見えない人には見えない」
便利なようで怖い回答。
「じゃあ、見える人がいたら終わるじゃん」
「終わらないよ。ミオが終わりを決めればいい」
「どうやって」
スーリは指先をくるりと回した。
「最後にね、『収束』ってやるの」
「収束」
言葉が少し格好いい。格好いいのはよくない。格好いいと、やりたくなる。やりたくなると、やらかす。
「吐いて、輪っか描いて、ここまで、って決める」
「輪っか……」
私は自分の指先を見た。
輪っかで終わる。終わりが形になる。
それは、ちょっと分かりやすい。
「練習しよう。人目のないところで」
スーリが言うので、市場の裏手、川沿いの草地に移動した。レティアは遠くから見守る。というか監視。段取り。
草地に着くと、スーリが嬉しそうに手を叩いた。
「じゃあ、まずは“点”ね。面で触らない。点で触る」
「点って、指先だけ?」
「そう。二本まで。欲張らない」
欲張らない。
その単語が刺さる。私はだいたい欲張るつもりはないのに、結果が欲張る。
「で、言葉は短く。“血だけ止める”とか。“痛みだけ引く”とか」
「……『だけ』が大事なのね」
「うん。『だけ』は、境界線」
境界線。
その言い方が少し安心する。境界線があるなら、越えない努力ができる。
私は深呼吸して、周囲を確認した。人はいない。レティアも距離を取っている。よし。
「練習用の傷、どうするの」
私が言うと、スーリがにっこりした。
「ミオ、自分で小さく作れる?」
「作りたくない」
「でも練習したい」
「……したい」
会話がむずい。
私は鞄の中を探って、縫い針を見つけた。服のほつれ用。持ってて良かったのか悪かったのか分からない。
「ほんのちょっとね。ほんのちょっと」
自分に言い聞かせながら、指先をちくっと刺す。
「いっ……」
涙は出なかった。偉い。
でも刺した瞬間に後悔した。なにやってんの私。
赤い点がじわっと浮かぶ。
「じゃあ、いくよ。“血だけ止める”」
私は指先二本で、そこに触れた。
心の中で短く言う。
(血だけ。血だけ)
……温かさが、きた。
私は反射で肩をすくめた。
でも逃げない。逃げない。
すると、血が止まった。
それだけなら、成功。
なのに。
指先の荒れまでつるっとして、爪の形まで妙に整った。
「……いらない! そこまでいらない!」
私は手を引っ込めた。
スーリは首を傾げる。
「え、手も大事だよ?」
「大事だけど、いま求めてる大事はそこじゃない!」
スーリは「そっか」と素直に言った。素直すぎて困る。
「じゃあ次。『血だけ止める』って、ちゃんと言葉にして」
「言葉に……」
私はもう一回、ちくっとやりたくなかったので、さっきの針傷をそっと押して、ほんの少しだけ赤を出した。自分で自分を面倒みるの、方向性がおかしい。
「……血だけ止める」
声に出して言って、指先二本で触れる。
温かさが来る。
でも、さっきより小さい。
血が止まった。
指先は、つるつるにならない。よし。
「できた!」
スーリがはしゃぐ。はしゃぐと風が揺れる。草がさわさわする。余計。
「でも、最後、余韻が伸びた」
「余韻?」
「うん。止まったあとも、まだ続こうとしてた。だから——収束」
スーリは私の前に指を出し、小さな輪を空中に描いた。
鈴の音が、ひとつ鳴る。
「吐いて。輪っか小さく。ここまで、って決める」
私は真似をする。息を吐く。指先で輪を描く。
——輪が、でかい。
輪がでかいせいで、周囲の花粉がぶわっと渦を巻いた。
草がざわざわ揺れ、落ち葉がくるくる踊った。
「ちょ、ちょっと! 私の輪、でかい!」
スーリが笑う。
「気持ちがでかい!」
「でかくない! 繊細に生きたいの!」
「繊細って言いながら輪がでかい!」
「うるさい!」
遠くからレティアがこちらを見て、額に手を当てた。
……姉さん、すまない。説明できない種類のやつです。
私は深呼吸して、今度は本当に小さく輪を描いた。
「……収束」
吐く。輪。ここまで。
渦が止まった。
草が元に戻る。落ち葉が落ち着く。
私は、ちょっとだけ嬉しくなった。
「止められた」
スーリが頷く。
「止められた。ミオ、いまの、すごく上手」
「褒めないで。調子に乗る」
「褒めたら調子に乗るの?」
「乗る。絶対乗る」
私は羽ペンで、やらかしノートの端に書き足した。
・点で触る(二本まで)
・「だけ」は境界線
・収束(吐いて小さく輪/ここまで)
スーリが私の肩の横で、そわそわしている。
「ねえ、助けたいでしょ」
「助けたい」
「じゃあ助けよ」
「派手なのは禁止」
「うん。見守る。見守る……」
スーリは自分に言い聞かせるように繰り返した。
見守るという単語が、こんなに切ない顔を作るなんて知らなかった。
◇◇◇
市場へ戻る途中、嫌な予感がした。
——音が変わった。
ざわつきが、悲鳴混じりになる直前の、あの空気。
人が一斉に息を吸う気配。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間、荷車が段差で跳ねた。木箱が崩れて、果物が転がる。
人が慌てて避ける。
その中で、小さな影が転んだ。
「うっ……!」
子どもだ。膝を打って、擦りむいている。赤がすぐに広がる。
「大丈夫!?」
「誰か水を!」
「押さえて、押さえて!」
人が集まる。視線が集まる。
……集まるな。お願いだから集まるな。
レティアが一歩で前へ出た。
「下がって! 空気を通して! 子どもが息できない!」
声が通る。人が反射で動く。場がすっと調律される。
騎士の声って、こういうとき強い。
私は立ち尽くしかけた。
助けたい。でも、見られたくない。
その迷いの一瞬で、子どもの泣き声が一段高くなった。
痛みの泣き声。怖さの泣き声。息が浅い。
私はもう、歩いていた。
「水、ありますか!」
声が出た。噛まなかった。えらい。
露店の人が慌てて桶を持ってくる。
「これ!」
「ありがとう!」
私は膝の傷を水でそっと流した。砂を落とす。傷口が痛そうで、子どもが身をよじる。
「痛いよね。ごめん。ちょっとだけ、がんばって」
私はできるだけ低い声で言った。高い声は子どもを焦らせる。前世の経験が、こういうところだけ役に立つのは腹が立つ。
「息、吸って。はい、吸って。吐いて」
子どもは泣きながらも真似する。
呼吸が少し戻る。
私は布を取り出して、膝に当てた。
「押さえるだけ。動かさないで」
周囲の大人が覗き込む。
視線が刺さる。
私はあえて言った。
「砂が入ると化膿するから、まず洗う。あとは押さえる。——薬草師のやり方です」
薬草師って言うと、奇跡じゃなくて手当になる。
言葉で見え方を変える。いま必要なのはそれ。
子どもの膝から、じわじわ血が出る。布が赤くなる。
(血だけ止める)
私は指先二本で、布の端からそっと触れた。
面じゃない。点。
熱が来る。小さい熱。
(血だけ止める)
血が止まった。
止まったけど、傷は残る。擦りむいた赤い線はそのまま。
それでいい。いまはそれがいい。
子どもが驚いた顔をした。
「……いたく、ない?」
「ちょっとだけ楽になった。押さえるのが上手だったんだよ」
私は笑って言った。
嘘じゃない。上手だったのは半分本当だ。
でも、ここで終わらないといけない。
余韻が伸びる。勝手に綺麗にしたくなる。
“良くしたい”が、私の中で暴れる。
——違う。いまは境界線。
私は息を吐いた。
指先で小さな輪を描く。
(ここまで)
「……収束」
声に出すか迷って、小さく呟いた。
風が一度だけ鳴った。鈴の音が遠くで鳴った気がした。
終わった。止まった。
ちゃんと止まった。
私は布を新しいものに替え、簡単に固定した。見た目は普通の手当。
派手じゃない。派手じゃないぞ。よし。
周囲の大人がほっと息を吐いた。
「助かった……」
「手当が早いね」
「泣き止んだ」
私の胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
助けた。派手にしないで。助けた。
——その瞬間、スーリが私の肩の後ろでぶるぶる震えた。
「もっと良くできるよ……!」
声が弾む。善意が跳ねる。跳ねるな。
私は小声で言った。
「だめ。今は、だめ」
スーリは唇を尖らせて、でも頷いた。
「……ミオの平穏、守る」
その言い方が真剣で、私はちょっとだけ胸が痛んだ。
こんなに助けたい子を止めてるの、私が悪いみたいじゃないか。
……でも、止めないと私が終わる。
終わらないために、止める。
子どもの母親らしき女性が駆け寄ってきて、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
「いえ、押さえただけです。……押さえただけ」
私は言った。「だけ」を言った。境界線を引いた。
言葉の輪も、収束に似ている。
レティアが近づいてきて、私の肩に手を置いた。
「よくやった。……でも、ここまで。帰る」
「え、買い物——」
「段取り変更。帰る」
逃げ道のない口調。
でも、嫌じゃなかった。姉のこの判断は、私を守るためだ。
私は頷いた。
そのとき、遠巻きにこちらを見ていた人影が、ふっと視界に入った。
淡い服。落ち着いた姿勢。
エステルだ。
彼女は騒がない。近づいてもこない。
ただ、地面の一点を見ていた。
私がさっき“輪”を描いたあたり。
そこに、白い糸みたいなものが、一瞬だけ残っていた気がした。
——気のせい。
気のせいであってほしい。
◇◇◇
家への帰り道、私は遅れて震えが来た。
助けたのに、怖い。
上手くできたのに、怖い。
怖いのが消えない。
スーリが横でふわふわ浮かびながら、少し小さな声で言った。
「ミオ、さっき、止められた。すごい」
「褒めないで」
「でも、すごい」
「……褒めるなら、声小さく」
「小さく褒める!」
それ、意味あるのか分からないけど、ちょっと笑いそうになった。笑うのは悔しい。悔しいけど助かる。
レティアは前を歩きながら言った。
「しばらく、町で何かあるときは私が立ち会う。単独行動は禁止」
「命令?」
「段取り」
二回目の即答。
段取りという言葉、便利すぎる。私も使おう。
家に着くと、エンナ婆が待ち構えていた。待ち構える速度が早い。謎。
「上手く“手当”したねえ」
婆はにやりと笑った。褒めてない顔で褒めるの、やめて。
「……でも、匂いは消えてないよ」
私は喉の奥が冷えた。
「匂い」
「精霊の匂い。白い筋。見えるやつには見える」
スーリが小さく「ごめん」と言った。珍しい。
私は首を振った。
「謝らないで。……私が、止め方を覚える」
言った瞬間、背中に視線を感じた。
振り返ると、エステルが門の外に立っていた。
いつ来たの。風のように来るな。いや、風の精霊がいる時点で、風のように来るなは無理か。
「先ほどの手当、見事でした」
穏やかな声。
穏やかすぎて怖い。
「……ありがとうございます。押さえただけです」
私は「だけ」を付けた。反射で付けられるようになってる。成長。成長が怖い。
エステルは頷いて、さらに一歩踏み込む。
「もしよろしければ、救護の講習に参加しませんか」
講習。
参加。
名簿。
記録。
頭の中で嫌な単語が行列を作った。整列するな。整列すると強い。
「あなたを守るためにも、手当の手順を学んでおくのは有益です」
言い方が丁寧。
でも逃げ道が少ない。
断ると、逆に怪しくなるタイプの提案。
私は笑顔を作ろうとして、口角が固まった。
レティアが横から口を挟む。
「妹はまだ若い。無理はさせない」
「もちろんです。強制ではありません」
強制じゃない。
強制じゃないのに、断りにくい。
丁寧な囲い込みって、こういうやつだ。
スーリが私の耳元で囁いた。
「ミオ。風、隠す練習もできる。いっしょにやろ」
いっしょに。
その言葉が、不思議と胸の奥に落ちた。
私は息を吸って、吐いた。
輪を描く代わりに、心の中でだけ境界線を引く。
(ここまで。今は、ここまで)
「……考えます」
それが、私の精一杯の逃げ道だった。
エステルは微笑んで頷いた。
「ええ。無理はなさらずに。——ただ、噂は止まりません。止めるなら、こちらも手順が必要です」
手順。
その単語が、胸に引っかかった。
止めるには手順が必要。
それ、私もいま学んでいるところだ。
エステルが去ったあと、私は玄関の柱に額を軽く当てた。
「……努力して隠してるのに、努力の跡が残るの、理不尽すぎる」
スーリが小さく笑った。
「跡、消すのも練習できるよ」
「……できる?」
「できる。ミオが『だけ』って言えるなら、きっとできる」
私は目を閉じて、息を整えた。
そして、心の中でそっと言った。
(バレない予定。まだ、折れてない)
窓の外で、鈴みたいな音がひとつ鳴った気がした。




