第19話 おっさん、境界で仕事を始めてしまう
普段と変わらぬ村の朝。
ユージは村の井戸端で、木桶に水を汲んでいた。
肩書きが増えようが、王国だの魔族だのに名前を知られようが、
喉は渇くし、朝飯前の水汲みは必要だ。
「……辺境調停官、ねぇ」
木桶を持ち上げながら、ぼやく。
「全く実感ないんだけどな」
実態は、村の雑用係続行。
肩書きだけが一人歩きしている。
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「ユージさん!」
村の若者が、少し慌てた様子で駆け寄ってきた。
「どうした?」
「王国兵が……また来てます」
「何人?」
「三人だけです」
ユージは、少しだけ眉を動かした。
「……昨日より、少ないな」
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村の入口。
王国兵は、確かに三人だけだった。
しかも、昨日の連中とは違う。
装備も軽く、剣も鞘に収まったまま。
「辺境調停官ユージ殿」
先頭の兵が、ぎこちなく頭を下げた。
「巡回任務の報告に参りました」
「……報告?」
ユージは、内心でため息をついた。
(もう、そういう扱いか)
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「昨日まで、この一帯は“警戒区域”でした」
兵は続ける。
「ですが本日付で、“監視対象”に格下げされています」
「理由は?」
「……魔族側の動きが、止まったためです」
ユージは、ふっと息を吐いた。
「なるほど」
何もしなくても、空気は変わる。
いや、何もしなかったから変わったのか。
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「王国としては」
兵は、少し言いにくそうに言った。
「この村に、常駐部隊を置く理由がなくなりました」
「撤退?」
「はい」
村人たちが、遠巻きに息を呑む。
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ユージは、少し考えてから言った。
「補給路は?」
「え?」
「補給路を切るな。
巡回は続けろ。
“撤退”はいいが、放置はするな。
“見ている”状態を保つんだ」
兵は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに理解したようだった。
「……承知しました」
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「それから」
ユージは付け加える。
「村に何かあったら、俺に知らせろ。
勝手に動くな」
「ですが……」
「責任は、俺が取る」
即答だった。
兵は、深く頭を下げた。
「了解しました、調停官殿」
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王国兵が去った後。
村の空気が、ふっと緩んだ。
「……行った?」
「本当に、引いた……」
「何も、起きなかったな……」
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村長が、恐る恐る近づいてきた。
「ユージ殿……今のは……?」
「ただのけん制だよ」
ユージは即答した。
「無責任なことをすると、後で後悔するかもしれんと思わせた」
「それで……?」
「向こうが、勝手に納得した」
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村人たちは、ぽかんとしていた。
「それって……」
「すごいことじゃ……?」
「いや、すごくもなんともない」
ユージは首を振る。
「俺自身は何もしてないからな」
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その頃。
森の奥。
角の女が、部下から報告を受けていた。
「王国兵が、一部撤退しました」
「理由は?」
「……彼です」
「ふふ」
女は、楽しそうに笑った。
「面白いな」
「戦わず、命令もせず、
それでいて、流れを変える」
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「殺しますか?」
部下が問う。
女は、即答しなかった。
「……いや、まだだ」
「今は」
「境界が、彼を中心に回り始めたばかりだ」
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夕方。
ユージは、焚き火の前で木杯を傾けていた。
「……やっぱ、何もしていないって、無理があるよなぁ」
誰に言うでもなく、呟く。
「決めてたのになぁ」
だが。
村の子どもたちは、安心した顔で遊んでいる。
夜を怖がる者はいない。
「……ま、いいか」
ユージは、苦笑した。
「誰かの役に立てるってのも、いいもんだ」
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こうして。
おっさんは今日も、
何もしていないつもりで、境界を動かしていた。
次回作として
「左遷された辺境ギルド長、戦わないのに最強でした」を準備中です。
本日夜より短編を公開します。




