第154話 帝国の少年 ジン 前編
ネバランド帝国。
港町の夜は、昼とは違う賑わいを見せていた。
昼間は船乗りや商人たちの怒号が飛び交う港も、日が沈めば酒場に人々が集まり、一日の疲れを酒で流している。
そんな酒場の片隅で、一人の男が深いため息をついた。
「はぁ……。」
「浮かねぇ顔してるな。」
声を掛けたのは、隣へ腰を下ろした遊び人風の男だった。
日に焼けた肌。
無精ひげ。
豪奢ではないが、どこか洒落た着こなし。
誰にでも気さくに話しかけるその姿は、とても身分の高い人間には見えない。
「兄ちゃんも一杯どうだ?」
「ご馳走になります。」
二人は軽く杯を合わせた。
「何かあったのか?」
教官は苦笑する。
「私は、訓練生の教官をしているんですけど、一人問題児がいましてね」
「ほう。」
「問題児か?」
「ええ。」
「とんでもない問題児です。」
教官は一気に酒をあおった。
「剣術訓練はサボる。」
「操船訓練もサボる。」
「体力訓練なんて最初から来ません。」
遊び人は吹き出した。
「そりゃまた豪快だな。」
「いるんですよ。」
「しかも困ったことに、頭だけは切れる。」
「今日も港へ探しに行ったら、案の定、商売をしてましてね。」
「商売?」
「漁具ですよ。」
「見たこともない妙な道具を売ってるんです。」
遊び人は興味深そうに身を乗り出した。
「ほぉ。」
「面白そうだな。聞かせてくれ」
教官は苦笑しながら頷く。
「実は、今日こんなことがありまして……。」
◇
昼。
港町は、いつものように活気に満ちていた。
「へい、いらっしゃい!」
「今日は面白い物があるよ!」
港の一角。
一人の少年が、小さな露店を開いていた。
露店に並ぶのは、木で削られた小魚や細い竿、見慣れない金具。
通りかかった漁師が足を止める。
「坊主。」
「これは何だ?」
少年は木製の小魚を持ち上げた。
「釣り用の餌だ。」
「餌?」
漁師は鼻で笑う。
「こんな木のおもちゃに針を付けただけで、魚が食い付く訳ねぇだろ。」
少年はにやりと笑った。
「じゃあ。」
「見てなって。」
一本の竿を手に取る。
その竿には、不思議な糸巻きが取り付けられていた。
「何だそりゃ?」
「竿と糸巻きがくっ付いてるのか?」
「ああ。」
「これはリール。」
「遠くまで投げられるし、大きな魚とも勝負できる優れ物なんだ。」
ヒュンッ。
擬似餌が沖へ向かって飛んでいく。
少年はゆっくりと糸を巻いた。
「こうやって巻くと、生きた小魚みたいに泳ぐんだ。」
その瞬間だった。
ゴンッ!
竿が大きく引き込まれる。
「おっ!」
「かかった!」
竿が弓なりに曲がる。
「よーし……。」
「暴れるなよ。」
少年は慌てることなく魚をいなし、少しずつ足元まで寄せていく。
「今だ!」
サッ。
網ですくい上げられた魚が、銀色に輝いた。
「どう?」
少年は得意げに魚を掲げる。
漁師たちは目を丸くした。
「すげぇ!」
「餌も使わずに!」
「しかも陸からこんな大物が!」
一人の漁師が叫ぶ。
「おい、坊主!」
「その竿とリール、それに餌!」
「全部まとめて売ってくれ!」
「毎度あり!」
「俺にも!」
「こっちにも!」
「順番、順番!」
少年は笑顔で商品を手渡していく。
「あはは!」
「今日も儲かっちゃったな!」
革袋の中で、硬貨が軽やかな音を立てた。
その様子を、少し離れた場所から見つめる男がいた。
訓練教官である。
額に青筋を浮かべ、拳を握り締めている。
「……ジン。」
低い声で呟く。
少年はまだ気付かない。
商売に夢中である。
教官は大きく息を吸い込んだ。
「こらぁぁぁぁぁ!!」
港中に怒声が響き渡る。
少年の肩が、ぴくりと震えた。
「ジン!!」
「お前、また訓練をサボったな!!」
少年はゆっくりと振り返る。
そして、乾いた笑みを浮かべた。
「……やべっ。」
◇
酒場。
そこまで話すと、教官は杯を置いた。
「……という訳です。」
「本当に手の掛かる奴でしょう?」
遊び人は腹を抱えて笑っていた。
「はっはっは!」
「いや、面白ぇ小僧じゃねぇか。」
教官は呆れたように肩を落とす。
「笑い事じゃありません。」
「あいつは帝国の訓練生なんですよ。」
遊び人は酒を一口飲み、口元を緩めた。
「それで?」
「捕まえた後はどうした?」
教官は深いため息をつく。
「それが……。」
「あいつは、捕まった後も、ただでは終わらなかったんですよ。」




