第9話・沙和音‐プロローグの法廷を後にして。
はじめに著者より、読者諸氏に第9話のアップが当初のアップ予定を超過して大幅に遅れましたことを、深くお詫び致します。著者の私もできる限り取材を基にした緻密なストーリー作りに心がけているのですが思いの他、著者の遅筆とが相まってペンが止まった状態が続いてしまいました。
読者諸氏にお見せできるほどの文章がなかなか書けずに、著者もジレンマを感じてはいるのですが冬の寒さから、ついつい布団から出られないままの朝寝坊を繰り返してました。
さて、第9話ですが裁判所からの帰りに、様々さな思いに馳せてまだたまだ悩んで揺れ動く主人公沙和音の気持ちを描いてみました。創作当初はもっと明るい沙和音のキャラを本当は想定していたのですが、これから明るいキャラへと移り変わっていくと思います。すなわち、それが本作品のキャラが困難を乗り越えながら成長を遂げて行くという、狙いでもあります。
では、前置きが長くなり、まだたま拙く未熟な文章ではありますが主人公沙和音が困難に立ち向かいながら、少しづつ成長して行く様子を、ご一読ください。
なお、この作品のストーリは、沙和音と室杜の様々な掛け合いなくしては意味が分からなくります。なのでストーリーが明後日の方向を向くような展開になってしまってますが、前話からストーリーを修正した都合上から、敢えて今回のストーリへの展開となりました。
初めての裁判体験は、何か期待外れをしたような感じの、あけっけない程の幕開けだった。帰路へ向かう電車が自然と揺れながら走行するように、裁判官の発した一言一言が沙和音の脳裏で自然に揺れ動いて、幾度も反芻させた。
「原告は、訴状陳述ですね」
白髪交じりの髪をベリーショートで整えた50歳を超えたであろうと見える、裁判官がメタルフレームの眼鏡を少しずらした。それから濃い眉毛の下の温暖な目許で、沙和音を一瞥して言った。
「はい」とだけしか、沙和音は答えるしかなかった。
「被告の方は欠席のようですが、答弁書が提出されてますので、出席しているものと看做します」
「……」ここでも、無言で頷くしかない沙和音だった。
「では、原告は被告の答弁書にさらに反論があれば、次回期日までに早めに書面にして、提出してください。」
「あっ、はい……」
「それから、証人のことについては、今後の審理状況により採否を決めますから」
緊張感で汗が滲み出でくる額に、ハンカチを軽く当てて沙和音は、またしても頷くしかなかった。
「では、次回期日ですが……」
裁判官は手元の書類をペラペラと捲りながら、事務的な口調で次回期日を沙和音に告げた。その日と時間で都合はいかがですかと、沙和音の方へと裁判官は再び一瞥をくれた。
はい。大丈夫ですと沙和音が答えると、では、今日の審理はこれで終わりますと、事も無げに「では、次の審理に移ります」と、裁判官は廷吏職員の方向へ言葉を投げた。
廷吏職員が手元の紙面を見つめながら、次の審理であろう事件番号と原告・被告の氏名を読み上げた。
沙和音は、トートバックと机上に置いた書類を取り上げて、慌て急いで法廷の外に出て、空席の傍聴席に腰を下ろした。
緊張感を解離すように、軽い深呼吸を何度か繰り返して、沙和音は息を整えた。
沙和音の次に法廷に入って行った人は、かなり年配の女性だった。その女性を気を抜けたように、ぼんやりと沙和音は眺めていた。
初めて挑んだ口頭弁論は、僅か4、5分程度の法廷内でのやり取りで終わった。
相手から答弁書が提出されているなら、今日は早く終わるはずだよ、と室井からの助言は受けていた。麻未も眞理恵も、そして証人になってくれる予定の、理奈さえも傍聴席にはいなかった。もっとも、皆には仕事があるのだから仕方がない。
でも、一抹の不安を支えてくれる仲間がいない状態で見えない相手と闘うことには、やはり心許なさを感じるのは否めない。
就活のために買った、リクルートスーツに身を包んで気合を入れたつもりだったが、少し気負い過ぎたのか沙和音の頭の中で考えていたことは、杞憂に終わった。
良真側の答弁書に、もっと何かを言い返してやりたいと、強い念を沙和音は抱いて今日に挑んていたからだった。
こうして揺られる電車の車内にいても、あの答弁書を手にした際に覚えた、手の震えが蘇ってくる。
《請求の趣旨に対する答弁》
1 原告の請求を、いずれも棄却する。
2 訴訟費用は、原告の負担とするとの判決を求める。
《私の言い分(請求の原因に対する答弁)》
【原告と被告間の、恋人契約成立の経緯について、被告は次のとおり否認する。】
1 第1の1項記載事実中、原告・被告が神奈川県立□□高校の卒業生であることは認める。同高卒業後に原告が主張する同窓会の催しにし、被告が出席した事実も概ねは認める。
その他の、原告の主張事実は被告は否認ないし争う。
2 第1の2項記載事実中、本件訴外の武原理奈の存在は認めるが、同人を介して被告が原告に電話連絡したとの事実は否認ないし争う。
3 第1の3項記載事実中、原告と被告が合意の上で交際時期に遡及して、恋人契約が成立したとの原告の主張事実はその全てを否認ないし争う。
【被告に対する貸金事実については、被告は次のとおり全て否認する。】
1 第2の1項記載事実中、原告から、金5万円が被告名義の銀行口座に入金があったことは認める。しかし、その金銭は、被告が以前から欲しがっていた腕時計を買う費用の足しにしてと、被告の誕生日前に原告から贈与された金銭である。
その他の、第1の1項ないし2項記載の原告の主張事実は全て、否認ないし争う。
【原告と被告の恋人契約の破局原因について、被告は次のとおり全て否認する。】
1 第3の1項記載事実中、原告は被告と恋人契約が成されたと主張をしている。しかし原告と被告は、男女としての恋人契約の存在はなく、いわゆる友達同士の関係性しかなかったものであるから、この点については、原告の主張は失当であることは、も早明白である。
2 よって、第3の2項から同5項までを被告は全て否認ないし争う。
また、原告が精神的苦痛を被ったとする、原告個人の緒事情については不知とする。
但し、平成〇年11月12日に被告が原告の勤務する会社近くまで行く私用があったので、その私用が済ん後に「カフェ・Bay‐SIDE」で原告と会ったことは、積極的には被告は争わない。
【結語としての原告の主張については、被告は全て否認ないし争う。】
1 第4記載事実中、同1項ないし2項までの原告の主張事実については、被告は全て否認ないし争う。被告は原告と友達以上の男女間の交際はなかったことは、も早明白である。又原告と被告間において、恋人契約が成立していたとの証拠は提出されていない。
【被告の主張】
1 被告は原告と友達としての関係しかなく、男女の域を超えて恋人契約が成立したとの原告の主張は、主観に基づくものであり原告と被告とが、恋人関係であったとの思い込みを強く抱いていると思われる。
2 さらに原告は、金銭の贈与について主観的に貸金であるからとして、返済を求めているのである。しかし、贈与は履行を終えた後では取消すことができないのは、民法の規定するところである。
そうすると、被告は原告に返済すべき金銭債務は何も存在しないのは明らかであり、この贈与関係が貸金であったとする証拠も、他には存在しない。
3 従って、原告の主張する事実は全てにおいて失当であることは明白であるから、速やかに原告の本件請求を棄却することが相当との判断を、被告は当裁判所に求めます。
以 上
この嘘で固められた答弁書を、沙和音は何回読み返しただろうかと、思い返しては唇を噛み締めた。
郵送されてきた答弁書を読み返して行く途中に、涙が溢れそうになり怒りが込み上がって来るのを、ただただ、じっと沙和音は堪えた。
もう、泣かないと決めたのに、止めどもなく涙が頬を伝って落ちて来た。あんな良真のことなんか何も考えたくない。そう思っても沙和音の脳裏では、あの日あの時の出来事がフラッシュバックして、走馬灯のように駆け巡って行った。
良真と初めて2人で食事をしたのは、チェーン展開する讃岐うどんの店だった。安くて美味しいからと言ってセルフのネギを、うどんどんぶりに山盛りで入れている様子が、妙に可笑しかった。天ぷらも一品の値段は安いし、確かにうどんも美味しかった。沙和音は、せめてファミレスぐらいにしてよと思っていたけど、そう言う気取ることなく、最初から普段どおりの姿を見せる良真の姿に、返って安心感を覚えた。
夏の残暑が残る日に、2人で観た映画は「君の名は。」の、アニメーションだった。少女と少年が会ったこともない、お互いを探し求める。
そのキーワードが「君の名は」だった。可愛らしい少女が、大きなスクリーンの中を必死に走り回る姿に共感した。ちょっと泣いちゃったねっと、目頭にハンカチを当てながら、良真に感動の笑みを向けたのを今でも、はっきりと覚えている。
中華街で食事をしたのも、この映画を観た帰りだった。横浜公園のベンチで2人で座っていることが、何でもないように感じられるようになっていた頃だった。
あれは、何時頃だろうか。居酒屋で一緒にお酒を飲んで、路上で初めてのキスをした。
あの日には、良真の運転で箱根へドライブに行った。ダイハツの軽自動車ミラを中古で買って、通勤用にしていると言っていた車だった。
そして、初めて良真に抱かれて眠った大切な日でもあった。
月日が流れるに連れて、ケンカをした。そして、笑った。仲直りの証として又キスを許した。沢山の写真を、スマートホンで撮った。笑った顔。怒った顔。ちょっと苦笑いした顔。満面の笑みの顔。
人と人とを結び透けている思い出の全てが、柔いガラス細工の様に割れて砕け散った。
砕けた破片や微粒子が、まるで架空の出来事の様に遠い遠い過去の世界へと、タイムスリップして逃げて行くような思いに、沙和音は駆られた。
答弁書を握り締めたままの姿勢で、沙和音は床に腰を落として、膝枕付いて座った。
誰だっけ?―――――――
君の名は?――――――
被告の氏名欄を見て、こんなデタラメな嘘を平気で付くような人の名前なんか知らないっと、気力を振り絞って小さな声を発して、良真の存在を打ち消そうとした。
そしてなおも、溢れ出て来る涙を、右手首の袖口で何度も拭った。
何故、人間はこんなにも嘘が平然と付けるのだろうか。そして、こんな嘘が裁判所で罷り通るのだろうか。
そんな訳がない。そんなのはおかしい。沙和音は懸命に答弁書の嘘を否定し続けた。
私は、良真からピエロを演じさせられていただけなのか。それとも、振られただけの男に対して悲劇のヒロインとして、被害観念を強く抱き過ぎて心が折れているだけなのか。
見えない何かに操られているような、ネガティブな思考ばかりが働くのは、きっと自分の本意に基づくものではなく、僅かな弱さの一部分の表れだと沙和音は考えを改めた。そして、ありったけの力で跪い突いた床からゆっくりと立ち上がって、虚勢を張るような笑みを浮かべ、悲観的なマイナス要素を払拭した。
思い耽っていると、電車が馬車道駅に到着した。午前中は私用による欠勤扱いなので、お昼を食べている時間がなっかた。
仕方なく、コンビニでサンドイッチと飲み物を買って、会社への方向へと急いで歩いた。今日は、欠勤扱いの時間帯を残業をして補うことになる。会社の規則で法定労働時間の8時間を超えないと残業代は支給されない。つまり、就業・終業時間の繰り上げ、繰り下げだ。
室杜の話によれば、これは労働基準法からも違法とはされないらしい。但し、深夜10時を超える深夜労働は割増賃金の対象になるらしいが、今はそんな事を考えている余裕が沙和音にはなかった。
目の前に与えられた方程式を解くよりも、方程式を組み立てたり正しい答えを導きだすことが大切だからだ。例えば、解を特だけでは足りず与えられている問題に対してどのような答えが望ましいかを、じっくりと考えるのと同じことに等しいと、沙和音には思える。
欲しいのは働いて得る給料よりも、今の裁判を自分の手で乗り切る勇気だ。だからと言って、仕事をお座成りにすることは社会人として失格であるとの、強い認識は持っている。
会社へと向かう足を弁天橋の途中で止めて、海へと水流が向かう方向を眺めた。
沙和音は答弁書を受け取ったその次の日の日曜日に、図書館に行ってみた。
もし、図書館で室杜に会えたら、私の話を訊いてもらいたいとの内心的意思が、沙和音の心の中に留保されていたからだ。
やはりその日、室杜は図書館にいた。机上に顔を落としていた椅子から立ち上がって、軽い伸びをして、学習室から室杜は出て来た。
本棚の側をうろつく沙和音に気付いて、先に室杜の方から声を掛けて来た。少し躊躇いながらも、沙和音は自分の裁判が迫って来たことに対する今の苦しい心境を、室杜に話し始めた。
ここでの話も何だから、ちょっと外に出て話そうかと室杜は言った。
沙和音も頷いて、室杜と一緒に図書館を出た。
「今は司法書士でも、所定の修習を経て法務大臣の認定を受ければ、認定司法書士として簡易裁判所の代理権が与えられてるんだ」
グラスの水を軽く一口啜って喉元を潤してから、室杜が言った。
室杜と沙和音は、図書館から程近い喫茶店に入っていた。あいにくと店内が全面禁煙だったので、室杜は苦笑を浮かべて出しかけたタバコを、ジャケットのポケットに閉まった。
「どう違うんですか、弁護士とは?ネットで調べても、あまり良く分からなくって…」
沙和音は答弁書に記載されていた「訴訟代理人認定司法書士」と称することの意味が、今一と理解できないままだったので、抱いていた素朴な疑問を室杜に訊いた。
「そうだなあ、まあ、簡単に言えば土地や建物の不動産登記とか、個人や企業からの依頼を受けて、法律関係の書類作成を代行とするスペシャリストかな。例えば、会社などの法人設立の商業登記手続きの代行とかさ」
室杜は運ばれて来たブレンドコーヒーにミルクを入れて、スプーンで軽くかき混ぜた。
沙和音は、レモンティーに少しの砂糖を入れて、少し首を捻りながらスプーンで混ぜ合わせた。室杜の言っていることが、謎めいた魔法の呪文のように聞こえるからだ。
「でも、法律の専門家ってことでは、弁護士と同じじゃあないんですか?」
「仕事の業務範囲が弁護士と違って、裁判事案を扱えるのは簡易裁判所のみなんだ。だから簡易裁判所の事件でも刑事裁判の代理人には、司法書士はなれないんだ」
室杜は啜っていたコーヒーカップをソーサー皿に戻して、話を続けた。
「それに弁護士は司法試験を受け法曹資格を得るけど、司法書士は司法書士の資格試験を受けるので試験の難易度は、司法試験の方がぐっと難解だしね」
「でも、やっぱり専門家には変わりないですよね。そんな専門家が出て来るとは、ちょっと自分の考えが迂闊で甘かったのかなって、私には思えて…」
「どうして新堂さんは、そう思ってるの」
「それが……」
沙和音は俯いた姿勢で、言葉を濁した。暫くの間、沈黙の重たい空気が流れた。沙和音は奥のテーブルで和やかに談笑する3人の女性グループに、ふっとした一瞥を向けた。
今の私って、性格が暗くなっちゃってるのかもっと、一瞥した女性グループと自分を比較する思考が、脳の片隅に一瞬過った。
「どうしたのさ。そんなに不安なの、司法書士のことが」
「だから、本当に私1人で大丈夫なのかなって、あの答弁書を読んでからずっと…」
精神的もろさが、沙和音に弱音を吐かせた。
「答弁書?そっか。相手は新堂さんの請求の棄却を求めてる。だから、そこで司法書士が本人に変わって、プロの眼でアンチテーゼを展開してきたってところかな」
「そう言われれば確かに、そのとおりです。答弁書の内容が嘘だらけで…」
「なら、そんな嘘に惑わされないで、それに打ち勝たないと。自分の正義のテーゼの方を信じることが大切だからさ」
「でも、専門家の人を相手にやっぱり1人なのは、何か心細いって言うか不安て言うか」
沙和音は、裁判問題が暗礁に乗り上がって、進捗を見せない状況下に陥っていた。
「その思いは、新堂さんだけじゃあないさ。本人訴訟を始めてする人共通の悩みってことだと、僕的にも思うけど」
「だけど私も、司法書士って方に裁判を依頼した方が良いのかなって、思ったり」
憂鬱な顔を浮かべ続けている沙和音の気持ちのその中には、司法書士と言うプロの法律家は脅威の存在に映し出されていた。とても素人の私が太刀打ちできる相手ではないとの思いが、胸の中で凝縮されていた。
以前、冬樹ほのか法律事務所で相談して、本人訴訟という術に辿り着いた安心感があった。しかし、その時点では、相手の良真の代理人の事まで沙和音には考える余裕がなかった。それからも、訴状の作成や反訳書の作成に追われてしまった。そして今になって、抱いていた希望が少しづつズレて行き、歯車が噛み合わなくなって行くようなプレッシャーが、沙和音に重く圧し掛かっていた。
橋の欄干に両手を乗せて、海の方向を眺めながら物思いに耽っている自分から、沙和音は、はっと我に返った。そのまま、踵を返して会社の方へと足を向けて歩き出した。
初めての口頭弁論を終えたのに、会社へ向かう途中にまだまだ、沙和音の頭の中には、色々な迷いが生まれる。本当にこれで良かったのだろうか。
何故に、杞憂な思いが打ち消せないのだろうか。もう、裁判は始まったのに。
これは、良真に対する未練なのか。それともただ女として、我意の現れを否定しようと自分1人で煩悶しているだけなのか。
沙和音の気持ちは、揺れ動く。今更もう後戻りはできないし、何もしないまま泣き寝入りするのは、それこそ精神的に沙和音には耐えがたい。
沙和音の脳裏に再び、あの日の図書館での室杜の言葉の続きが否応なしに反芻する。
「さっきも言った様に、不安なのは誰でも共通して同じさ。僕だって大学を卒業する前に、本人訴訟で裁判所の法廷に入った時は、胸が破裂するかと思うぐらい緊張したし」
ティーカップを睨むような視線を落とし、迷い続ける沙和音に室杜は自分の本人訴訟の体験談を話し出した。
「えっ?室杜さんにも、そんな経験があるんですか?」
「うん。ちょっとしたことでね。て言っても、僕の場合は……」
沙和音がティーカップから視線を上げたのを見て、室杜は苦笑気味に言葉を繋げた。
「ああ、ゴメン。ちょっと今は会社じゃあないから、ここでは俺って言うから。ほら、会社では営業だから俺って使えないし、顧客には必ず敬語で接するので、会社外で人と接する際には、そんな堅苦しい枠に嵌りたくないんだ。だから、アイドリングトークも必要ないってのが本音だから」
どうぞ、気にしないでください。と、少しの笑みを浮かべて沙和音が言ってから、室杜はコーヒーとグラスの水を交互に少し口に啜って、その話を続けた。
室杜は大学時代に住んでいたアパートの退去の際に、本来は敷金とかの返還がなされるのに、逆に、高額な部屋のリフォーム代を家主の代理人の管理会社から請求されたという。ちょっと理不尽な請求に驚いて、法学部の知り合いに相談してみると、故意や過失のない室内の自然消耗や劣化は、部屋の借主には現状回復義務がないのを知った。
不当なリフォーム代金の支払から免れため、苦肉の策として敷金全額の返還を家主側に求める訴えを、簡易裁判所にしたと言う。
思い出に残すつもりで当時の室杜は、携帯のカメラで入居時の室内と退去後の室内を、たまたま撮影していたと言う。
「それで、どうなったんですか」
室杜の話す本人訴訟の経験談の内容に、沙和音は好奇心を抱いていた。
「もちろん、敷金の全額返還の判決をもらったよ。決め手となった証拠は、俺の携帯で撮影していた室内の画像だったんだ。こうやって、やったーって、思わず叫んでた」
室杜は、送られて来た判決書を見た時にやったという、思い出のガッツポーズを沙和音にして見せた。その直後に周りの眼を意識して、罰が悪そうに右頭部の髪を掻いた。
「そうなんですか。何だか、とても難しい裁判をしたんですね」
室杜のしたガッツポーズを見て、沙和音は零れそうな笑いを堪えて言った。
「いや、難しいって言うのはそれを知らないからさ。知っていることは難しくないわけで。だから、解けなかった問題が1つ解けた時って、誰でも喜べるんじゃあないかな」
「そうですね。確かにそう思います」
「新堂さんだって、今抱えてる問題は必ず解けるさ。訴状だって自分で作れたんだし」
まるで家庭教師のように、沙和音の長所になる点を室杜は褒めるのだった。
「それはまあ、自分で作ったことは確かですけど、室杜さんのアドバイスや麻未さんや眞理恵さんが、応援して励ましてくれましたから」
「それが、自分の力さ。読書百遍義自ずから見るていうぐらいだから、どんな難しい問題でも人には解く力があるし、必ず解けるんだ。その過程で人が支えてくれるだけさ」
あくまでも、沙和音の自発的やる気を促すようなロジックを、室杜は口に出した。
「今の私は、まだ眼の前の難しい問題を解いている真っ最中ってことですね」
「そう。そこから引き返していては、困難な問題は何時までも解けない。例え、難関な試験を突破できなかったとしても、結果としては頑張ったと評価できるからね」
「私も、もっと頑張って難しい問題に取り組む姿勢が必要って、ことですね」
「逆に言えば、簡単な問題なんて存在しないんじゃあないのかな。パラドックス的に考えればだけどさ」
沙和音の表情に明るさが灯るのを、室杜は見逃さなかった。少しずつ室杜の言葉から感化されて行き、落ち込んだ気持ちから回復しようとする沙和音が、そこにいた。
「私、頑張ってみます。本人訴訟で。ここで諦めていたら今までしてきたことが、全て無駄に終わってしまいますから」
「そう。焦らず無理せず1つずつ、問題をクリアーして行けば良い。人間の人生なんて与えられたテキスト問題を解きながら、一歩ずつ前に歩い行ってるようなもんだからね」
室杜は自分の言っていることが、全てにおいて正しいとは思っていない。その正しい根拠があるとしたなら、過去に大学生の頃の自分が法律問題で困った時に、同じことを言って励ましてくれた、大きな存在があったからだ。その存在が、室杜の司法書士資格への勉強へと道を切開いてくれた。だから室杜的には、理に適っていると思っている。
「これからもっと、民事訴訟について勉強してみます。私なりに」
「その意気さ。努力はきっと報われる。努力に勝る天才はなしだからさ」
「そんな、天才になんてなれませんよ」
沙和音は謙虚に、室杜の言葉を交わすように言った。
「不安なのは、リングに上がってゴングが鳴るまでさ」
「リングって何ですか、それ?」
「いや、例えばボクシングの話だよ。ボクサーはリングに上がるまで恐怖心と闘っているって言うからね」
室杜は腕時計を一瞥してから、グラスの水を飲み乾した。
「恐怖心に負けないで勇気を持って、立ち向かうってことですね」
「うん。そういう強い勇気を持って挑む新堂さんには、誰も敵わないさ」
「それは、ちょっとオーバーですよ」
室杜の仕草に釣られて、沙和音も自分の腕時計を一瞥した。それから苦笑を交えて室杜の営業染みた、社交辞令的トークを否定した。
「いや、決してオーバーじゃあないさ。闘う相手に優しさや情けは不要だからね」
痛いところを突かれたと、沙和音は思った。つい、相手のことを思って言いたいことを言い返せない弱点がある。あの時もそうだ、俺たち別れようと言われた時だ。
「だから新堂さんなら、必ずやり遂げられるって。自分の力でね」
自分の弱点を克服させるために、セコンドがリング上のボクサーに暗示を掛けるような言葉を、室杜は沙和音に投け続けた。
室杜の話を訊いていると、自然に勇気が凛凛と湧いてくるように、沙和音には思えた。主観的思考でしか自分を捉えることしかできない今の沙和音と比較して、室杜の話は物事の本質についての価値観の相違がなく、正しく客観的立場からのオピニオンを提言しているとも言える。
沙和音自身、今まで裁判の世界観なんて考えたこともなかった。たまにテレビのニュースや新聞で裁判の報道がされても他人事のように思っていたし、現実的にも自分とは掛け離れたどこか遠い世界の出来事の話と思っていた。それが、自分にとって現実に起こっているのだから、長い間壊れなかった壁が突然に大音響を轟かせて、崩れてしまった様なものだ。その壁を壊したのは、他の誰でもない沙和音自身なのだから。その壁の向こうにある、未知なる新しい世界に挑むのは、勇気を持って真実を追求するためだ。
そんな感傷に浸っていたら、ふと目線が室杜とぶつかった。
沙和音も室井も、お互いが少しはにかんだ笑みを浮かべた。その視線を少し逸らして、沙和音は室杜に感謝の笑みを見せた。
室杜は自分を信じていれば、自然法則によりきっと良い結果が巡ってくると、付け加えてくれた。
良真との恋愛破局事件とでも言うべき紛争の解決策を裁判所に求めて、初めて今日、法廷に入った。裁判所の権威と重圧感のようなもので、小さな胸が押し潰されるような緊張感に包まれ、とても長い時間が経過したかのような感覚に陥った。
その時間、僅か4、5分だった。そのたった4、5分されど4、5分が民事訴訟ではプロローグとして、今後を左右する大きな意味を持つ。
沙和音は会社の前で立ち止まり、ガッツポーズをしてみた。勝利のガッツポーズではない。これから歩くかも知れない、勝利のロードへ向かうためのガッツポーズだ。
室杜がしたガッツポーズはこんな感じだっただろうかと、天に突き上げた右手の拳を見上げた。やはり、どこか滑稽な自分の姿に思わず沙和音は、失笑の表情を浮かべた。
次回の口頭弁論期日は、3月12日の午前11時からだ。
真っ青な冬空から、もう春が近くまで来ているような暖かい午後の日差しが、沙和音の身体全身に射している。
今のブログレムから、ソリューションを導くのは、まだまだ時間と更なる法律知識が必要だと沙和音はポジティブに民事裁判に対する現実を、改めて見詰め直した。
第10話に、つづく。
現在引き続き、第10話を執筆中です。いよいよ、本格的に裁判所で良真と闘って行く主人公沙和音の奮闘を描いていきます。泣き虫沙和音を返上し、強い信念で法律問題に立ち向かって邁進して行く様子を描いて行きます。
なお、アップ当初に誤字・脱字等が見られますが折をみながらストーリーの加筆・修正と共に訂正して行きます。
また、ブログ「hiroki‐isの日記」に本話の舞台設定のモデル地となっている裁判所と日本大通りの街並みの画像をアップしております。
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